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 日本語としての『夢』や『家』何故(そう)呼んだか。『夢』のユ、今でこそ現代語の発音ではユと言っているけれどもユも家のイも同じなんですよ。元来の発音では神秘力そのものを示すのがユ・イこの音なんですね。それを夢の場合にはその神秘力を見る事が

『ユめ』と日本人はどっかでつかまえている、ということだと思うし、家の問題はその神秘力に対する、その神秘力それ自体を『え(へ)』という言葉を補うことによって何か限定しようとしているものがある。

『え(へ)』というのは囲いですよ。神秘力を囲ってみたということなんです。神秘力の確保、それを家といっていいでしょうね。それを今や日本民族は家を崩壊させようとしているんだから、阿呆としか言い様がないわね。家を単なるねぐらとしか考えようとしていない。

 

しかし、ねぐらっていうような言い方をすること自体も家のひとつの真理をいってるんだと思いますよ。だから家は休む場所なんですね。日本語の休むというのは『寝る』ことなんです。          

『神秘力を眠らせる。』『安らかにしてやる。』先程、誰かが安心と言ったけれど安らぎなんです。安らぎと言うのは、やっぱり『いやすらぎ』なんですよ。『い』の問題を静かな状態に保存していく、それが『やすらぎ』なんですよ。・・・休憩するってことではないんです。・参『休む』

 『ねぐら』とは素晴らしい言葉だ。『くら』っていうのは大事なものが入っている、そういう言葉なんだね。建物ではなくて。・・・

(平成二年合宿)

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上原先生が「音」から考察を進めているのは、古来からの日本語は「音の響き」を非常に重視した言葉だからです。
「〇〇という言葉はこういう意味の言葉」と定めている、という「記号」ではありません。
本質が感じられるような「音」が先に選ばれているという場合が非常に多い。

*「言霊信仰」というのもこのあたりと関係が深いです。
中国人は文字の形で本質を表そうとしているわけですが、日本語は音の響きにイメージを託しています。

そう考えていくと、大人も子供も帰宅後も現実対応に追われ続けている状況では、家の本質からどんどんずれているわけですから、誰もがもっている生命力も挫折回復力もなかなか発動しません。

サプリや栄養ドリンクや医師から処方される薬では、一時しのぎや見た目の症状は抑えられても、本当の回復にはならないと思います。

「人格は個人の問題」という現代の常識からすると「?」という内容です。

でもこれは上原輝男個人の考えというよりも、いわば現代人であっても日本人のDNAに深く刻まれている感覚なのだと思います。

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「日本人の人格・・・個人は人格たりえない」って言っているんですね。「家系が人格」・・・存続するものが人格なんですね。私が言う方が確かでしょ。滅ぶモノが人格だったりするわけないじゃないですか。そうでしょ。死んだらおしまい、なんてものが人格だなんて、そんなもん人格じゃない。

そんな事を言ったりしているんですけど。あれは玉川大学の上原教授の発言ってことになっている。出るんでしょうから。そうするとその教えを経て皆さんが活躍する・・・いや、私も「私が言ったんじゃない。私に何か乗り移っているのかもしれない」・・・こう思うと気が楽ですよ。

   国文学講義(第1回)  昭和59年10月1日 

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もともと日本人に「著作権」という発想があまりみられないのは、先生もたびたびふれていますが、日本人んの創作は個人による創作とは考えていなかったところにあると。芸事もそうですよね。いまだに歌舞伎でも日本舞踊でも落語でも「襲名」ということをやっています。「家の芸」を受けつくわけですよね。

でも家の型をしっかりと守っても、まるっきりのコピーだと「物真似芸」として批判される。

このあたり、個人の自由と身勝手さとのバランス問題にも大きく関わっていると思います。

これをもっと身近な問題としると、個々人が語っていることも純粋に個人の発言なのかどうなのか。
別ブログでのウルトラマンの作者金城哲夫さんとの対談シリーズで語られていた背景にもこの考え方があります。

上原輝男記念会ブログ(著書抜粋)
http://jigentai.blog.shinobi.jp/


作品であれ、発言であれ、表面的に減少社会の常識に影響されたものではなく、心の奥深いところからポッと飛び出したもの、多くの人達に時代を超えて共鳴しつづけることなどは、個人が言ったというよりは、個々人の口を通してあちらの世界の人達が語ったこと・・・そういう感覚を日本人はもっていた。

そのあちらの世界の人達が神仏になってくると「巫女のお告げ」のような形としてうけとめるわけですよね。

こうしたことを学問的に体系ずけるには「神仏」とか「霊界の方々」ということはもちこめません。
これは私の勝手な推測ですが、こういうあちらの世界の方々とつながっている自分の生き様・・・というのを無意識世界の「心意伝承」ということとして探求されたという面もあるのかな・・・なんて想像してしまいます。

