私の地域でも昨年・今年と除夜の鐘がきこえてきませんでした。
恐らくクレームがあったのでしょうね・・・・

単に騒音としか聞こえない人、さらには別に騒音とは思っていなくても、自分が「世の中の伝統をやめさせたぞ」ということで力を誇示したいと考えている少数の人達によって長年の日本人の習慣が消えていくのは寂しいことです。

私のこういう意見に対しては、「みんなの為になぜ個人が我慢しなければならないんだ!」という意見もあるでしょう。

ただ、どうしてそうした習慣が長年根付いてきたのか、という背景にある、無意識レベルの心を考えていくと、それは「除夜の鐘などやめろ」という方々の意識世界をますます狭めてしまうことにもなるんだ・・・本来はすべての人達が豊かな人生を送るための知恵だったんだ、ということを再確認してほしいんですよね。

上原先生の「音」に関する日本人の感覚の視点から除夜の鐘の意義を考えています。

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「音」っていうのは『時間・空間の区切り』を表わす・・・日本の芝居ってそうでしょ。歌舞伎なんて「時のカネ」っていう。
 ここで時間がたちました、っていう時にひとつダネってコーンと一つ打つ。そうすると時間は切れたんです、っていう約束になっている。こういうふうな事が歌舞伎で約束事になるっていうことは、日本人はいちいち解説書に書いてあるのをみなくても、そんなの最初から決めたわけではないんで、日本人はコーンと音を聞いたら時間が経過したっていうふうに思うからそう使っているんであってね・・・。

『音と人間』なんて考えてみたら面白いだろうね。             

(平成元年合宿)


・・・『音は力』で、これが生命原理でしょう。日々の生き方や時間の振幅だって波じゃないか。
 「悲しさ」なんて言っても一日ごとに違ってくるだろ。四季は自然の振幅だよ。
 『自然界に直線はない』っていうけど、振幅があるから繰り返されるんだよ。
 教育でも『宇宙の振幅』をつかまえさせていけばいいんだよ。

「友達とのいさかい」でも直線的に伸びることはないよ、振幅なんだ、ってさ・・・。
              (平成二年六月例会)


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除夜の鐘は「煩悩をはらう」という仏教の教えと日本人の禊・祓いが融合したものだと勝手に考えているのですが、真っ当に生きようとしていても、この世で生きている以上はゴタゴタがある。真っ当でない考え方がついつい浮かんでしまう。
それはそれで率直に認めているわけですよね。

その上で、除夜の鐘の音 に包まれながら、そうした煩悩を祓い、新年に生まれ変わる それが日本人が長年行ってきた生活だったわけです。

やはり上原先生が講義で話されていた事ですが、日本の神社の構造は母胎のイメージと重なり合うと。
鳥居→参道→お宮(本殿) が 産道→子宮 ということです。
つまり神社にお参りするというのは、生まれなおしを意味していると。

正月早々縁起が悪いと言われそうですが、もっと端的にいえば 大晦日→正月 という転換は 「死と再生」ともいえます。
身近なことでいえば、美味しいものをおいしく食べたかったら、お腹をすかせればいい・・・というのと同じです。
器がカラになるからこそ、新しい次のものが盛られる。日本人は肉体を器としてとらえてきましたから、新たな魂を入れ直すということです。

かつては満年齢ではなく 数え歳 という習慣をもっていたというのもその表れですね。

*上原先生が他界されたあとですが、児童の言語生態研究会が2009年12月28日、このような研究授業を小学2年生に行っています。
大晦日から初春へ、そのイマジネーションの転換
file:///C:/Users/miyata/Downloads/Jidou-no-GengoSeitaiKenkyu_18_66.pdf

ちなみに今年は巳年・・・・蛇は古い皮を脱ぎ捨てながら成長するということで、「死と再生」の象徴とされてきました。神話などでは悪いイメージで登場することが多いですが、その反面、神のつかいであるとか、白い蛇などは神そのものという信仰があるというのも興味深いです。奈良の三輪山伝説などでも蛇は神ですしね。


どうしても日々の生活の中で人間的ではない方向に意識や心が動いてしまう・・・それは仕方ないこと・・・でもそのまま突っ走るのではなく、年に一度それらを浄化させて、生き方の軌道修正をする・・・・その意識の転換に「音」は実際に有効であるという実感があり、それを知恵として大切に生きてきたのが日本人といえましょう。

