「暁鐘成」覚書(3) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

前回、
「鐘成記述のウラ事情を探ります」と
宣言しました。

今回も『摂津名所図会大成』を
俎上に載せます。


「河童島」の項には次の記述があります。
◇堂島の西の端ニあり。
 一説ニいにしへ入江にて淵などありて、
 福島富島九條島いづれも入海の島なり。
 故ニ河童あまたすみて、
 時々小児を引こみ害せしより、
 終に島の名とせりとぞ。

 

堂島の西端に河童が棲んでいて
子どもを引っ張り込んでいたって
これホンマ?

本町の曲り淵の
地蔵さんが祀られている場所には
ガタロが棲んでいたという噂話と
よく似た話です。
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「水都大阪の異界を覗きます(6)」
https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12382860058.html

 

以下、*拙稿を引きます。
 *拙稿:「芦分紀行―近世の福島区域をめぐる―」
     『なにわ福島ものがたり』
      福島区歴史研究会、2012年初版

◆「河童あまたすみて、時々小児を引こみ害せし」とあるのを
 真に受けてはなるまい。
 「河童」は「合羽」(カッパ)であって、
 「船の表。潮を流す樋有所」であり、
 「投網船などの舳部にあるしきりで
 中央部に水の来ぬやうにした場所」である。

 

ジョセフ・ヒコ、1863年『漂流記』
 (『文明源流叢書』第三所載、1914年、図書刊行会)
および有馬頼寧、1916年「隅田川の船」『郷土研究』同年11月号を
読めば
「合羽」(カッパ)は甲板なんやとわかります。

 

拙稿の続きを記します。
◆「合羽島」は、
 堂島船大工町(北区堂島浜一、堂島一)からの
 船大工たちの移住先である。
 元禄3(1690)年9月、
 堂島洲先と東の方接続地を
 天満舟大工町・堂島舟大工町船大工の船作小屋替え地とし、
 地子銀を毎年上納するようになる。
  延享元(1744)年には、
 その地に家が建ち、
 宝暦三(1753)年に新船町となる。

 

堂島舟大工町船大工の

船作小屋替え地となったのは、
『大阪編年史』第六巻に、
 (1969年、大阪市立中央図書館市史編集室)
家が建ったのは、
『大阪編年史』第九巻、
 (1970年、大阪市立中央図書館市史編集室)に
記されています。

 

暁鐘成が実際に見た「合羽島」には、
船作小屋なんぞはなく、
漆喰の蔵を有する屋敷が建っていたことは、
「浪花百景」の「合羽嶋より東を望む」からも
推察されます。

 

写真図 「浪花百景」の「合羽嶋より東を望む」
    大阪市立図書館アーカイブ
    長谷川貞信画/一荷堂半水著
    綿屋喜兵衛
    1868頃(明治初年)

 

ただ鐘成ともあろう考証家が
「合羽」を「河童」と取り違えるには
訳がありそうです。
次回こそウラ事情を明かします。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登