実は、結構な問題なのである。
ボクは小さい頃から不思議なことが大好きだったので、
いわゆる超能力などにも興味津々だった。
それが高じて、当時精神世界を標榜する老舗の出版社に就職さえしてしまった。
当時、そこの編集長はテレビに出ては大槻教授に叩かれていた。笑
当時のボクは勿論、編集長の味方だったがね。
結論から言えば、よく分からないというのが率直な気持ちだった。
もちろんソレ(いわゆる超能力)が確信出来る事柄はあるにはあった。
だが、それは非常に限られていて、その他のほとんどが
何かこう 曖昧模糊としている、という印象だった。
さすが「オカルト(秘されたもの)」である。
そこでボクの興味は次の段階へと移った。
ボクが知りたいホントウのこととは何だろう?
それは「神秘」そのものについて、であった。
本当に「神秘」などというものが存在するのか?
それとも「神秘」などなく
我々人間が(今の段階で)知り得ないだけなのか?
こう問うと、いわゆる超能力という路線では
原理的に説明不可能なことがなんとなく感じられた。
そこでボクは重要なものに出会う。
それはまさしくボクに鉄杭を食らわせた。
「哲学」である。
「哲学」とは「西洋哲学」のことをいう。
ボクは若い頃、それをかじったことはあった。
その時の直感で「西洋哲学は終わっている」と感じたまま放って置いたのだ。
東洋は「不思議」と仲がいい。
「東洋の方がカッコいいぜ!」
なんたる不覚。
その直感は結果当っていたのだが、直感とは恐ろしいもので、
当っているかどうかはあまり重要ではないのである。
「西洋哲学」について改めて調べてみると、これがまた凄い人たちがたくさんいる。
(考えてみれば当たり前のことだが・笑)
そしてボクに引っかかってくる哲学者たちはみな
「西洋哲学」が如何に終わっているかを詳細に、
そして命がけで論証しているのだった。
「なぜ」終わっているかが、とてつもなく重要なのだった。
もちろんここでその詳細は語れないが、
「人間が終わっている」のは「西洋哲学」と心中しているからである。
さて、本題にもどろう。
「神秘」に関してボクに鉄杭を食らわせた哲学者はハイデッガーである。
彼のおかげで、ボクには恐ろしくもワクワクする結論がもたらされた*。
「神秘」の確定 である。
このことがボクにとって如何に大きな出来事であったか!
それまでのボクは迷いの中で、絶対などないと、
すべては相対的で曖昧なものだと、諦めかけていた。
では、確定された神秘とは何か?
それが前回の『存在』論1で語った
「存在」である。
(前回の存在論1で「存在」と「存在者」を分け、
「存在」の謎が普遍であることを示しました)
ここで、
神秘が確定されたら曖昧さが増すだけじゃないか!と
誤解する人がいるかもしれない。
否、単なる曖昧と確定された曖昧は意味合いが全く違う。
「神秘という曖昧」はもはや曖昧ではなくなったのである。
もはやコトバから離れた方が良い地点だが。 。
「スプーン曲げ」が不思議なのではない。
スプーン(存在者)が「在る」ことが不思議なのだ。
重要な西洋哲学者のうちの一人、ウィトゲンシュタインは
そのことを的確にこう言っている。
「神秘的なのは、世界が『いかに』あるかではなく、
世界が『あるということ』である」 と。
逆に言えば、世界(存在者)は如何ようにもありえる。
かくして、
神秘は確定された。
ビッグバンの謎が、遺伝子の謎が、神様の謎が、如何に解明されようとも、
それらの「存在者」がなぜ「存在」するのかは永遠の謎、神秘のままだ。
なんと確定されていることはこの一点しかない。
そう、この一点しか、、 、
ボクは迷いの中にある時、(否、世界の中にいる時は常に迷いの中だ)
この確定された神秘とともにあろうと心底思った。
だって他はすべて相対的だ、曖昧模糊としている。
もうコトバとしても意味をなさない。
とにかく、
本当の神秘(=存在)とともにあろうと、ボクは思った。
「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、
存在の声によって呼びかけられ、
<存在者が存在する>という
驚異の中の驚異を経験するのである」
(ハイデッガー)
ハイデッガーはギリギリのところで「人間」を救おうとしているのだ。
さて、ここまで話して、
「スプーン曲げ」はそこそこ重要だと思うわけである。
備考**********************
>恐ろしくもワクワクする結論
神秘の確定、つまり存在の無根拠性が確定されることによって、
ニヒリズム(虚無)に陥る人もいるかもしれない。
「私の存在に意味なんかないんだ」と。
それは言わば究極の不条理である。
人間はこの不条理を感じるからこそ人間であるとも言える。
ハイデッガーはこの点から人間を救おうとしているのだと思う。
神秘は「意味」に先んずる。
エニアグラム的に言えば「思考型」に虚無感の強い人が多いのは、
思考(という病)が人間の象徴であることに通じていると思う。