過去は実在するか?(『時間』論1) | エニアグラムと哲学のTakkme

エニアグラムと哲学のTakkme

◉9つの性格タイプ論としてのエニアグラム
◉神秘と哲学の両輪

以前、人間には不得手な問題があると話したことがある。
考えること自体が難しく、
感覚的にも把握しにくいテーマがあるということだ。

これらは誰にでも理解可能なシンプルな真実ではあるが、
あまりにシンプルな真実であるがゆえに語ることが難しい。

そのために我々は、日頃、
そのこと自体を忘れてしまっているし、
忘れるための日々を過ごしていると言っても過言ではない。


それが、
存在・時間・言葉  である。

存在については◉存在論1
言葉については◉本質論でまずは語った。

これらの問題は絡み合っている。
同じ問題なのかもしれない。
 

 

 

 

 

今回は 時間 の話である。
トキトキあいだ の話である*。

大問題なんである。
さて、何から話そうか。笑


では、まず、ある問いを発してみよう。

 

「過去は実在するだろうか?」

 

 

当たり前だろ!と思われるかもしれない。
そうだろうか。もう一度言わせてもらおう。
「我々は、日頃、そのこと自体を忘れてしまっているし、
 忘れるための日々を過ごしていると言っても過言ではない」


過去を忘れるため、と言っているのでは全くない。
「過去が実在しないかもしれない」ということを、である。


5分前世界創造説 というのがある。

5分前に世界が創造されたというのだ。

 

 

そんなバカな!と思われるかもしれない。
そうだろうか。でもよく考えてみるとそうでもない。
実は、それでなんの問題もないのである*。

これは哲学的な思考実験と呼ばれるもので、
どんな物理学者でもその可能性はあると言わざるを得ない。
つまり、物理学の範疇ではないのである。

この「5分前」、
実は1分前でも1秒前でも構わない。

 

 

ボクはこれを
刹那世界創造説 と呼んでいる。
 

 

世界は「今」立ち上がり、同時に「今」消えている
とも表現できるだろう。

つまりそれは、
「時間は存在しない」かもしれないと言っているわけだ。




さて、
「過去は実在するだろうか?」
どう?怪しいもんでしょ。笑




シンプルに考えてみよう。

  確かに「今」しか存在しない。
「ある」のは「今」だけだ。
「過去」は「今」思い起こされるものだ。
「過去」は「今」に内包されている。


もちろん「未来」についても同じである。


でも、恐竜の骨が発見されてるじゃないか!
と思われるかもしれない。そうだろうか。
いや、その手の話はしてはいないのだ。笑

以前、「存在の謎」の話をした時、
存在者 存在 は違うという話をした。

「恐竜」は存在者である。
存在者(恐竜)の謎は解き明かされるかもしれないが、
その存在者(恐竜)がなぜ 存在 したかは謎のままである。

でも、DNAが発見されてるじゃないか!
と思われるかもしれない。そうだろうか。
いや、申し訳ない、
その手の話はしていないのだ。笑

・・・中略・・・

でも、ビックバンが発見されてるじゃないか!
残念ながら、ビックバンも存在者である。

ここで颯爽と登場するのが、全てを解決するかに見える、
スーパーマン「神GOD」である。
賢明な諸君はもうお分かりだろう。
残念ながら「神GOD」も存在者である。

仮にこれが宇宙人でも同じことである。笑

 

ビックバンだろうが、神だろうが、宇宙人だろうが、

いくら存在者たちを登場させても、

「なぜ、その存在者たちは存在したのか?」という「存在の謎」は、

そのままそっくり残っているわけである。


つまり扱っている次元(地平)が違うのだ。
この存在者たちがなぜ「存在」するのかは、謎・確定なのだ

 

「神GOD」はこの「存在の謎」を覆い隠すために
登場させられたと言えるかもしれない。
自らが登場させておいて、それで戦争までしてしまうのだから
人間は阿呆、、かもしれない。
阿呆も確定のような気もするが。。苦笑

話が逸れてきた?
いやいや、実はこれ、全く逸れてはいないのだ。

「世界」という存在者がなぜ「存在」するのかは、
  謎・確定、神秘・確定である。

「今」ここにドーンと「世界」があるのは、
  謎=神秘、確定なのだ。

この確定というところが大事極まりないのである。
これは誰にでも理解可能でシンプルな真実である。
なぜ理解可能であるかが不思議極まりないが。。

ところでこの「謎」の話、
刹那世界創造説と同じ話ではないだろうか。

 

つまり、「今という謎」の話は、

時間(過去)は実在しないかもしれないという話と
同じ話ではないだろうか。



人間には不得手な問題があると話した。



頭がイタくなってきた。笑
この辺で、時間論・第1話をお開きにしたい。
では。時間に追われる日々に戻ることにしよう。


 

 

 

 

備考***********************
ボクはこうした哲学的な思考をすることが好きだが、
一方、こんな机上の空論、考えるだけ無駄じゃないかと
考える方も多いのではないだろうか。

確しかに我々は、
我々の知覚した世界の中で懸命に生きている。
その世界の中で、喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。
この知覚した世界(存在者)の中で充実した生を生きることは
極めて重要なことだ。

しかし、どうにもならないくらいに、
ボク=世界が、傷ついていることに気づくことがある。
もう立ち上がれないと思うくらいに。。

そんな時、ボクは「真実」を見つけようとする。
「真実」という言葉は確しかに危険である。
ここでも非常に気をつけて、
誰もが理解できることを「真実」としたつもりである。

「過去」は我々が捏造しているかもしれないという
シンプルな真実は、我々を、過去(=未来)という
イメージ
から解放してくれる可能性を秘めている。

そうすれば我々は、

「今を生きる」ことを意識できるかもしれない。
「真実」は決して机上の空論ではないのである。

 

(しかもその真実とは『謎・確定』というのだから、

 またしても神秘へと回帰してしまうが。。笑)

>>時トキと時トキの間あいだ

「時間」という言葉はよく出来ている。
私たちを惑わすという意味においても。
「時」は時間ではない。
だからボクはこれを「刹那=今」と呼んだ。

時トキと時トキの間あいだを夢想するとき、
多次元宇宙やパラレルワールドといった表現が
可能なのかもしれない。

 

この人間の持つ表現(芸術)力は、

人間の夢想=イメージというものが、

「現実(今)」という謎にどのように接触しているのか

興味をいだかせる。

 

 

>>5分前に世界が創造されたというのだ・・・
 実は、それでなんの問題もないのである。

ここで「記憶」という問題も起こる。
しかし、やはり「記憶」も「今」に内包されている。
「記憶」は物質の属性だということもできるだろう。