「教育」の問題でも、現代社会の様々な問題でも「人間が生きて行こうとする営み」そのものなのですから、「いのち」に対して深く感じとる意識は誰にとっても不可欠です。

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・『いのち』は所有物ではなく預かっているものなんです。だいたい、自分の命が「いつ入った」のかも、「いつ出ていく」のかも知らないんだよ。
 やっぱり「いのち」は『与えられ、奪われるもの』なんだよ。         (平成元年九月例会)


・『命はこれっきり』と思うようになったから、今はこの世に生きているうちのことしか必要ないと考えている。        (昭和六十二年十一月例会)

・「命を大切に」というのは『命は自分のもの』とやったことになる。命は自分のものではないのに。フッと粗末にしたくなった時の対策を考えておかなければならない。          (平成五年新年会)


・主体的に生を受けた者はいないはずなのに、命は私の所有物と思って『私が生きている』なんてやったから狂いが生じた。
 本当に天から与えられたそのものは分からないが、持たされた生命を自分なりに解釈し生きていこうとするのが人間。        (昭和六十三年合宿)

・ いのちの『所有権』は与えられているけれど、自由にはならないんです。自分のでもないんです。
              (平成元年十月例会)


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NHKで「ちゅらさん」という連ドラの再放送がはじまったというのを先ほど知って・・・それをきっかけにこれをとりあげました。

「病院勤務」「子育て」が大きな柱となって、それを非常に多様な角度からユーモラスに、時にシビアに描いています。
特に「おばぁ」や、主人公の「お母さん」のセリフは珠玉のものが多いです。

まさに以前特集したこのことの、大人版ドラマです。

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー9
「テレビ作家の教育力」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845368943.html


壮大な「いのち」の流れ という視点をふまえると、上原先生のこんな言い方になります。

 教師は、あの世から世の人々を導くためにやってきたようなものなんですから、だから教育の仕事は『人々をあの世に送り込む』仕事なんです。だから、いつでも「人間はいかなる感覚で世の中を見ようとしているのか」を見守っていなければならないんです。(大学講義より)

日々の教育は現実対応にどうしても追われてしまいがちですが、こうした視点をきちんとふまえると、時に理不尽な要求に対しても広い意味での「公教育の専門家」として毅然とした態度もとれるのではないでしょうか。


*こちらでも ちゅらさん がらみで書いています。
上原輝男記念会ブログ
「個人の心も伝承の流れの内」
http://jigentai.blog.shinobi.jp

物語文を通して「感情・イメージ」などを扱うという話題ですが、すべての教科の教材にあてはまる考え方です。

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・ 今までは、教材を見てね、この教材をこんな風に教えれば効果的じゃないか、ってそんな事ばっかりやっているわけ。だからどんどん子どもがそっぽを向いてしまう。

 ところが「子どものイメージの問題なんです」と、「潜在的なイメージの問題を我々は解決する為に、教育者は存在しているんです。」と言った方が世の中の人達は「なるほど」と言ってくれるんです。(平成初期)


・ 子ども達のイメージ活動へ還元させるかという問題でしょ。そのための刺激剤として、この「サンマの化石」という教材は非常に格好な刺激剤であるとしなければならないわけでしょう。そういう感じで読まないとだめです。

これは不適当であるというなら教材を変えないといけないし。それで良いをするならばこういう処理が必要だ、ということを考えなければいけないし。何が故にこれが適当なのか、という事を先ず出さないと。            (平成元年合宿)



(『泣き』円形の図の話しから)
 我々教育者は子どもを預かっている。そしてその子ども達に感情の偏りのない進歩、あるいは成長、そういうものを望んでいる。・・・必ずしもバランスのとれるって事を目的にはしないけれども、教材そのものが偏ったものしか与えていないとなると、感情は万全な発達をとげるかどうかは分からない訳になりますから、

児言態はこうした作業を一方でしていたんだ、っていうふうに御理解頂きたい、とこう思う訳であります。

・・・はたして感情っていうのは円をなすかどうか、それも問題であるけれども、一応教育的な配慮っていうことから言ったら全面的に配列があるような形のものが教科書としては適当であろうと、こう考えるからこういう形をとっているんだ、っていうふうに理解すべきだと思うんですよね。    (昭和六十二年合宿)



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☆昨日の記事に関して、ある方がこのようなサイトも紹介してくれていました
それがあって、今日は「教材」についてとりあげた次第です。

奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち ~伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀~
 https://www.shogakukan.co.jp/digital/094087730000d0000000
伝説の98歳灘校教師が教科書の代わりに『銀の匙』選んだ理由
 https://www.news-postseven.com/archives/20110613_23018.html?DETAIL
 

 


上原先生と出会った玉川大学は、創立者小原國芳先生の「全人教育」の理念のもとにつくられた学園の中にある大学でした。
現在は教育学部というのになってしまいましたが、小原先生のこだわりは「文学部教育学科」としていたことでした。

 

