西東雑論 -6ページ目

「どこを隠すべきか」 第一回

  街中を歩いていると、前方を歩いている女性の後ろ姿を見て、お?と思った経験があるだろう。しかし、何かの拍子で前姿を見て、がっかりしたと言う経験もあるだろう。女性からすれば、何を勝手に思って、何を勝手にがっかりしているんだと腹の立つ話かもしれないが、昔から言われている話である。さて、この時、そのどこを見て、お?と感じるのだろうか。外形だろうか、髪型だろうか。いずれにせよ、それは記憶と結びついたものである。しかし、これが経験に由来するものだとは、思えない節がある。それは、そう思える後ろ姿に、そんなに差が見られないからである。もちろん、これは僕の見聞きした範囲であり、そのため、近い歓声、感覚の集団によるものであるから、差が出難いものではある。それでも、感性が逆にある人が指す、お?と思う後ろ姿には、それは分かる、と言えると思っている。年代や経験によって生じる差が生じないと言うことは、つまり、一定の情報を元にして、この感覚が形成されたと言う事を示唆するのではないか。テレビなどが、それを可能としている。いや、それとも、男性が求める理想の後ろ姿と言うのがあって、それが遺伝子レベルで刻み込まれていると言うのだろうか。しかしである。お?からがっかりと言う流れ、ここからもっと言える事は、やはりと言うべきであるが、後ろ姿以上に前姿を重視している事であろう。




「感動の喪失」 後記

  さて、元々の出発点は、第一回で触れた音楽ネタ。


針が落ちる瞬間の胸の鼓動焼きつけろ

例えば古い恋の歌を擦り切れるまで何度も聴いて


  この二曲の歌詞を使ってみようと言う、けっこう古くから持っていたネタ。前者はレコード。レコードの針がレコードに落ちた瞬間、音が鳴り始める。PLAYを押して、自動で針が動き出す。そこまでの微妙な空白のドキドキ感。後者はカセットテープ。今のようにデジタル化された音楽であれば、そのメディアが毀損されない限り、永遠に聴き続ける事が出来るが、カセットテープはそうもいかない。と言う経験が無いだけに、どこまで本当なのかは分からないけど、テープは再生を繰り返し続ければ、劣化するのでしょう。今は、どちらもその経験をする事が出来ない。そんな切り口にしようと思ったんだけど、何せ音楽にそれ程に興味が無いものだから、展開できないできない。と言うことで、情報と言う切り口に転換させて、自分語りは好きではないけれども、そちらへと移行させた。


  ここでも、中国の古典に拠ったり、歴史に拠ったりして、長々と文を書いた事もある。それをやるに際して、ネットで底本とする情報は持ってきても、それに対する訳や解釈は、やっぱり自前でやった。無かったから、やらざるを得ないとも言えるかな。最初にやったのは、「知りて言わざれば~」だったかな。これは、崔浩の列傳を訳した時に見つけた。正に偶然の産物。また、「百里を行かんとする者は~」は、漢和辞典で百についての熟語を探していた時だったのかな、それとも、たまたまそのページを開いた時に目に入ったのかな、それで、いつかやろう、と思ったのが出発点。この偶然は、ある意味において感動と同じであり、その種の本を読んでいても、たぶん書こうとかは思えなかったろうし、記憶に強く残る事も無かったと思う。


  で、僕はこことは他にHPをやっていて、そこには、公言すべき事ではないけれども、アクセス解析を設置している。すると、本文でも触れたけど、大学のホスト名が出て来る事も、稀にある。その時、検索キーワードが見る事が出来る時もあり、それが、やはり本文でも書いたけど、これくらいの事だったら図書館行って調べろよ、と言いたくなるキーワードだったりすると、本当に残念になる。ネットの検索は、望んだ答えしか返ってこない世界。直接にその情報を探したいなら、確かに便利だし、僕もその用で活用しているけど、その周辺の情報を得るのは、たぶん本に当たるより手が掛かる。そんな事を愚痴りたかった。


  実際に卒論を書くに当たっては、そのモチベーションの維持は大変だった。二年の秋には方針を決めて、そこから調べ作業に入ったけど、最初はもっと前の時代から手を付けていたため、これじゃ終わらん、と言うことで、唐の時代に絞った。そのおかげで、実際に書く時の作業が楽になった。でも、その時の検索を掛ける語を探すのは手作業。手作業と言う工程を経ていなかったら、この詩にはたどり着けなかった、そんなのもある。


  その手作業の延長線上にあるのが、HPであり、ここを含めたblog。使う気はあまりないけど、その結果で見つけた言葉がある。「言之不行,無益也;行之不至,無益也」。『新唐書』「李絳傳」にある言葉。これは皇帝の問いに対する答えの最後に付け加えた言葉だけど、これを受けた皇帝は大変に感銘を受け、「而等宜作意,勿為如此事。」と訓示した言葉。ここから有益無益の論展開ではなく、「為す」事について論展開が望める言葉。「為す」事については、他の情報でやりたいと考えており、それにこれを加えられるかは不明。でも、やっぱり、やるかどうかが不明。


  まとまりが無い後記になったけど、結局は僕の愚痴だったと言う事。



「感動の喪失」 第七回

  今、正にその情報元が生み出され、それがネットに情報として上げられる物であれば、それはネットから情報を得るべきである。常に新しい情報が求められる理科系であれば、そちらが当然となるであろう。discoverされた事象は、それが発表された時点で、discoverの段階が終了する。次に行うべきは、それを応用、発展させる事である。先願主義を取っている世界であれば、最新の情報が紙媒体ではなく、ネットにて発表される方が、圧倒的に早いわけである。しかし、過去の解釈などの積み重ねに比重を置かなければいけない場面の存在する人文系であれば、ネットにある情報を活用はすれど、それに重きを置いてはならない。同じ対象を、同じようなテーマで扱ったとしても、同じ結果にたどり着く事は無い。一つの絶対的な答えにたどり着かない、これが理科系との決定的な違いである。であれば、書こうと言うモチベーションを保つのは、難しいものとなる。数をこなして、それが作業として行う事が出来るようになれば、保つのは幾分かは楽になるかもしれないが、学生レベルであれば、それは無理であろう。確かに、卒論であれ、書く事は作業になってしまう。しかし、作業としてこなせる程の分量ではない。集める情報も、掛ける時間も、通常のレポートとは比較にならない。通常のレポートでも、けっこう大変だったりする。しかし、レポートは過去のを拝借したりして、何とか乗り切れたりもするが、卒論はそうもいかないし、それで乗り切れる事があったとしても、それでは四年も学生をやっている意味が無い。自分の考えを、長々とまとめなければいけない時、そのスタート時のモチベーションを支えるのは、はやりその情報に遭遇した時に得られる、ある種の感動に他ならないのではないか。その情報は、望んではいるけど求めてはいなかった情報なのかもしれない。