それが「騒音」でしかないというのは、せっかくの機会を自ら失わせていることになるんです。
そして、そういうクレームをつける人の多くは「自分の思い通りになる」ことばかりで常に頭がいっぱいになっていることでしょう。そういう人たちが増えれば増えるほど、互いの「自分の思い通りになれ!」というのがぶつかりあって、ますます争いの絶えない日々になります。

修羅道に落ちる・・・・という道を自ら選んでいくことになります。

今年が巳年であるのも何かの縁・・・・古来からの知恵は、球体思考でいえば最先端とつながっています。
豊かでみんなが共存共栄する生活に向かうためにも、今年を節目として転換していくきっかけになれたらという気持ちで、この記事を書いた次第です。

お正月に関してはこちらも更新しています
*ワニワニ学級へようこそ
http://www2.plala.or.jp/WANIWANI/index.html

*上原輝男記念会ブログ、久しぶりの更新です。
「年中行事」について先生が書かれた文より「正月」に関すること
http://jigentai.blog.shinobi.jp

(平成5年合宿研究授業『イメージの停滞からの脱出・イメージの再出発  時間・空間の拡大化とイマジネーションの転換  』にて。六年生の児童に対して)

現代人が陥って突き破れないでいる悩みの多くが「今の状況をかえることができない」「どうしたらかえられるのか」ということではないでしょうか。

ただ、どうしても現代人はスマホ検索等々ですぐにパッと切り替えられる「方法」を追い求めてしまいがち。
もっとその根源にあることの探求を小学生の頃から段階に応じて・・・ということが大切だということだと思います。


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 ・・・「井の中の蛙」という諺知ってるでしょう。・・・人間というものはなかなか今住んでいる場所、今住んでいる時間、そういうものがなかなか分からない。そこから外に出た時に初めて分かる、というようなことなんですよね。
 (『意識の転換』と板書)
 意識を持っている、この意識が転換する。がらっと変わる。そういうのを『意識の転換』という。
 今日の授業をやって意識の転換が出来る様になるかならないか・・・こういうことを今日はやってもらおうと思っている。・・・
 おじさんの体でもって、おじさん自身が体験したことで、意識の転換を起こさないわけにはいかない事にぶつかったの。それを少しお話しますね。・・・
 (原爆の体験談)
 ・・・おじさんは広島の駅へ向かいました。切符を買うために駅へ入る五~六メートル手前でした。・・・この時にドンだね。そしておじさんは倒れたというよりも倒れなくちゃいけないと思って身体を防いだ。 ところがその時おじさんの意識は、日常君達が今、君達の意識が普通に働いていると思うけれども、普通の状態ではなくなった。逆上というのわかる?気分が逆上してしまう。あるいは興奮してしまう。上がってしまうわけだ。普通の状態でなくなってしまう。意識が。転換を起こし始める。

 今、甲子園野球やっているね。初めて甲子園に行くとピッチャーが上がっちゃって、どこに投げていいのか分からないというような状態、時々起こす。・・・原爆でやられるんだから、当然逆上して訳分からないという状態になる。

・・・おじさんはもはや広島の駅に切符を買いに行ってるなんてケロッと忘れてしまっている。そしてそこが広島の駅前であるということも分からなくなった。なぜ分からなくなるかというとねそれは道が道でなくなる。道がつぶれたから。・・・建物は壊れてしまって、だから当然広島の駅はそこにあると思っても見えない。・・・今乗ってきた市電は既に倒れている。横になっている。そうすると大変なことが起こったということすらも分からない。人間というのは。

 この場所が広島の駅前だという認識ができない。今君達は北東小学校のこの教室に今いると思っている。だけども次の瞬間に君達は「ここどこ?」ということが起こりうるんだよ。今、丁度四十一分。君達は四十二分にもここにこうしているって思ってるだろうけれども、今ここで原爆が一発、バンといったらここにいることすらわからなくなる。そういう体験をおじさんは持った。

 もう一つ言っておこう。自分のとなり、見て御覧。その人は男の人であるか?女の人であるか?わかるだろ。原爆が一発落ちたら分からなくなっちゃう。・・・怪物の中にいるようなもんだよ。自分の顔だけ見られないから自分だけ人間の顔だと思っている。ところが回りはみんな怪物なんだね。そういう状態が起こった。だから、まとめるよ、最後に。

