田窪一世 独白ノート -17ページ目

田窪一世 独白ノート

ブログを再開することにしました。
舞台のこと、世の中のこと、心の中のこと、綴っていきます。

 

★チケットお申し込みアドレスを間違えていました。改めさせてください。

 

「ハムレットのための特別席」

作・演出●田窪一世

 

下北沢劇小劇場

2019年5月29日(水)~6月2日(日)

 

29日水曜日19時

30日木曜日14時&19時

31日金曜日19時

01日土曜日14時&19時

02日日曜日12時&16時

 

前売3800円、当日4000円

 

主人公、篠田圭介はかつて将来を嘱望された舞台俳優でしたが、現在は場末の喫茶店の雇われ店長として、娘のくるみと世間から身を隠すように暮らしていました。ある朝、まるで示し合わせたのように、家庭を放ったらかして家出して来た姉、失恋したゲイの友人、ファンだと名乗る田舎娘、12年前に別れた妻までが現れて賑やかだが問題の多い同居が始まります。市井の人々を優しい視点で描いたダーク・ヒューマンコメディーです。最近、人間関係に少し疲れたと感じていたら、ぜひ劇場のドアをノックしてみてください。

 

今回、僕自身が主演の篠田圭介を演じるのはなんと15年ぶりになります。そして自分の年齢を考えると多分最期の圭介役になりそうです。自分の俳優人生と重なる部分も多く愛着もひとしおの物語。悔いの残らないよう懸命に演じたいと思います。なお今回、長年の仲間であり安心して舞台を託せる岡野佐多子と鶴屋紅子がシングルキャストで参加してくれます。その他、僕の演技観に懸命に取り組んでくれている若者たち。ぜひ下北沢劇小劇場までお越しください。

 

★チケットのお申込みは、氏名、郵便番号、住所、電話番号、希望日時、枚数を明記して以下のメールアドレスまで。

cupid.magic@au.com

 

 

 

 

 

 

 

靖国神社の正式表記は「靖國」で明治天皇が命名しました。「靖」は国を安んじるという意味で、国が安定するように国民が平和でいられるようにという願いを込めた呼び名です。

 

およそ150年前、東京都千代田区に作られた靖国神社。都心にありながら静かで神聖な場所ですが作られた当初はサーカスや競馬場などがあって非常ににぎやかな庶民の憩いの場所でもありました。

 

靖国神社は普通の神社とは違って祀られている神様が特殊です。神社によって祀られている神様はさまざまです。たとえば伊勢神宮に祀られているのは太陽神の天照大御神。出雲大社は大国主大神など日本古来の神様。明治神宮は明治天皇。鶴岡八幡宮は応神天皇。日光東照宮は徳川家康。太宰府天満宮は菅原道真など人物の偉功にあやかったり祟りを恐れて魂を鎮めるために祀ったのです。

 

日本では古来から自然のあらゆる場所に神様がいると考えられていました。死ねば神様になると考えている人たちが戦争で亡くなった人たちも神様として祀ろうじゃないかと考えて作ったのが靖国神社です。

 

誰でも死んだら神様になるという考え方は日本独特のもので、外国には理解されません。特にユダヤ教やキリスト教、イスラム教などは一神教といってただひとりの神様のみを信じる宗教です。日本のように八百万の神様がいるという考えは海外には理解されにくいのです。

 

靖国神社が他の神社と決定的に違うこと、それはなんといっても神様の数が違います。靖国神社に祀られている神様の数は246万6000余柱です。「柱」というのは神道で神様を数える単位です。どんな人が祀られているのでしょうか。そもそも靖国神社が作られる直接のきっかけは戊辰戦争でした。このとき明治政府側だった戦死者を祀ったのが最初でした。ですから坂本竜馬は祀られていますが、幕末の英雄、西郷隆盛は西南戦争で反政府側だったので祀られていません。その後日本が日清戦争、日露戦争、太平洋戦争などさまざまな戦争を経験する中で、戦死した人はすべて祀られるようになりました。こうして靖国神社は兵士や遺族の心のよりどころとなって行ったのです。

 

この中で海外から問題視されているのがA級戦犯です。ではなぜ戦争犯罪人とされた人を靖国神社に祀ったのでしょうか。1946年、戦争犯罪を問われる極東国際軍事裁判{東京裁判}が開かれました。

 

