まずはこのブログに頻繁に出てくる
「存在」について記しておきたいと思う。
常に立ち帰らなければならない地点である。
ボクが「神秘」を口にする時、それは「存在」のことに他ならない。
(ここで取り扱っているエニアグラムも、
その出自からみても「神秘的」な側面が強いと思われる。
ボク自身は物理的な法則だと思っているけれども。。
つまり、物理=モノ=存在者の法則であると。後述)
「神秘」と聞いて拒否反応を示される方もおられるかもしれない。
確かに真っ当な反応だと思う。「神秘」の乱用はキケンだ。
だから、ボクはここで「神秘」の領域を限定しておきたい。
これは非常に大事なことだ。
人間には不得手な領域があると思う。
考えるのが苦手な問題とでも言おうか。
「存在」「時間」「私(他者)」「ことば」・・・
だからこそこの問題たちは実はつながっているのかもしれない。
さて、ここでは
「存在」の話。
まず大事なことは、
「存在者」と「存在」を分ける作業である。
まず、このことが、現代の人々には難しい。
この二つは扱っている次元(地平)が違うからだ。
そのために「存在」は現在忘れ去られている。
これを「存在忘却」と言う。
この言葉、憶えていて欲しい。
この感じを掴んだ時点で、この話、9割は終わる。
「テーブルにコップがある」という文章で考えてみよう。
「テーブル」は「存在者」だ。「コップ」は「存在者」だ。
これは分かると思う。 ちなみに「実在」は関係ない。
「ここに幽霊がいる(ある)」 という文章でもいいわけだ。
「幽霊」は「存在者」だ。
もちろん「ネッシー」でも「神」でも「宇宙」でも「私」でもいい。
すべて「存在者」だ。
では、
「存在」とはなんだろうか?
「テーブルにコップがある」の「ある」である。
さて、分かりにくいと思う。
今一度、立ち止まって、掴んでほしい。
我々の日頃慣れ親しんでいるもの、
歴史学、生物学、心理学、数学、社会学、経済学、天文学、インターネット・・・・・
または私、あなた、友達、親、人間、動物、食べ物、音楽、芸術、戦争、神、夢・・・・・
すべて「存在者」だ。
森羅万象すべて「存在者」だ。
だが、
これら「存在者」はなぜ「ある」のか?
「哲学」の誕生である。
「哲学」は実はこの「ある」という驚きから始まっている。
それこそがボクが「哲学」に惹かれるたった一つの理由だ。
物理学者が素粒子やAIについていくら研究しても、
天文学者がビックバンやブラックホールについていくら研究しても、
生物学者が種やDNAについていくら研究しても、
歴史学者がダ・ヴィンチや織田信長についていくら研究しても、
素粒子もAIもビックバンもブラックホールもDNAもダ・ヴィンチも全て
「存在者」のことだ。
もちろんそれはそれで楽しい。
朝まで生テレビは面白い。
でもビックバンやDNAや神や・・・
という存在者たちが、なぜ「存在」するのか?
「存在」とは何なのか。
この世は「存在者」だらけだ。
(この言い方はおかしいけどね)
「存在者(=実存)」のことで頭がいっぱいだ。
大変だ。問題が山積みだ。
学校での問題=戦争、
家庭での問題=戦争、
宗教(神)での問題=戦争、、、
私やあなたや恋人や父ちゃんや母ちゃんや子供や
神様やお金や自然や生活や病気や……で頭がいっぱいだ。
大変だ。問題が山積みだ。
私という存在者は、
世界という存在者の中で、
もみくちゃにされ、レイプされ、傷ついている。
世界=存在者は傷ついている。
存在者はモノだからね。そりゃ傷つくよ。
モノの中で、もまれてもまれて傷ついて傷ついて、、、
トラウマトラウマトラウマ、、、
そして「存在」はやがて忘れ去られた。
そう、「存在者」によって「存在」が死ぬ。
これを、ある哲学者が「存在忘却」と名付けた。
我々は、「存在忘却」のまっただ中にいる。
でもふと思う、
この「存在者」たちはなぜ「存在」するのか?
私という存在者はなぜ「ある」のか?
なにも「無」くていいのに、
なぜ「在る」のか?
これは不思議だ。もの凄く不思議だ。
不思議以外のなにものでもない。
「不思議」という神秘はこの一点に集約される。
「存在」という一点に、だ。
それは奇跡か、はたまたニヒリズムへの入り口か?
とにかく我々は、この不思議の、奇跡の、まっただ中にいることだけは確かだ。
いくら人類が、ビックバンを、DNAを、、、解き明かしたところで、
なぜ、それが「存在」したかは永遠の謎だ。
「神」が創ったって?
いやいや「神」は存在者だ。笑
「神」を研究する神学者はビックバンを研究する物理学者と
かかる意味において同等であり「存在」の謎とは無関係に近い。
というより「存在者」と「存在」は先に言った通り
扱っている次元(地平)が違うのである。
しかも、
この「存在」の謎は、
決定的で「絶対」だ。
「謎」とは、このことを言うのであって、
他に、「謎」は、ない。
もっと言えば、
「絶対」とは、このことを言うのであって、
他に、「絶対」は、ない。
「存在」は神秘だ。
そして考えてみるがいい。
「存在」は不滅だ。
「存在者」は朽ち果てようとも、
「存在」は存在する。
「無」は無い。
「在る」のだ!
そしてそれが、
「今」である。
人は「存在」をリアルに感じるために、
踊りや、音楽や、絵描きや、小説や、映画や、
自殺や、他殺や、犯し、犯され、 、、
山や、川や、ゴキブリや、自然に触れ、SEXする……
自分が「ある」アカシとして。
今一度、感じて欲しい。 ボク自身が感じなければならぬ。
我々が、この自分が、この世界が 、この存在者たちが、
「ある」のは、
全くの、
完全な、
『神秘=奇跡』なのだ。
「神秘的なのは、世界が『いかにあるか』ではなく、
世界が『あるということ』である」(ウィトゲンシュタイン)