上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー18 「家」①

数日後に迫った4月11日が上原先生の命日です。
そんな先生が(あとから思えば)最後に出席となった児言態月例会での発言。

まさに現代人に対しての「遺言がわりのメッセージ」です。

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『家は母胎であり休む場所なんだよ。 「やすむ」とは「いやすむ」であり (注、ヤ行音は生命力を表す音として 捉えている。「いのち」が「澄む」、 つまり生命がより純粋に清らかになっ ていくのが家なんです。」
平成8年3月例会 先生最後の例会)
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大人にとっても子供にとっても、「家」が休める場所になりにくくなっていますよね。
家に帰っても子どもを勉強に追い立てるというのは、昭和の頃もありました。
地区によっては帰宅して毎日のように習い事や塾というのもありました。

現代もっとも違うのは、何度も書いていることですが、情報端末やネットが大量に入り込んでいることです。
それこそ友達関係のことも仕事のことも次々とやってくる・・・かつてのように帰宅したら一応は解放されるとか、夜の10時すぎたらよほどのことがない限り電話をかけたらいけないとか、そういうのがなくなりました。

子どもの場合だったら、夜遅くに電話がきたら、家族がとりついでくれなかったり、またとりついでくれても長電話をしていると家族に注意されるということもあったわけですが、そうした歯止めも聞きません。

家族で共有していた1台のテレビ、なんていうのもなくなり、個人個人がそれこそ寝床で観たい放題みることだって小学生にも可能になっています。

夜中のライン等々にもすぐに応じないと翌日から仲間外れになってしまうと悩んでいた教え子たちもかなりいました。
ひっきりなしに連絡を取り合っていないと、みんなが自分だけをのけ者にして別ラインなどでやりとりをしているという恐怖感が非常にあるようです。

なんだかそんな若者達をみていると、みかけじょう仲良しグループであっても、実は信頼関係がほとんどないのではないか、仲良しを互いに演じているだけなのではないか、と感じてしまいます。


上原先生の指摘は、日本人にとって家とは単に休む場所ではなかったと。
現実対応から解放されて、ピュアになれる時間・・・「自分なんだ」ということに蓋れる時間・・・それが帰宅後から翌朝、活動をはじめるまでの時間帯だったのだと。

今更、スマホなどをなくせというのは現実的ではないでしょう。
帰宅後に友達とのやりとりがあること、大人だって仕事のことでのやりとりをなくすことはできないでしょう。

でも、それで生命力が回復する暇もなく、心身の疲労の蓄積によって、困難への耐性も著しく低下、挫折からの回復力も低下しています。

根本的に対処するには、やはりこうした現代社会の中であっても、どうすれば「家」本来の機能が確保できるかを社会全体で考えるしかありません。そんな悠長なことをしていたら競争に勝ち残れないという考えもあるでしょうけど、今の状態では勝ち残ったとされる側だって心身ボロボロで、みんなが自滅という道を進むしかない・・・というかもう進んでいると思います。

人間らしさを取り戻す勇気を一人でも多く復活させていただきたいものです。