ではなぜA級戦犯を靖国神社に祀ったのか、きっかけは1952年のサンフランシスコ平和条約発効でした。これによって連合国は日本の主権を承認。日本は独立を果たしました。これをきっかけに戦犯でまだ死刑にならなかったが終身刑として刑務所に収監されている人たちを釈放させようという国民運動が起きたのです。当時の日本の人口は約8600万人でしたが、半数の4000万人の署名が集まりました。さらに処刑された人たちの扱いも変わり、公務死と認められたのです。

 

日本の考え方としては彼らは戦争犯罪人ではなく公務で亡くなったのだから靖国神社に合祀しようということになったのです。1959年にはBC級戦犯が合祀開始され、1978年にはA級戦犯も合祀されました。これが海外からは理解されにくいのです。しかしA級戦犯が祀られた当初は中国も韓国も何も言いませんでした。

 

では中国や韓国はなぜ突然批判し始めたのでしょうか。A級戦犯が合祀されたあとも大平総理は3回、鈴木総理は8回、中曽根総理は10回参拝しています。実は中曽根総理大臣の10回目の参拝のときのインタビューで中曽根総理が「公式参拝」と名言したことが問題となり中国が批判し始めたのです。総理がA級戦犯が祀られている神社を参拝することは戦争の正当化に他ならないと中国は主張したのです。一方、韓国はこのときはまだそれほど反発は激しくありませんでした。中国が批判した二ヶ月後から批判を始めました。しかし「日本政府は慎重に対処して欲しい」という程度の言い方でした。日本と中国は戦争したので中国は被害者ですが、韓国は日本と戦争した訳ではありません。不快感はあるが真正面から批判するというスタンスではなかったのです。

 

当時、中曽根総理自身、中国の批判は意外だったと述べています。中曽根総理は当時の中国の総書記の胡耀邦(こようほう)と親密でした。総理は胡耀邦さんに迷惑がかかることを心配してそれ以降参拝に行かなくなりました。その後、胡耀邦氏は失脚しますが、そのときの罪状は「日本と仲良くしすぎたというものでした」それ以降、中国のトップはうっかり日本と仲良くすると自分の身が危ないということを肝に命じるのです。

 

一方、昭和天皇は明確な理由はわかっていませんが、1975年にA級戦犯が合祀されて以降は一度も参拝されていません。平成天皇も即位後一度も参拝はされていません。総理大臣の靖国参拝は現在ではアメリカやヨーロッパからも批判され波紋を広げています。わたしたち日本人が思っている以上に海外で注目されているのです。ちなみに靖国神社のことは海外では「戦争神社」と呼ばれています。

 

よく解決策としてA級戦犯だけ分けて祀ればという意見がありますが、靖国神社としては一度まとめた魂を分けることは出来ないと言います。これはどういうことかというと、たとえとして、大勢の人が合祀されるということは水の中に水を足していくということだ。ひとつの水になってしまったものの中から14人の魂だけを取り出すことなんか出来ないという理由なのです。

 

さらに解決案として、千鳥ヶ淵戦没者墓苑という名前のわからない戦没者の遺骨を埋葬している墓苑をすべての戦没者を祀る施設にしてはどうかということも検討されました。しかしその一方で「靖国で会おう」と言って戦死した人が大勢いたのだから、遺族としてはやはり靖国神社にお参りしたいと、このあたりが非常に難しいのです。

 

 

▶︎晴海

 

 

 

 

 

 

干支(えと)とは十干(じゅっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わせたものです。十干とは日にちの順序を示したもので、

 

甲(きのえ)

乙(きのと)

丙(ひのえ)

丁(ひのと)

戊(つちのえ)

己(つちのと)

庚(かのえ)

辛(かのと)

壬(みずのえ)

癸(みずのと)

 

十二支は12ヶ月の順序を示したものです。

 

子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥

 

この二つの組み合わせが全部で60通り。これが一回りすると還暦になります。たとえば丙午生まれの女性は気が強く夫を食い殺すという迷信が信じられたため、丙午だった1966年生まれが少ないという現象が起きました。

 

 

▶︎大門

 

 

 

 

 

 

西暦(新暦)は、地球が太陽の周りを一周するのが365日だとしてこれを1年としました。しかし実際はプラス約6時間多いのです。そこでこれを閏年で調整しています。

 

