ご先祖さまへの“感謝”の祈り🙏 

古い時代のご先祖さまは、永く、神仏習合の精神で信仰を行っておりました。
かつては、現代のように神道と仏教に、明確に分かれておりませんでした。
日本人は仏教という外国の文化を、日本固有の文化であった古神道の精神に取り入れたのです。
それは、それぞれの弱点を補うために必要とされたもので、これにより日本人の信仰心は更に強化されたわけです。
例え他国の文化であっても、いつしか我が国特有の文化に変化させるという日本人の感性は、他国にない大変素晴らしいものと考えます。
神仏習合の精神に立って祈りを行うと、先人の想いを大事にすることになり、古来の人の精神を学び、古代大和民族の感性を身に付けることができると信じてます。
ですから、私はあえて、神仏習合の方法で、日頃の神事を行っております。

現代のように「形」や「形式」に囚われることなく、古代の人のように、自由な発想力と自由な感覚感性で生きて行きたいと考えております。

猛暑酷暑の続く毎日です。
みなさまに被害がありませんように、神仏習合の精神に習い、みなさまのお幸せを祈願いたしております。



「予言」をする・・・と、いうこと = 「神や先祖に背く大罪行為」

 

「予言」によって多くの人を巻き込み、先のこと・・・すなわち「私たちの未来」という時間軸を、不安や心配の“邪気”で塗り固めるのはやめてください。

 

「予言者」に便乗して、人々の不安を煽り、商売するのをやめてください。

 

私たちの心の基本は「安らかに」「朗らかに」「和やかに」です。

神様は常に、そうおっしゃいます。

その基本的な人のあるべき心情を、根本から覆させるような予言は、神様のご意志に背いているわけです。

 

ですから予言は、神様の御意志に反した行為であるわけですから、「魔神・邪神」の類いの所業であるということです。

 

災害には「備える」ことが大事ですが、備えるということは、無駄に怯えたり、被害の度合いを異常に高く設定しないことが大事です。

気象庁が言うように、たくさんの人が死んだり被害が大きくなることも想定しなければなりませんが、必ず、そうなるとも限らないわけです。

例え、災害や災難などが起こらなくても、やがて人はみな、死ぬ運命にあるわけです。

いずれ死ぬのであるのなら、今を大事にすべきです。

今が大事にできないのなら、「先はきっと良くなる」という希望を持ちましょう。

私たちの未来は「夢」と「希望」に溢れている人生のはずです。

 

日本は古代より、自然災害の多い国でした。

その都度、多くの人の命が犠牲になりました。

それでも日本人は、ひとたび災難が起こった時、「一緒に逃げよう!」「一緒に助かりましょう」と、近所への呼びかけと介助を行い、被害が最小限で済むように、知恵と工夫を凝らした街づくりを行いました。

災害を通じて、地域のコミュニティを育んで団結力を身につけた日本人は、とても立派な志であったのです。

私たちのご先祖さまは、子孫に命をつなぐために、必死に生き延びてきたのです。

そのご先祖さまのご苦労に、私たちは感謝申し上げて、それに相応しい生き方をしなければなりません。

 

予言は、何も産み出しません。

人心を迷わせるだけならまだしも、頑張って生きてこられたご先祖さまに対して、とても失礼です。

予言は、それこそ「バチ当たり」です。

神様の怒りをかいます。

 

どうかみなさま。

何かと不安や心配の掻き消えない世の中ではありますが、だからこそ、力強く生きるための精神を身につけましょう。

 

尊い生命です。

 

自分と家族の生命・・・。

 

予言などを鵜呑みにしないで

「大丈夫だよ、心配ないよ、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんがついてるよ

ご先祖さまや神様が、きっと守ってくださるから大丈夫だよ」

 

と、なぜ、言えないのでしょうか・・・?

 

言ってあげましょう。

 

安心の言葉とオーラで、弱い者を守ってあげましょう。

それが、大人の勤めだし、社会人としての責任です。

予告~神霊セッション「神を学ぶ」~真の神とは

 

★審神者養成講座★ ★心霊研究講座★

宗教概念に基づかない“心の眼”で見えてくるもの

 

審神者(さにわ)という任務は、審神者の指導神より与えられた特別な資格であります。

審神者は、単なる霊感・霊能とは違い、それは霊的な分野なのか、それとも現実の世界で起こり得た事なのかを見極めるのです。

霊感や霊能は、妄想や空想、あるいは、思いつきで語られるケースがほとんどです。

この世のスピリチュアルや占いなどの方面で存在する著名人・有名人・宗教者の語るそれも、何一つ、真実ではありません。

人の“感”は、常に不安定であり、その人の感性と、その日の体調や生活状態、人生状況などで、常に狂うのです。

よって審神者は、霊感・霊能ではありませんし、宗教からも学べません。

ですから、審神者は神との交信ができることが第一条件です。

神の御心を知り、人の出した答えとは異なる「神の答え」を、わかりやすく、伝えなければなりません。

審神者は、努力や学びで出来る者と、特別な学びなどなくても習得できる者がおります。

また、どんなに学んで努力しても、習得出来ぬ者もおります。

それは、「魂の本質」の差であり、その者の魂の持つ”得意とする分野”が異なる・・・と、いうことになります。

しかしそれは、学んでみて、実践してみなければわかりません。

いわゆる審神者になる“可能性”が、いつの段階で見出せるか・・・と、いうことです。

 

