前回、
確かに「過去」は存在はするが、非常に曖昧のような気がしてくる
とサラリと書いたが、正直に言うとこの表現は何かをごまかしている。
その時、このごまかしは重要なことだとの直感はあったので、
何をごまかしているのかと、かんがえてみた。
この表現は、
過去がどのように存在するのかを考えることをスルーさせようとしている。
姑息である。苦笑
それはやはり前回のテーマである線型の時間というものが、
ボクの血肉になってしまっている故だ。
さて、再度、確実なことを特定しておきたい。
それは、「今」しか存在していないということ。
確かに「今」しかない。
仮に過去という記述があったとしても、それをご覧になられているのは、
この「ボク」であり、「今」である。
これは、
今=ボク=存在
と言えるだろう。
哲学的に言うと独我論の入り口に立っているのかもしれないが、
そこには入り込まずにただただ確実なことを特定する。
「今」しか存在しない。
さて、では再度問う。
「過去」はどこにあるのか?
ここから先は仮説だが、
「過去」は「今」と次元が違うのではないだろうか?
かかる意味において、「今」と並行している(重なっている)、
多次元宇宙という考え方にボクはシンパシーを感じる。
そしてこのことは、前回の
〈本物の過去〉が「現在」における「想起」というかたちでしか存在しえない事実と
どのような関係性にあるのか。
なんだか、ふわっとした。笑
結論がふわっとする可能性があるためにスルーしようとしたわけだ。
もちろん結論なんてないのだが、姑息ではある。
備考*****************************
前半は存在の話、後半は存在者の話と言えるだろう。
存在者の話はいかようにもイメージ(妄想)出来る。
言わば芸術である。(科学であるとか文学であるとかと言ってもよい)
多次元宇宙論は芸術的にボクの好みだと言っているに過ぎないのだと思う。