刹那の話(『時間』論2) | エニアグラムと哲学のTakkme

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◉9つの性格タイプ論としてのエニアグラム
◉神秘と哲学の両輪

 

人間には不得手な問題があると話した。

それが、

存在・時間・言葉  である。

(もう一つ「私」という大問題があるが、

 それはこの全ての問題に含めておこうと思う。

「存在=私」「時間=私」「言葉=私」と。)

 

そして、ここでは 時間 のお話。

 

 

 

前回の◉『時間』論1にて、

「過去」は我々が捏造しているかもしれないというシンプルな真実を

出来るだけ分かりやすく語ったつもりである。よろしければご一読を。

 

ただ、ここで誤解して欲しくないのは、

「過去」が重要でないとは全く言っていないということだ。

 

この「〜かもしれない」という哲学的な問いは、

我々を過去(=未来)というイメージから解放してくれる可能性を秘めている、

と言いたいだけだ。これはきわめて重要なことと思える。

 

以前、◉『脱・イメージ』論で語ったことがあるが、

言葉 イメージ である。

つまり 過去(=言葉)イメージ なのだ。

 

我々が、ボクが、本当に傷ついていると感じた時、

このイメージから自由になることが、このシンプルな真実が、

我々を、このボクを、救ってくれるとボクは信じている。

 

 

 

 

 

さて前置きが長くなった。

 

ボクはまず自分がなぜ「刹那」という言葉を使用するかについて
明確にしなければならない。
(ボクが言う)「刹那」は「時間」を表しているのではない。

1秒、1/10秒、1/100秒、1/1000秒、1/一億秒 …… の最後に
「刹那」があるわけではない。
ただ、どうしても「思考」はそう捉えがちだ。

つまり時間の最小単位として「刹那」と言っているわけではないのだ。
このことは明確にしておかなければならない。
もちろん自分自身が混乱するからだ。苦笑

ボクらは「時間」という観念(イメージ=言葉)の中にいるために、
そのこと(つまり「刹那」が時間でないこと)を掴むことが難しい。

これは「存在者」と「存在」を分けることが難しいことと似ている。
同じかもしれない。◉存在論1(存在と存在者)

ボクが指し示そうとしている「刹那」は、
<存在>-<コトバ>-<時間>が立ち上がる地点。

もしかしたら、沈黙を強いられる地点なのかもしれない。

しかし、ボクはコトバの限界に向かって突き進む。

それには、
むしろ上の「時間」という観念(カテゴリー)自体を
観察し、思考しなければならない。
つまりそれは「時間」の外に出ようとする行為。。

さらには「思考」の外へ、、

 

 

 

 

 

とっかかりは、

物理学に代表される線型の時間である。
「時間」について考えることが苦手である我々は、
この線型の時間という考え方に、必要以上の洗脳を余儀なくされてきた。
 

 

<線型の時間>とは?

 

 

一本の線をひく。

その真ん中に「現在」という点を打つ。
その左側が「過去」で、右側が「未来」というものである。
その左から右に向けての線で表されるのが「時間」だというのだ。

時計で言うと「現在」の時刻から見て、左回りが「過去」で右回りが「未来」という、
実に考え易い魅力的な認識の仕方である。

だが、今一度、この<線型の時間>という概念を離れ、
「時間」そのものについて考えてみなければならない。




「時間」とは何だろうか?




そうあらためて問うてみると、なんだかぼやっとだが、

上の<線型の時間>が少しインチキ臭い気がしてくる。
確かに<線型の時間>は、時間的な順序を分かりやすく表している。
さっき食べたカレーより昨日食べた餃子の方が時間的に以前である。

ただし、これは「時間」のある一面しか表現されていない。
いやそれどころか、その一面にすぎない考え易さと記述のし易さが、
「時間」の本質というものを見えなくしてしまっている気がする。

前回、「過去」について考えてみた。

 

「過去」はどこにあるのか?

考えてみれば、
「過去」は「現在」における「想起」というかたちでしか存在しない。
私たちはまさしく「過去」を「思い起こす」のだ。
それが「過去」の全てである。

「ボクはさっきカレーを食べた」という過去形の記述は
「現在」における「想起」を表している。
「過去」はその想起の瞬間にしか実在しない。
一体、それを「実在」と呼ぶのか判然としないが。。
(もちろんこれは「未来」についても同様である)

ここで、前回同様、織田信長は実在したんじゃないか?
それは「過去」ではないのか?という疑問もわくと思う。
たぶんそれは、あの<線型の時間>が巻き起こす誤謬、
または錯覚なのかもしれない。
それは「記述」という問題であって
本物の過去とは実は無関係な話ではないのか?

それは、やはり〈本物の過去〉
「現在」における「想起」というかたちでしか存在しえない事実を
純粋に考えれば分かると思う。
これは「過去」というものは主体から切り離せないという問題なのかもしれない。


そして、この事実は考えれば考えるほど重い。
精神分析学的にも非常に重要な事実ではないだろうか。

「過去」というものがそのような形でしか存在しないとすれば、
確かに「過去」は存在はするが、非常に曖昧のような気がしてくる。
(ここで「記憶」という表現も問題になってくるが、長くなるので割愛)




さて、ここで「現在」についても考えてみる。

 

「現在」というのは、なんだか少し時間的な幅を感じるので、
例の<線型の時間>がまた思考の中に入り込んでくる。
昨日から今日まで、とか。昨年から今年にかけて、とか。


分かり易くするために「今現在」から
「今」という<瞬間>を取り出して、<瞬間>について考えてみる。
これでもまだ<線型の時間>が思考の中に入り込んでくる。


「点時刻」である。


<瞬間>というのは幅のある時間を究極的に短くした「点」だというのだ。
よく考えると意味が分からない。

先に<線型の時間>を説明する際もこれを使った。
「一本の線をひく、その真ん中に「現在」という点を打つとすれば、、、」


 

 

 

 

点? 点を打つ?


 

 

 

なんだそれは?

 

 

「点」とは何だろうか?
(恐らくそれは概念=言葉である)


ボクには分からない。
以前「一次元」の意味が分からないと言ったが、
同じように「点」の意味が分からない。
まさに「次元」が違うからである。

この意味の分からない「点」を横に並べたのが「線」だ
というのである。なんだそれは?




<線型の時間>が犯罪的に我々に誤謬と錯覚をもたらしているのは、
この意味の分からなさが、あたかも分かるよう隠蔽されるところにある。




<瞬間>というのはこの<線型の時間>に無関係に近い。
<瞬間>が重要な『時間』の一部であるにもかかわらず、である。
関係あるとすれば、この「点時刻」が、さらに「点」が、
<線型の時間>の限界を露呈するためであろう。

仏教がこの<瞬間>を「刹那」と呼ぶのは、
できるだけこの<線型の時間>という概念から離れるためではなかろうか。

 

 

 

 

「禅・瞑想」とは、
我々の日常を支配するこの<線型の時間>から離れる仕方だとボクはかんがえている。

 

 

 

 

 

刹那から永遠へ

 

 

 

 

 

 

 

 

備考**********************

 

◉存在論1(存在と存在者)

存在者によって存在が隠されてしまうことを存在忘却と呼ぶと話した。

この存在忘却に、この<線型の時間>が一役も二役も買っていることは間違いなさそうだ。

 

 

存在者は、かくしてこの<線型の時間>に没頭し、存在忘却する。

 

 


さて、もうこんな時間だ。

早く寝なきゃ、明日の電車に遅れちゃう。。