私「中村建日」は、将来、私が審神者を勤める中に学んだ様々な知識と神術を、志を共にする人に教示したいと考えます。

そのために、様々な講義と実践カリキュラムを受けていただかなければなりません。

また、最終的に「式神術」も、習得いただきますが、これにはそれ相応の時間と、費用も発生します。

「式神」は、空想上の産物ではなく、生きて活動をする精霊たちです。

審神者中村建日の指導神は“23柱” 式神は“38体” にのぼります。

式神は日本の各地に存在する精霊でありますから、式神との“縁結び”は、現地に赴いて祈祷術を施さねばなりません。

また、式神の中には俗に言う“荒ぶるもの”もおりますから、これを抑える“氣”も、身に付けなければなりません。

また審神者を勤める者は「人格」「厚情」「思いやり」「柔軟さ」「心の強さ」「素直さ」「勤勉さ」などが必要です。

 

なお、「審神者養成」を求めない人には「心霊研究講座」も、別途企画する予定です。

各コースの希望者は、まずは「審神者指導神」から、合否の判断を受けなければなりません。

また、合格者は、大倭神道の祈祷を、定期的にお受けいただく必要があります。

合格者のみが、各コースの受講が可能です。

 

現在、セッションに使用するテキストを作成中です。

また、具体的にどのようにして参加者を募るのか、参加費用など…も、未定です。

予定では、九州・関西・関東の各地、並びに、オンライン等で、セッションを開催するように計画しております。

企画が決定次第、当ホームページでご案内いたします。

 令和7年5月8日 大倭神道神人和楽の会主宰 中村建日




 

 

 

祈祷を行う際「太鼓」の音により、「邪気」を祓い鎮めます。

太鼓の音はとても力強く、人の心を震わせます。

震わせることで、“塊り”が解けます。

その「塊り」とは、「邪気」のことです。

「邪気」とは、人のその心にある“心配”“不安”“苦悩”“迷い”などの「負の感情」のことです。

いわゆる「心の浄化」を図るのです。

人の抱える「過去世因縁」「先祖因縁」は共に、その人の心の奥底に存在します。

因縁は、まるで暗雲のように、私たちの心に現れ、これからの行く道を迷わせるのです。

ですから、祈祷の前に、その暗雲を打ち祓うように太鼓を叩くのです。

まずは、その暗雲を祓い「心の浄化」を図ることで、これから執り行う神事がスムーズになり、祈祷の内容が、心の奥底に届きます。

すると、祈祷の神事でお願いする内容がスムーズに通りますので、願いが叶う・・・のです。

ですから「太鼓」は心を込めて打ちます。とても大事です。




令和6年6月1日 午前3時33分


夜中寝ておりますと、まるで何者かに「起きなさい」と言われたかのように、ふと目が覚めました。

スマホの画面を見ると“3:33”でした。


でも、その直後に、強烈な睡魔が襲ってきまして、瞬く間に眠りに入りました。


すると、こんな夢を見ました。


私と、初老の男性と若い女性3人で、どこかの寺院の境内におります。

3人で連れ立ち、受付で署名をしまして、靴を脱いで、建物内へと進みました。

受付では、筆を使って「熊本市・中村建日」と、しっかりと書き留めたことが、深く印象に残っております。


足元を照らすように、整然と規則正しく灯してある、ろうそくの灯りを頼りに、薄暗い廊下を、前方に向かって歩いておりました。

すると、ふと、頭の中で、こんな声が聞こえてまいりました。


「私どもは“飛天”、“昇天”と申します。

あなた達は、どうぞ、私たちを拝みなさない。

あなたが、道に迷ったとき、または、途方に暮れたとき、私たちが現れて、必ず、あなたを導いて差し上げます。

どうぞ、安心なさい。

でも、今日のことを忘れてもいい・・・。

思い出さなくてもいい・・・。

例えば、あなたが子供であるならば、きっと、私たちを忘れるでしょう。

でも、それで良いのです。

たとえ覚えていなくても、私たちは、あなたを忘れることはありません。

それが“縁”と、いうものでしょう・・・」


こんな風に、私に語りかけてきました。


私は、一緒にいた男性と女性に、そのことをお伝えしました。


すると、その若い女性は大粒の涙を流して、こう言われました。


「私は、神社の神職をお勤めしておりますが、まこと“信仰”とは、ありがたいものですね」


次に、私は、このようにお答えしました。


「はい・・・おっしゃる通りです。

“信仰”は、本来、形や形式などの“宗教”には縛られない“心”のことをいうのです。

“宗教”と“信仰”は、全く別のものなんですよ。

そして“信仰”は、私たちが、苦しくて辛い時に“安らぎ”を得るための方法であり、幸せを感じるときの“堕落”と“傲慢”を抑え、“謙虚な心”と、“やさしい心”を失わないための手段なのです。

あなたはお若い方だから、これからいろんな苦悩を感じることでしょう。

でも、今日繋がれたこの“縁”は、きっと、あなたを助けてくれるでしょう。

だから、安心して生きてくださいね」


若い女性は

「はい、肝に銘じます」


右手の拳をしっかり握って、そのように、おっしゃっておられました。



さらに、薄暗い廊下を進んでまいりますと、そこには「薬師如来三尊」がご安置されておりました。

対で置かれた大きなろうそくの、神々しい灯りと、白糸のように天井に向かって昇り行くお線香の煙が、とても印象的でした。


すると、どこからともなく現れた薄い白衣を着た「飛天」と「昇天」が、如来坐像の光背に、スーッと、吸い込まれるように消えていきました。


光背をよく見ると、そこには、雲の上で横笛を奏でる仏と、同じく雲の上で琵琶を弾く仏の姿が、しっかりと見えました。


「あー・・・これが、“飛天”と“昇天”のお姿だったんだな・・・」


そう思ったところで、目が覚めました。