「人格は個人の問題」という現代の常識からすると「?」という内容です。

でもこれは上原輝男個人の考えというよりも、いわば現代人であっても日本人のDNAに深く刻まれている感覚なのだと思います。

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「日本人の人格・・・個人は人格たりえない」って言っているんですね。「家系が人格」・・・存続するものが人格なんですね。私が言う方が確かでしょ。滅ぶモノが人格だったりするわけないじゃないですか。そうでしょ。死んだらおしまい、なんてものが人格だなんて、そんなもん人格じゃない。

そんな事を言ったりしているんですけど。あれは玉川大学の上原教授の発言ってことになっている。出るんでしょうから。そうするとその教えを経て皆さんが活躍する・・・いや、私も「私が言ったんじゃない。私に何か乗り移っているのかもしれない」・・・こう思うと気が楽ですよ。

   国文学講義(第1回)  昭和59年10月1日 

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もともと日本人に「著作権」という発想があまりみられないのは、先生もたびたびふれていますが、日本人んの創作は個人による創作とは考えていなかったところにあると。芸事もそうですよね。いまだに歌舞伎でも日本舞踊でも落語でも「襲名」ということをやっています。「家の芸」を受けつくわけですよね。

でも家の型をしっかりと守っても、まるっきりのコピーだと「物真似芸」として批判される。

このあたり、個人の自由と身勝手さとのバランス問題にも大きく関わっていると思います。

これをもっと身近な問題としると、個々人が語っていることも純粋に個人の発言なのかどうなのか。
別ブログでのウルトラマンの作者金城哲夫さんとの対談シリーズで語られていた背景にもこの考え方があります。

上原輝男記念会ブログ(著書抜粋)
http://jigentai.blog.shinobi.jp/


作品であれ、発言であれ、表面的に減少社会の常識に影響されたものではなく、心の奥深いところからポッと飛び出したもの、多くの人達に時代を超えて共鳴しつづけることなどは、個人が言ったというよりは、個々人の口を通してあちらの世界の人達が語ったこと・・・そういう感覚を日本人はもっていた。

そのあちらの世界の人達が神仏になってくると「巫女のお告げ」のような形としてうけとめるわけですよね。

こうしたことを学問的に体系ずけるには「神仏」とか「霊界の方々」ということはもちこめません。
これは私の勝手な推測ですが、こういうあちらの世界の方々とつながっている自分の生き様・・・というのを無意識世界の「心意伝承」ということとして探求されたという面もあるのかな・・・なんて想像してしまいます。

命日の11日まであと数日。
夢の中に出てきて何かメッセージが頂けるといいのですが・・・・