「人間全体を扱う文学部」(哲学や宗教など、人間を深く探求するすべての分野が集まっている学部)、その中に「教育学」は含まれているのだと。
教育学科は「教育学専攻」ということなので、体育専攻コースは別にして、国立大学での教員養成系学部のような小学校での教科の専門というのはありませんでした。全ての教科・領域を統合して、子ども達一人一人の成長を考えていける「教育者」の育成を目指していました。

ですから、教材に対しての考え方も当然このようになっています。

そして別にこの発想は玉川学園の専売特許でも何でもないんですよね。
教育基本法から学習指導要領にまで貫いているのもこの発想。
でもそれがどうしても現実対応に追われているうちに形骸化してしまっている。
そして長年それをやってきたツケが現代社会の中で様々な噴出してしまっていると思われます。

ここで踏みとどまるか、それともやっぱり現実対応に終始して、今後の未来をますます混迷させるのか・・・重大な岐路にさしかかっている。

だから「上原輝男記念会」を立ち上げ、こうしたブログでの紹介、そして上原輝男著作集に向けての活動を今年から本格的に行い始めているわけです。

上原輝男記念会公式ホームページ
https://5vvti.hp.peraichi.com/

今日から新年度。新しく教育者としての道を歩み始める人、既に教育者として勤務している方々・・・ついつい現代社会の中で現実対応にばかりふりまわされて、本来のことを忘れてしまいがち。

ということでの今回紹介する言葉です。

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『教育者』になりたいのだったら「ミーハー根性」を捨てなさい。日本の教師っていうのは『世捨て人』だったんですよ。それをミーハー根性のが教壇に立つから問題が起こるんですよ。・・・・

「○○者」とつくのは世捨て人を表したんです。者は物だったんですよ。例えば「医者、芸者、易者」みんな世捨て人ですよ。それで寺子屋では授業料はとらないで「月謝」をもらったんでしょ。坊主と同じです。在家か出家かの違いがあるでけです。みんなを救うんですよ。ボートにたとえれば、同じ溺れたら自分の子どもよりも他人の子どもを救わなければならぬ道なんですよ。諸君らが進もうとしているのは。

 だから、誰にでもできる筈がないんです。

まず『人間に関心が強い者』でなければなりません。道の歩き方だって大切ですよ。一木一草に関心がなかったら子どもとも遊べませんよ。先生がだめだから、子どもは本当の遊びが出来ないんですよ。

 自分の生きている世よりも先まで生きて行く子どもに教える、ってことを忘れてはいけませんよ。
 そして教育者としての『品性』、自分の顔と態度に責任を持ちなさい。
               (昭和58年 国語教材研究講義よりの要約)


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昭和58年(1983年)、今から40年ほど前でも、先生の主張は当時の教職員の意識とはかなりずれていました。
今だったら尚更「何をいってるの?時代錯誤もはなはだしい」と思われるのが普通かもしれませんね。

現実対応に追われている教育は、別の言い方をすれば、定期テストや学力診断テスト、入学試験等々、すぐ先に目標を定めての教育です。

でも、特に「学校教育」も「家庭教育」も、本当に真価が問われるのは、10年20年30年・・・と人生が進んだ先にあります。そんな教育を実践していく専門家として、古来日本では「教育者」ということを位置付けているし、先生は学生たちには常に根本に関しての学問を生涯にわたって探求しつづけるように求めていました。

また、同じ教育者であっても、昨日もふれたように「小学校の先生」と「中学校(以降)」の先生とでは全く役割が違うと。それぞれの段階できちんと行っていないと・・・特に小学校の段階で、中学校の先取りのように、問題の解き方や正解を覚えさせるようなことばかり教えていると、どんどん伸び悩む子供になってしまうと。

実際私が家庭教師で携わってきた中高生でも、小学校の時には成績がよかったのに、中学高校と下降線をたどる一方という生徒が少なくありませんでした。また小学校の時から、そういう現実対応ばかりの授業に拒絶反応を起こして、学校嫌い、勉強嫌いになっていた生徒もけっこういまいた。

私は中学校の教員免許などはもっていません。それは家庭教師を依頼された時にも正直につたえていました。
私にできるのは、小学校段階で本来やるべき土づくりの部分、教科指導そのものよりも、その背景にある発想や、各教科同士のつながり、それが日常のいろんな場面とどうつながっていくのか・・・そういうところをきちんと扱うことでした。

学級担任制の長所を、中学生や高校生に活かすという感じですね。
それで興味をもってもらえれば、学校の授業への取り組み方もかわるし、そうなったらあとは専門の専科の先生にゆだねればいいんですから。

それで結果としては、手前味噌になりますが、通常の塾や家庭教師ではあまりみられない急上昇がテストなどでも起きました。

*ただ・・・ここ数年の「成果主義に洗脳され過ぎている」とか「スマホ中毒」とかの傾向が強い子は、私が家庭教師としてやってくるということ自体を最初から拒否する姿勢がうんと強くて、続きません。今はほとんど子ども達の依頼はない状態です。


