前稿においてはサプライチェーンの変化における日本の国際化の必然性と個性化の前段階について述べました。

 

音楽は結局のところ、関数的な考え方が必要となってきます。例えば、一次関数的な考え方では、1時間にハムのサンドイッチを1,000個作りたい場合、ベルトコンベヤーの速度をどのくらいにするか?などの考え方が必要となります。実際の音楽では、先にベルトコンベヤーの速度を決め、最終的にサンドイッチを何個作るかというような考え方になるのですが、いずれにせよ、このような考え方を持つ必要が絶対条件となります。

 

音楽で商売するには同じ曲を繰り返し演奏し(もちろん、別のステージで繰り返すという意味である)、その時に聴衆がどのような動きをするのかを見ておかなければなりません。しかし、ただ見るだけでは何もなりません。その生のデータを加工しなければ意味がありません。ではどのように加工するかとなると、ここに統計学的な数学の必要性が出てきます。一番簡単なのは平均の考え方を導入することです。平均といっても様々な概念がありますので、そのあたりは統計学の教科書を見ていただくとして、例えば中央値という概念で聴衆の行動を見ると、地域的な差が出てくるかもしれません。

 

次に分散という概念からは標準偏差というものを吟味しながら自身のステージでの行動と聴衆の行動、地域の特性を吟味しながら次回のステージに活かしてゆくということが必要となってくるでしょう。

 

微分の観点からはステージの開始からアンコールまでの曲の構成(スピード感)を考えることも可能となります。スタートからゴールまでの距離は最初から決まっています。観客の心理状態もライブ会場では起承転結であり、やはり最後に大きく盛り上げる必要があり、時として、最初に大きく盛り上げ、最後にカッコよくまとめ上げる方法もありますが、いずれにせよ、容量は決まっているので、その中でどのような速度で進めるかについて、微分的な考え方が必要となります。

 

そうなると、今度は積分も必要となりまして、決まっている聴衆の心の面積を考える時、数値として捉えるには積分しかないのではないでしょうか。その意味で、音楽に数学は必要か?という議論が多くなるでしょうけど、私の経験上、これらの概念の習得は必要であり、音楽家は芸術家の一部であるので、数学など必要ないという考え方には反対なのであります。これゆえに教育の改革が必要であると25年ほど前から訴え続けているのですが、ようやくそれが実りつつあるように感じるのであります。

 

次に、音楽(体育)にかんする問題でありますが、例えば、ドラマーを考える時、やはり体育の教育が非常に役に立つのではなかろうかと思うのですが、これは音楽を知らない人でも納得していただけるのではないでしょうか。

 

ギタリストでも体育は必要でありまして、例えば、エレキギターは平均して3キロから4キロあります。それを立ったまま2時間弾くとなると、姿勢は悪くなりますし、とにかく肩こりがひどくなります。ステージでは自分の体重にギターの重さがプラスされた状態でジャンプしたり寝転んだりしてパフォーマンスをするとき、体への負担は非常に大きくなります。よって筋力トレーニングが欠かせなくなるのですが、やはり、子供のころからそのような教育がなされ、知識として入っていれば中年になってからの負担は全く違うものとなると考えられ、体育の教育への重要度はかなりのものになるかと思われます。

 

ここに国際化が入ってきますので、これらの教育を英語で行うと一石二鳥となるのではないでしょうか?と思うものの、実際には難しいので、語学教育をどのように行うかも課題となるところです。数学は世界共通なので、一度マスターすると言葉ができなくても数学の世界では渡り歩けますが、コミュニケーションという見方をショービジネスという視座で考える場合、やはり語学力も大切であり、ここに音楽(英語など)の必要性が高まってきます。

 

しかし面白いもので、数学をマスターする日本人は非常に多いのですが、外国語となるとなぜこれほどまでに敬遠されるのかが(数学も英語も基本的に記号を覚える学問と思えば同じ学問分野であると思うのですが・・・)心理学的に興味深いのですが、そこを克服することができる教育法の新たなる開発を期待したいところであります。

 

このように、音楽を通じ基礎学力と応用編とを同時に学ぶことができるようになりますので、今から2,500年ほど前の中国ではこのような教育法が盛んにおこなわれました。その当時の楽器がどのようなものであったかは不明な点が多いのですが、そのころから伝わる中国の古典楽器を観察しますと、例えば、弦楽器を見てみますと、弦の使い方が360度にわたり可能であり、当時の人の無限の可能性を信じる心がそのまま表れているように感じます。現代における弦楽器、例えばギターやバイオリンは90度×90度で、強引に計算すると180度までしか使うことができず、音楽への可能性は半減しているともとれます。音という無意識が半分、人間の自我が半分入るので楽器は半分の機能しか持たせる必要がないといえばそれまでなのですが、さて、このあたりも含め、やはり音楽をエンターテインメントから教育へ変化させ、物事を深く考えてゆくときが来ているのではなかろうかと考えております。

 

このように考えると、教員のサプライチェーンが従来とはかなり変化します。さらに、これからの音楽家(在来型の音楽家はどのような方向に進むかについて、自分自身で考えなければならない。少なくとも、エンターテイメント性を重視する在来型の音楽について、我が国では否定はしないものの、歓迎することもなくなるでありましょう。つまり、教育者がエンターテイメントを行うことについて、これは大いに歓迎することになります。)は教育者としての立場となりますから、入り口が全く異なってきます。教育にかんするこれらの点を改良してゆくとき、やはり大きな予算が動くのではないでしょうか。

 

今回はここまでとします。ご高覧、ありがとうございました。