声を発する時、空気を吸い込み、声帯を振わせる等の行為は、無意識に肉体を操作し行われている。
よりミクロな視点でそれを考えれば、小さな細胞を動かしている事になる。
それでは、その小さな細胞に意識はあるのだろうか。
声帯を振わす細胞に、意識等無いというのが普通の考え方だろう。
意識とは、脳細胞が密に集まった頭の中から生まれ出されるように考えられており、その密に集まった脳細胞によって知覚が行われ、それと同時に命が発生している。
密に集まった脳細胞の中に、善悪、好嫌、等の感情やアイデンティティがあり、他人もまた同じような物を持っているという捉え方をしている。
このような捉え方では、私と、あなたは分離しており、この捉え方が世の中の大半を占めている。
ワンネス的な捉え方とは。。。
誰かに声によって文句を言われれば、動揺が発生する。
声はミクロな視点で見れば細胞の振え、マクロな視点で見れば、脳細胞が集まった意識の表現として捉えられる。
動揺が発生する時は、マクロな視点で相手を見ている事になる。
であるならば、ミクロな視点で物事を見るようにしてはどうだろうか。
他人を意識のアイデンティティとして見るのでは無く、細胞レベルで意識し観察する。
相手の存在を意識する時、マクロ的なアイデンティティレベルで意識するのでは無く、相手の肉体の一つの細胞に注視して相手を意識する。
一つの細胞には意識等存在しないと考えてしまうが、その捉え方は、まだ人間的思考の術中にはまっている証拠だ。
細菌やウイルス等に、人間的な論理的な思考は無いと思うが、彼らだってこの世界を知覚し、意識している。
ワンネス的な捉え方は、彼らのような無思考なミクロの生物にも備わっている「在る事を見る者」という、シンプルな意識を取り込む事ではないだろうか。
思考では無い命への気付き。
相手の一つの思考無き細胞に注視し、その細胞を「見る者」の存在を感じる時、その「見る者」は、私の思考無き一つの細胞を「見る者」と同一である事に気付く。
そう捉える事が出来たのならば、他人を裁く事も少なくなる。
好きな歌手がいるのであれば、その歌を聴きながら、その歌手の声を出す思考無き細胞の震えを意識してみるのがいい。
その歌手が歌手自身の細胞を見ている「見る者」と、私の中の「見る者」が同一であると感じられる時、私はその歌手になったような感覚を感じる。
私は歌が下手であるからこそ、その歌手の歌声に魅了され、喜びを感じる事が出来る。
これは二元性の世界の楽しみ方なのかもしれない。