*参考
上原輝男記念会ブログ 「教育の役目・目標」
http://jigentai.blog.shinobi.jp

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 小学校教育は『ナマ』でなくちゃダメなんだよ。ナマでないと日常性から離れてるって事なんだから。・・・子どもはナマなんだもの。生き物なんだからね。                (平成三年合宿)


 『人間の精神の遍歴』っていう、それの原則的な物が小学校のカリキュラムの中に入ってこなくちゃウソだって言ったろ。

 だけれども中学校課程になるとこんな事言ってられないのよ、やっぱり。この世の中で生きていく為に沢山の事を覚えていかなくちゃいけない。教えとかなくちゃいかん、ということになるからね。知識体系がバーッと出てくるに決まっているんですよ。

 ところが小学校はそんなことしなくてもいいと僕は思っている。それよりも『人間としての形・心』そういうものをきちっと押さえてやる。

 だから、こんなに素晴らしい職場っていうか仕事っていうのはないんだから。・・・
 まあ、小学校と中学校では線を分けよう。線を切らなきゃ。            (平成四年合宿)


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「問題の解き方の教え方が上手な先生」ということも、大事なことではあるでしょう。
でも何度もかいていますが、「テストでいい点がとれた」が事実上の目標になってしまって、テストが終ればきれいに忘れる・・・その繰り返しで大人になっていくというのは、とってももったいなく、虚しいことだと思います。


小学校で扱うべきという『人間としての形・心』の問題について、具体的にこの対談でふれられています。
(この前の対談部分から是非お読みください)

上原輝男記念会ブログ更新
「対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)⑤
http://jigentai.blog.shinobi.jp
「教育的であるということは、内容ではなく形式である!!」

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・夢の世界を持っているから囚われる。イメージが偏向する。個性の強い子どもほど偏向している。平均的に豊かなイメージなんてない。この偏りの修正が『生き方』の指導だ。だから子どもの偏向性をつかまえてやる。           (平成七年五月例会)

・『時間』『空間』のイメージの設定が変化してしまったために教育の歪みがおきている。
 意識は作られていくものだから『時間』『空間』のイメージをどう設定するかで『人生』も変わる。それで子どもによって差が出る。
 人生は時間・空間の絡み合わせで出来るのだから、子どもが『どう設定しようとしているのか』みていなければならないのに、つい大人は『子どもの錯覚』とみてしまう。

 子どもの世界をどう理解するかが十五号のテーマ。      (平成六年忘年会) 

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これの大元になっているのが、江戸時代の歌舞伎などで言われていた「世界定め」の発想です。
物語り・人生は 「時間」「空間」「人間(ジンカン)」という3つの軸によって設定されている。
これらの基準の撮り方によって、人間観・人生観・世界観が変わり、生き方も自然に変わっていくということです。

学校教育で学ぶことも、これらに何らかのつながりがあるからこそ、「生きる力」になっていくわけです。

例えば理科で食物連鎖を習う・・・人間関係というのを、様々な地球上の生物同士の関係、そして人間との関係・・・として捉えることで、人類がこの地球上でどう暮らしてきたか、どこが歪みになってきているのか、これからどうしたらいいのか・・・・等々の判断力につながっていくわけですよね。

「知識」の獲得はテストでいい点をとったらそれで忘れていい、ということにはならない・・・・本来教育のカリキュラムで学ぶことになっているのは、最終的には「人間として生きていく」にすべてつながるもののハズなんです。

それがバラバラになってきているのが今の教育。
特にその土台を築く教育者としての小学校の先生の、最も求められる専門性です。

今日の上原輝男記念会ブログの内容も、このことと関りの深いことをとりあげています。
作家活動の話ではありますが、そのまま教育者の方々の核心にふれる内容です。

上原輝男記念会ブログ更新
「対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)④
http://jigentai.blog.shinobi.jp
上原輝男先生の最も有名な愛弟子である金城哲夫氏との対談からです。
「新しいタイプのものの捉え方が生まれつつある」



ところがその専門性が軽視されてしまっている。
テストで答えられるように上手に教えることができれば、小学校の先生はできる、と社会だけではなく、教員養成系の大学も考えているところが多いように思います。教育の本質や各教科の関連性についてあまり学ばないで、模擬授業や採用試験対策に多くの時間を割いているというのがウリのところが増えていますから。

教育行政もそうです。教員のなり手がいないから、簡単に教員免許をとれるようにしよう、等々。
それは文部科学省自身が、小学校教師の専門性をきちんと把握できていないことを意味します。

一人一人の担任や学校単位では、社会や、各地方公共団体の有力者の方々からの「目先の要望」には抵抗できません。
一部の心ある人達が、真の教育を担任や学校に要求してくれていますが、その上や周囲を何とかしなければ、実現は難しいでしょうね。

そんな時に、本当に将来を託せる子ども達のために、「まっとうな教育はこうだ」と文部科学省は防波堤になってくれなければならないのに、どうもそうはみえません。学校現場の悩みも本当にみようとしているのか?
みているのに、教師不足対策や教師にばかり負担を強いている今の教育行政をみるとしたら、相当ピントがずれているとしか思えません。