令和6年6月1日 午前3時33分
夜中寝ておりますと、まるで何者かに「起きなさい」と言われたかのように、ふと目が覚めました。
スマホの画面を見ると“3:33”でした。
でも、その直後に、強烈な睡魔が襲ってきまして、瞬く間に眠りに入りました。
すると、こんな夢を見ました。
私と、初老の男性と若い女性3人で、どこかの寺院の境内におります。
3人で連れ立ち、受付で署名をしまして、靴を脱いで、建物内へと進みました。
受付では、筆を使って「熊本市・中村建日」と、しっかりと書き留めたことが、深く印象に残っております。
足元を照らすように、整然と規則正しく灯してある、ろうそくの灯りを頼りに、薄暗い廊下を、前方に向かって歩いておりました。
すると、ふと、頭の中で、こんな声が聞こえてまいりました。
「私どもは“飛天”、“昇天”と申します。
あなた達は、どうぞ、私たちを拝みなさない。
あなたが、道に迷ったとき、または、途方に暮れたとき、私たちが現れて、必ず、あなたを導いて差し上げます。
どうぞ、安心なさい。
でも、今日のことを忘れてもいい・・・。
思い出さなくてもいい・・・。
例えば、あなたが子供であるならば、きっと、私たちを忘れるでしょう。
でも、それで良いのです。
たとえ覚えていなくても、私たちは、あなたを忘れることはありません。
それが“縁”と、いうものでしょう・・・」
こんな風に、私に語りかけてきました。
私は、一緒にいた男性と女性に、そのことをお伝えしました。
すると、その若い女性は大粒の涙を流して、こう言われました。
「私は、神社の神職をお勤めしておりますが、まこと“信仰”とは、ありがたいものですね」
次に、私は、このようにお答えしました。
「はい・・・おっしゃる通りです。
“信仰”は、本来、形や形式などの“宗教”には縛られない“心”のことをいうのです。
“宗教”と“信仰”は、全く別のものなんですよ。
そして“信仰”は、私たちが、苦しくて辛い時に“安らぎ”を得るための方法であり、幸せを感じるときの“堕落”と“傲慢”を抑え、“謙虚な心”と、“やさしい心”を失わないための手段なのです。
あなたはお若い方だから、これからいろんな苦悩を感じることでしょう。
でも、今日繋がれたこの“縁”は、きっと、あなたを助けてくれるでしょう。
だから、安心して生きてくださいね」
若い女性は
「はい、肝に銘じます」
右手の拳をしっかり握って、そのように、おっしゃっておられました。
さらに、薄暗い廊下を進んでまいりますと、そこには「薬師如来三尊」がご安置されておりました。
対で置かれた大きなろうそくの、神々しい灯りと、白糸のように天井に向かって昇り行くお線香の煙が、とても印象的でした。
すると、どこからともなく現れた薄い白衣を着た「飛天」と「昇天」が、如来坐像の光背に、スーッと、吸い込まれるように消えていきました。
光背をよく見ると、そこには、雲の上で横笛を奏でる仏と、同じく雲の上で琵琶を弾く仏の姿が、しっかりと見えました。
「あー・・・これが、“飛天”と“昇天”のお姿だったんだな・・・」
そう思ったところで、目が覚めました。