 人間の意識はなんという頼りないものだろう、とおじさんは思った。ここが広島の駅前であるということすらもわからない。隣にいるのが男か女かそれすらもわからない。こんな状態になりうる。

 人間の意識って何が本物なのだろう、とその時考えた。

 今日、君達にはこれから『意識の転換』ということを勉強してもらう。じゃ、先生かわるからね。


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これらの先生の言葉は 私の個人HP「ワニワニ学級」の恩師の言葉のコーナーにあります
http://www2.plala.or.jp/WANIWANI/onnsi/ONNSI.htm

 


上原輝男記念会ブログ更新
上原先生が書かれた被爆体験の私小説「忘れ水物語」追い書き
先生が考える、被爆体験から方率長ければならないもの、について書かれています。
http://jigentai.blog.shinobi.jp

 

現実的な視点での教育 という観点からしたら、こうした上原先生の「子ども観」は「一体何をいってるの?」という印象を持たれる方が多いかもですね。こうした発言をされた時から半世紀近くもたっているし・・・

 

でも、教育が混迷を極めているからこそ、この歴史や文化を持った日本人が、どんな風にこどもをとらえて教育をしてきたのか、ということをきちんと振り返ってみる事は大切なことだと思います。

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・(小学校のカリキュラムが現実対応教育・知識教育にどんどん移行していることに対して)
ホント、子どもは野生と神性を失ったね。・・・
何にもしなければ、神性も野生も温存されているのに。」
                (平成七年合宿)

・子どもが何に誘惑されて、何にリードされて生きているか・・それを表すほど「子どもらしい」と感じるんですよ。表さない子、知識で動いている子は子どもらしいと感じないんです。
 子どものエネルギー、生命の誘導性が活力なんですよ。これは大人だって同じなんですがね。
                (平成二年合宿)

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もちりん「何にもしなければ」というのは、教育活動の放棄ではありません。
現実対応意識ばかり刺激する(知識)教育を過度に子ども達にしなければ、という意味です。

小学校では子ども達が生得的にもっている生命力(エネルギー 神性と野性)を自然に出せる、出しながら日常生活を整えていく・・・それに専念すべきだと

そして、中学校以降の段階で、順をおって「現実対応」「知識教育」は鍛えていくべきだということです。

自分の内側から湧き上がってくる力、そしてその力にリードされていきる姿勢・・・・それあってこその「自分らしさ」と「現実対応」との調和が実現していくわけです。

その土台が希薄だと、
・現実にどんどん押しつぶされる
・身勝手な自己主張だけで、逆に居場所をなくす あるいは 他者を潰すばかりの人間になってしまう
等々のことが起きてしまうのだと思うし、それは実際に起きています。

多様な子ども達だからこそ、子ども達の内なるもの・・・・奥底から湧き上がるものほど、身勝手ではなく周囲と調和する発想をふまえてのものになる・・・に、もっと委ねた教育です。

その気になればそんな難しいことはないし、そうなっていくと何から何まで「どう指導しようか」ということで教師が悩まなくて済むようにもなっていきます。

*もっとも今は大学の教員養成でも、教科指導の訓練中心のところが多いのでしょうから、「子どもに委ねる」という発想が具体的にはどういうことなのか、なかなかピンとこないかもしれないですね。

本当は、人間力そのものを高めたいという志をもった先生方とか、教育者を目指している若い方々と、ネットなどを通して交流出来たらな・・・という気持ちも持っています。
私も体調や境遇なんかの関係で、いつまで動けるかわからないので(苦笑)

このことは現代社会でますます大切になっていると思うのですが、見失われがちになっていると思います。

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意地になるっていうのはその子自身の生命燃焼が行われてるってことでしょうね。

「先生の言う事はよくわかっている。けれどやっぱりついて行かれないんだよ、それには。」

っていうところが、一番個性と関わりを持つっていう問題、人間が生きてるっていうことと問題を持っている点なんじゃないですかね。

 生命力って何かというと『生きたい』んだよ。みんなそれぞれなりに生きたがっている。僕はこう生きたい、私はこう生きたい、ってどっかで思ってるよ。それが個性だよ。       (昭和六十三年合宿)


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従順を求める大人達からすれば、子どもや若者が「意地をはる」というのはとかく否定的にみられがちです。

 