命日の11日まであと数日。
夢の中に出てきて何かメッセージが頂けるといいのですが・・・・

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー18 「家」①

数日後に迫った4月11日が上原先生の命日です。
そんな先生が(あとから思えば)最後に出席となった児言態月例会での発言。

まさに現代人に対しての「遺言がわりのメッセージ」です。

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『家は母胎であり休む場所なんだよ。 「やすむ」とは「いやすむ」であり (注、ヤ行音は生命力を表す音として 捉えている。「いのち」が「澄む」、 つまり生命がより純粋に清らかになっ ていくのが家なんです。」
平成8年3月例会 先生最後の例会)
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大人にとっても子供にとっても、「家」が休める場所になりにくくなっていますよね。
家に帰っても子どもを勉強に追い立てるというのは、昭和の頃もありました。
地区によっては帰宅して毎日のように習い事や塾というのもありました。

現代もっとも違うのは、何度も書いていることですが、情報端末やネットが大量に入り込んでいることです。
それこそ友達関係のことも仕事のことも次々とやってくる・・・かつてのように帰宅したら一応は解放されるとか、夜の10時すぎたらよほどのことがない限り電話をかけたらいけないとか、そういうのがなくなりました。

子どもの場合だったら、夜遅くに電話がきたら、家族がとりついでくれなかったり、またとりついでくれても長電話をしていると家族に注意されるということもあったわけですが、そうした歯止めも聞きません。

家族で共有していた1台のテレビ、なんていうのもなくなり、個人個人がそれこそ寝床で観たい放題みることだって小学生にも可能になっています。

夜中のライン等々にもすぐに応じないと翌日から仲間外れになってしまうと悩んでいた教え子たちもかなりいました。
ひっきりなしに連絡を取り合っていないと、みんなが自分だけをのけ者にして別ラインなどでやりとりをしているという恐怖感が非常にあるようです。

なんだかそんな若者達をみていると、みかけじょう仲良しグループであっても、実は信頼関係がほとんどないのではないか、仲良しを互いに演じているだけなのではないか、と感じてしまいます。


上原先生の指摘は、日本人にとって家とは単に休む場所ではなかったと。
現実対応から解放されて、ピュアになれる時間・・・「自分なんだ」ということに蓋れる時間・・・それが帰宅後から翌朝、活動をはじめるまでの時間帯だったのだと。

今更、スマホなどをなくせというのは現実的ではないでしょう。
帰宅後に友達とのやりとりがあること、大人だって仕事のことでのやりとりをなくすことはできないでしょう。

でも、それで生命力が回復する暇もなく、心身の疲労の蓄積によって、困難への耐性も著しく低下、挫折からの回復力も低下しています。

根本的に対処するには、やはりこうした現代社会の中であっても、どうすれば「家」本来の機能が確保できるかを社会全体で考えるしかありません。そんな悠長なことをしていたら競争に勝ち残れないという考えもあるでしょうけど、今の状態では勝ち残ったとされる側だって心身ボロボロで、みんなが自滅という道を進むしかない・・・というかもう進んでいると思います。

人間らしさを取り戻す勇気を一人でも多く復活させていただきたいものです。

連ドラ「ちゅらさん」の根底にもこの意識が流れていると感じられる場面が多々あります。
「家に縛られる」ということから家系の話は現代ではなかなか表立って語られることは少なくなっていますが、事実としてはやはり意識世界・無意識世界にけっこう根強くあり続けているのではないでしょうか?
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家系
 人間が「生きて」「継いでいく」と言う事はどういうことなのか、本来の夢の中では何を考えているのか探らなければなりませんよ。・・・
 大体、憲法の「一世一代」の家の考えが、日本人には無理だよ。『家系』っていうだろ。あの『系』って何よ?(と皆に問いかける。)                        (平成元年九月例会)


 寺子屋の時代だったら「ああ、あそこの○○兵衛さんの子どもか」という形で指導したんだろうと思う。そして「ああ、あの家の子だったらこういう性質を持っていて当たり前だ。」とかね。そういうふうにして教育者は固体として扱うのではなく、系列としてね、それを取り扱ったにちがいないと思う。

 だから、どこの馬の骨かわからない、なんていう形のままで教育を実践しなければならないという、この在り方をもっと考えなければならないのではないか。

 

・・・こんな事をだんだん考えるようになったのは、私の師匠である折口先生は『一家系一人格』ということを言っておられた。一つの家の系列、それが日本人にとっての一つの人格、と言う事を言っておられた。

 ・・・自分の兄弟、そういうものを考えていけば不思議にわかると思います。俺は兄弟の中であいつだけは理解出来ない、なんていうのはせいぜい中学生までで、中学校以上の年齢が出てくると、さもありなん、と思うと思うのです。つまり血筋が持っている性質なんです。

 そういう物はだいたい何本かありますよ。一本とは限っていない。一本とは限っていないけれど、一つの系列の中に自分は生きているという・・・。兄弟でも「ここは~に似たね。」とか、叱られる時に「それで○○家の人間か!」とか、それを聞いたら誰でもが口を閉じるというような事をどの家庭でもしてきていると思う。

 だから折口先生の『一家系一人格』という考え方もある程度うなずかざるを得ないなぁ、と思う。そういうものが「魂」と日本人は言ってきたんじゃないでしょうか。

 ・・・だから伝承体なんですよね。自分の家系にないものを持とうとしても持てないんです。・・・
 犬とか猫とか馬だとかだけに血統とか言ってる。人間なんて血統書付きでいいんです。・・・