西暦を取り入れたのは明治6年(1873年)からですが、それまでは月の満ち欠けを基準にした旧暦を使っていました。この旧暦は閏年ではなく閏月で調整していたのです。つまり2、3年に一度13ヶ月になるというものでした。しかしこれだと一年は354日で365日に11日足りません。この11日を3年でかけて33日。一年が13ヶ月の年があったのです。

 

 

▶︎国領

 

 

 

 

 

 

ロシア連邦タタールスタン共和国・首都カザン。2014年この町で一組のカップルの結婚式が行われた。15年の付き合いを経て結ばれたのは、新郎マキシムと新婦ベロニカ。そしてこの日を喜んでいたベロニカの母のスヴェトラーナ。ベロニカが幼い頃父が亡くなったっため、女手ひとつで娘を育てて来たのだ。彼女にとって娘の晴れ姿を見られることは最高にうれしいことだったのだ。

 

新婚生活は順調そのもの。仕事が忙しい夫は休日だけは妻と一緒に暮らした。そんな結婚生活を送っていたある日。夫の帰りを待ちながらベロニカは夕食の準備をしていた。しかし帰宅時間になっても夫は帰ってこない。携帯で連絡を取ろうとしてもつながらない。そして深夜、ベロニカの心配が極限まで達したとき、そこに現れたのは母スヴェトラーナだった。「マキシムが帰ってこないの」「ベロニカ、ちゃんと聞いてちょうだい。いくら待ってもマキシムは帰ってこないわよ」「どいういうこと?」「マキシムとは離婚したの」母のこの話には衝撃の理由があった。

 

それは結婚して一年後の2015年だった。突然、強烈な腹痛を訴えたベロニカ。すぐに病院に搬送された。「子宮内膜症です。手術をすれば痛みはなくなるでしょう」彼女は全身麻酔のもと手術を受けた。ところが痛みは治まらなかった。そこで医師は強めの鎮痛剤を投与した。その後、鎮痛剤により痛みは治まったが、彼女は次第に起きあがることや手足を動かすことが困難になっていった。そしてついには自発呼吸も出来なくなり、人工呼吸器で命をつないだ。

 

その後、ベロニカはなんとか意識を取り戻し、改めて詳しい検査が行われ本当の病名が判明した。「急性ポルフィリン症」この病気は遺伝性の疾患。人間の血液内には赤血球を作る課程でポルフィリンという物質が出来る。通常の人はこのポルフィリンが尿や便とともに排出され体内にはほとんど残らない。ところがポルフェリン症の人は排泄することが出来ず体の中に蓄積されてしまうのだ。ただししの時点ではポルフィリンの量が少ないのでほとんど問題はない。ベロニカは子宮外内膜症に関しては適切に処置されていた。ところが手術の際の麻酔や鎮痛剤などの投与が問題だった。このような強い薬が体内にはいることで、ポルフィリンが一気に増加。急性ポルフィリン症を発祥してしまったのだ。

 

このことにより中枢神経が冒され、全身の痙攣を引き起こし、やがて自発呼吸も出来なくなり昏睡状態に陥った。つまり早期に発見され強い薬を次々に投与されなければここまで悪化しなかったと思われる。日本のポリフェリン治療の第一人者、島根県済世会江津総合病院名誉院長、堀江裕医師によると「ポルフェリンということが頭に浮かばない限りは診断が出来ませんので、どんどん痛み止めを打つ。そしてまたどんどん悪くなるという負のスパイラルになって行きます。早期の診断で見極めることが大事です」

 

急性ポルフィリン症には症状を緩和する薬もあり、ベロニカの症状もすぐに落ち着いた。しかし深刻な問題が。昏睡状態のとき充分な酸素が脳に供給されなかったため脳がダメージを受けさまざまな後遺症が残ってしまったのだ。手足の動きが不自由になりきちんと喋ることも出来なくなった。夫は当初は必死に看病していったがやがて疲れ果て二人は離婚した。

 

実は彼女は短期の記憶を司る海馬を損傷していた。結婚式の記憶や新婚生活の記憶は海馬から大脳新皮質に送られて記録されていたため思い出すことが出来たが、しかし海馬を損傷してからの記憶、つまりマキシムと離婚した事実は海馬から消えてしまって思い出すことが出来なくなってしまったのだ。短期の記憶が出来ないため、昨日の記憶を無くしてしまい、毎日毎日、別れた夫のために二人分の夕食を作って帰りを待ってしまうのだ。

 

 

▶︎丸子橋