また最近のように、「自分の思い通りに振舞って欲しい」「自分の価値観こそが正しい」という願望の強い世の中では、同じ若者同士で意地をはる相手に対して否定的な態度を示しがちですよね。互いに自分のこだわりを貫く姿勢を応援しあうのではなくて、潰し合うような・・・。

大人からも同年代同士からも、そんな風になっているから、「気に入らない相手からは離れよう、無視しよう。」となってしまい、個人個人がますますバラバラの存在になり、結果として生命力そのものが低下しているのかもしれません。

☆もちろん犯罪レベルでのいじめやパワハラを容認しているわけではないですよ。
ただ、ちょっとでも自分と気が合わないと感じる相手をどんどん排除しようとする姿勢は本当にいいのかどうか、私は疑問に感じています。


私だって「こんなやつはいなくなればいい」っていうのは今でもいます。
おそらく相手も同じことを私に対して抱いているでしょうね。

職場などもそうですが、やはり事実としてはみんなが「自分らしく生きたい」と思えば思うほど、個々人の違いによる衝突だって起きます。互いに気に入らないというのも強くなるでしょう・・・生命力が強まるわけですから。

「嫌なやつとなんて無理してつきあうことない」という主張も、自然な気持ちとしては分かります。
でも、そうして嫌な人間がいない場所を求め続けてはたして本当に自分の居場所はみつかるのでしょうか???
仮に自分の思い通りにしてくれる人達に囲まれた場所があったとしたら、もしかすると、それは周囲がとっても優しくて、みなさん自分のことを押さえてくれているだけなのではないでしょうか???

自分がストレスを感じないためには、周囲はストレスを感じてもそれを押さえて自分の思い通りになって欲しい・・・そんな姿勢でいつづけたら、せっかくの優しい人達も、いつか自分から離れて行ってしまうのではないでしょうかね・・・・

11日に更新したこちらの内容とも深く関係しています。
上原輝男記念会ブログ
人間の生き様 かぶき者&現代人
http://jigentai.blog.shinobi.jp

今日が上原輝男没後28年の命日、ということも意識しての特集です。

普通は個人個人のこととして考えられている「人格」も古来から日本人は「家系」からとらえていたという内容。
国立民族博物館、子ども文化の共同研究最終時の討論会で先生自身が発言したことについて 折口先生の言葉を紹介しながら講義で語っています。
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「日本人の人格・・・個人は人格たりえない」って言っているんですね。「家系が人格」・・・存続するものが人格なんですね。私が言う方が確かでしょ。

滅ぶモノが人格だったりするわけないじゃないですか。そうでしょ。死んだらおしまい、なんてものが人格だなんて、そんなもん人格じゃない。そんな事を言ったりしているんですけど。あれは玉川大学の上原教授の発言ってことになっている。出るんでしょうから。そうするとその教えを経て皆さんが活躍する・・・

いや、私も「私が言ったんじゃない。私に何か乗り移っているのかもしれない」・・・こう思うと気が楽ですよ。

     国文学講義(1)  昭和59年10月1日 
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「受け継ぐ」「伝承」ということを「家系」という視点からとらえているわけです。同じ血の流れでいう一族でなくてもいいわけですよね。

師弟関係での「同門」も広い意味での家系です。

具体的な思想・・・知識としての考え方・・・を受け継ぐということだけが、伝承ではない。
「生き様そのもの」を受け継ぐことがより重要であるということにもなるのではないでしょうか。

つまり、例えば上原輝男の説いた古来日本人の心、ということに納得がいかないという場合です。
考えている内容に納得していなくても、その探求への姿勢そのものを受け継いでいたら、それもやはり伝承していることになるのであろうということです。


*上原輝男記念会公式ブログの方では、今日の命日にちなんで生き様についてふれています。
人間の生き様 かぶき者&現代人
http://jigentai.blog.shinobi.jp

 

*上原輝男記念会 資料集サイトでは、上原先生の命日にちなんで寄稿された4つの資料を今日(4月11日)の午前中には更新する予定です。是非そちらもご覧ください
http://jigentai.edo-jidai.com/
→4つの資料の中で、この「生き様を受け継ぐ」ということに特に関りが深いのが、座談会の記録です。

 


*国立民族学博物館での共同研究については出版されています。
子ども文化の原像 文化人類学的視点から
岩田慶治編著 (国立民族学博物館教授)  
1985年 日本放送出版協会

P772 「子どもの人格」に関しての上原発言