前稿では新しい音楽家像における、文系と理系の両方の専門的な知識の必要性について述べました。こうなると音楽家は教育者であり指導者となるわけですから学術論文や学生や生徒のために使用する教科書を作る必要が出てきます。そこで出版業界の出番がこれまで以上に多くなるのではないでしょうか。
こうなりますと、例えば、現在の中等・初等教育について、学校の先生が自ら教科書を作り、それを配布するというような話を私は聞いたことがないのですが、やはり授業が音楽の単一教科となると仮定し、教員は博士(音楽学)を持つとなると、日本全国で共通する教科書を使用するというより、とりわけ優秀な教員は自分で教科書を作り、学生に使用させるべきであるとなります。
このようになると様々なところから反発が来ることは必至でありますが、本稿は試論でありますのでその件については触れないでおこうと思います。つまり、教科書という分野からすると、天変地異に近いような状況が起こることが予想され、それへの反発は想像を絶するものになるかと思われます。
この出版について少し述べますと、これまで出版業界が直接的に関わってこなかった事業体への需要が高まり、それへの対応が必要となってきます。それだけでも大きな変化でありますが、さて、これが現実のものとなると、教育は本当の意味で変わるかと思われます。
これはまだまだ教科書の話でありますので、学ぶことへの標準的な部分での話であります。ここに専門という考え方が導入されます。つまり、音符をうまく読み込む技術は実践と共に身につくものでありますので、楽器を手にするとき、やりたい楽器なるものは個人によって異なってきます。例えば、鍵盤楽器をやりたいと思う人もいれば、打楽器をやりたい人もいます。打楽器の場合、譜面の知識はいるのか?数学の知識は必要か?と思われるかもしれませんが、打楽器はリズムを支える楽器でありますので、その他全ての楽器についての知識が必要となります。これほど難しい楽器は他にないかと思われます。体力は必要、知識は必要となります。ここに管弦楽器が加わりますので、それらに個別に対応した指導を行っていく必要があります。
あとは楽器の消耗品についての流通が変化するため、増産体制が必要となるかと思われます。そうすると、既存のメーカーでの対応が可能であるかであるとか、新たなる設備投資の話も浮上するかもしれません。そうすると、金融企業がこれに素早く対応できるかどうかの検討も行わなけれななりません。各種教育機関の建物の改築や新設校であれば新たなる立地ということも踏まえると、金融企業の役割も大きくなります。これらの対応を総合的にどのようにするかが課題となってきます。
ここでまとめに入っていこうと思うのですが、音楽家として必要なことは「全知全能的」であることです。それを教育してゆく人はより高度な知識と技術が必要となりますので、そのような人をどのようにして育てるのかが当面の課題となるかと思われます。
現状では、博士(文学)を持っている人が博士(理学)や博士(工学)を同時に有する人物でかつ、音楽のプロのとして経済的に自立している人物が最初の指導者として有望でありますが、さて、そのような人がいるのか?という問題であります。この議論を行っている私が率先してこのプロジェクトを動かせ!という話をする人もいますが、私は残念ながら理系の学位を持っておりませんので、すぐに指導者として動くにはふさわしくありません。そうなると、他から呼んでくるのが話が早く、欧米地域にはこのような人物は多く存在しますので指導者や教員として呼びたいところですが、現状では不可能であります。
この試論を可能であるか不可能であるかの判断を下すのは日本国民の皆様方です。我が国の現状において経済を活性化させる方法としてこの道を選んでいただけるかどうかであります。
音楽が教育の軸となると、団体行動が増えます。そうすると打ち合わせが増えます。打ち合わせを行うときに飲み物が必要となるでしょう。それ以外にも・・・その後のことは皆様方に想像していただくとして、この試論では教育の方法はかなり難しくなり、教科書に関係する各種団体からの圧力が非常に強くなるなどの問題は発生しますが、日本全体として、日本の個性化を狙ってゆくにはこの方法がやりやすいのではなかろうかと私は考えております。
本稿においてこの試論を閉じようと思います。次回からはまた違ったことを企画しております。ご高覧、ありがとうございました。