              (昭和六十二年合宿)
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再放送がはじまったばかりですが、この先「ちゅらさん」が進んでいくと「古波蔵家だね」というセリフが何度もでてきます。
家族メンバーそれぞれ超個性的なキャラでありながら「やっぱり同じ家族なんだね」と周囲に感じさせるもの・・・それが家系なのでしょうね。

最近は減りつつあるようですが、もともと日本の結婚式だって「〇〇家と〇〇家」の結婚式という発想をとってきました。
「筋」が交差し、まじりあうということです。
こうした筋が混じり合うというのも日本人にずっと流れてきた感覚。
新海誠監督アニメ「君の名は。」で紐を通して語られていましたよね。

ウマ娘は競走馬の話をベースにしているだけに、血統が「家」という言葉に置き換えられて描かれています。
その代表が「メジロ家」「サトノ家」
ダイイチルビーというウマ娘も『華麗なる一族の令嬢』という設定。

「家系を重んじる」「家柄によって格のどうこう」という従来の考えの是非を問題にしているのではありません。
ただ、そうしたことにこだわってきた日本人が新憲法で家に縛られなくなったとはいえ、法がかわったからといってコロッと無意識までそうそう変われる人ばかりではありません。それは年配者だからとかではないと思います。

若者の間で最近言われている「親ガチャ」という言い方も、とどのつまりは「家」ということと自分が完全に無縁ではあり得ないという意識の表われでもありましょうから。


「カエルの子はカエル」という言葉がよく言われていました。
子どもに対しての諦めの言葉ではありますが、こんな意識があった頃は「子どもの気持ちを無視しての過度な要求」が今よりは少なかったかもしれません。親が自分のことを棚に上げてというのも今よりは少なかったかもです。

そんな発想だと、親の諦めの想定よりもちょっとでも子どもが上回れば素直に子どもの成長を褒める事ができたのではないでしょうか。

*もっとも「家をつげ」という発想はありましたから、特に長男がその筋とは逸脱したことに興味をもつと、どんなに優れた結果を出しても否定されるということは当然ありました。知的な勉強に対しても必要ないというのが職業や性別によって言われていたことも事実です。

昭和後期の頃にこうした発言をしていた上原先生ですが、その当時でさえこのような発言はしていながらも、時代の流れには坂られないということも重々承知だったと思います。
ただ、時代が大きく変わっても、意識世界の奥底と表層的なこととのギャップによって個人で家族でも社会でも様々なひずみが生じてくるのは確かな事実。

そこをしっかりとみつめた上で、考えていかないと「家系から解放された」という人生が「こんなはずではなかった」となりかねませんし、実際に様々な家族の問題、老後の問題に直面している方々が大勢いらっしゃる・・・それも事実です。

そんな観点も頭のすみに置いておきつつ、「ちゅらさん」をみると一味も二味もかわって観られると思います。

*余談ですが、こうした家系(家)と個人の戦後日本人の様々な姿を丹念におった映画を撮り続けたの世界的に有名な映画監督がが「小津安二郎監督」ですね。「東京物語」などは世界のトップ作品だと評する海外の映画人もいらっしゃいます。

「個人」「個人」と言われて久しいですが、逆にそれで容易に個人の心が周囲の人間関係や社会の中で潰されてしまう側面もかなり出てきていると思うんですよね。孤独感と絶望感。


「家系」とは長い長い歴史的な時間性をも含みます。
さらにご先祖様があの世から見守ってくれているよ、という発想になれば「あの世にも味方がいる」という異世界をも自分を支えてくれていることになります。
自分という個人のバックボーンとして数えきれない人達の歴史を通しての想いが流れ込んでいる・・・


ちゅらんの主人公が挫折をしてもやがて立ち直れる・・・そんな背景には周囲の人達の支えだけではなく、家系という意識があればこそ、より強く生きていける・・・というのがあると思うんですよね。


 

大人にだっていえることです!
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・現代人だって、結構『古代生活』を送っているんだよ。正月とか、身代わりのお守りだとかさ。葬式だって魂送りじゃないか。これを整理して子どもに教えるべきだよ。
 そうすれば子どもは生き生きするよ。命そのものが活動してくるから・・・。  (平成元年九月例会)

・夢の世界とつながっていると、途切れる事がなく  いくらでも生きる力がわいてくるんだよ。
                  (時期不明)

・『現実適応派』は生きる上で磨り減らされた。だから個性などない、ただの類型なんです。その人なりの味わいなんかない。   (昭和六十三年六月例会) 

・禅の修行で眠りを断つだろ。あれはそうやって現実心を捨てる中から何かをつかもうとしているんだよ。              (平成元年四月例会)


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「ちゅらさん」の主人公恵理って、落ち込むことが多いんですよね。日頃明るいのが本当にどん底におちたようになってしまう。
でもそこからの立ち直りが早い・・・挫折回復力というのでしょうかね。

その根源には おばぁ などからの教え・・・古来からの伝統の教え・・・が魂に刻まれているからだと思います。