前回は深層心理学とはどのような学問かをご紹介しました。3つの学派が存在し、それぞれはやはり、心の病に侵された人々を治療してくことが思たる目的であり、健康な心の持ち主のためのものではないことを解説いたしました。しかしながら、心が健康的な人に全く適応不能かというとそうではなく、無意識と自我とのバランスがとれている人に対しても「自覚」という意味で参考になることは多いかと思われます。例えば、それこそ、無意識と自我との統合が取れなくなるとどのようなことになるのか、体が縦半分に切り裂かれる夢を見た時、何を意味するのか(もちろん、該当する個人として)などを知識として持っていると心が乱れにくくなるなど、心の状態を安定させるには非常に役に立つものと思われます。

 

深層心理学が学問として、そして科学的な学問として確立させたのは何といってもユングの功績が大きいのですが、ユングが何を根拠に科学的にさせたのかというと、それは神話や文学であります。特に文学においてはカントやニーチェからの引用が多く、神話についてはいわゆる古代の神話についての研究が詳細であり、現代の学問からすると哲学の領域にかなり接近したものであることが特徴的であります。これはユングに限らず3学派の全てに該当するのですが、ユングはとりわけこの傾向が強いのが特徴です。ユングの論文を読むと一目瞭然なのですが、彼の理論構成のやり方として、非常に詳細な論拠を神話や文学から取り込み、最後の方に自分の理論を「盛り付ける」ような構成になっております。歌でいうと、曲のサビが一番最後にくるような変わった構成です。例えば、ザ・ブルーハーツというバンドの『情熱の薔薇』という曲がありますが、この曲はサビが曲の一番最後にきており、そのサビの一言を主張したいがゆえに曲全体の3/4を説明に使うという、起承転結の論理からするとかなり変わった曲なのですが、ユングの論文もこれとほぼ同じでありまして、ユング自身の独自の理論が書かれている箇所は短く、それ以外の論拠を示す部分が大半を占めているのが大きな特徴であります。これゆえ、私が一番最初にユング理論に触れた時の印象として、「心理学というより文学ないし、哲学」という印象でありました。これが深層心理学に取りつきにくくする原因の一つかと思われます。

 

ところが、ユングの論文を一字一句、詳細に読んでいきますと彼の主張がどれほど偉大なものかが理解できてきまして、そして何より、人間の心の働きを立証する根拠として文学や哲学を援用したという点に画期的な研究方法であるこが理解でき、何か突破口が必要な時は一見すると無関係なものから重要なヒントを得ることができるという、研究の方法に対する大きな示唆を与えてくれることにもなるかと思います。例えば、憲法の問題を考えるときに憲法の教科書を眺めていても問題が解決できない場合も多く、かといって日常の人々の行動や意見を聞いたところで実際にそれを法律として運用していくことに難しい新たなる問題にぶつかるなどがあるかと思いますが、例えば、中国哲学を憲法問題を考えるうえでの根拠とすることによりスムースになる場合もあります。このように、全く関係のなさそうな分野から知恵を拝借できることを知ることもでき、ここで重要なことに気づきます。それは、「すべてのものはつながっており、現代においてはそのつながったものを分断して理解しているだけにすぎない」と。

 

ここからいえることは、人間の心を科学的に分断して理解することよりも、心全体として理解していくことが大切であり、さらに、心の問題と共に人間の体の問題、さらには万物における人間の位置なるものを考えていくことにより深層心理学は完成していくのではなかろうかということであります。これゆえに深層心理学は哲学なのか文学なのか、それとも正味の心の問題を扱う学問なのかにつて判断が難しくなるところなのですが、これを言い出すと、布置の議論は化学の化学式や分子構造を示す図に非常に接近した考えでありまして、その意味で理系の考え方も必要となり、こう考えてみると、やはり、全ての物は元来つながっており、このような考えに立つと、もやは心理学とは何かという考え自体がナンセンスになるのですが、ユング自身は彼の理論は「科学的」であると主張しておりますので、深層心理学はやはり、個別の学問として取り扱うことにして、しかしながら、万物の物との分断を許さない、非常に個性化した学問であると結論付けることができるでしょう。

 

スルメのように噛めば噛むほどに味がでるユング心理学でありますから、学習する初期のころは大変な苦労をするかと思われます。先に進めば進むほど、その面白みが理解できてきますので、ユング心理学をまだ体験したことない方には是非とも、入門書だけでも読んでいただければ幸いです。次回をお楽しみに。