西東雑論 -53ページ目
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「自転車の無灯火について」

  自転車の無灯火走行について、以前にはこう言われていた。それは、交通ルールを知らない人、つまり、免許を取得していない人が、このようにしている、と。しかし、この論理は、先の震災を境に破綻し、当てずっぽう以下のたわ言である事が露呈した。


  先の震災直後、自家用車はおろか、タクシー、バス、電車の各交通機関も麻痺してしまった。また、原発の問題も重なって、それ以前のような交通状態に戻るのは、不可能な情況になってしまった。そのため、電力事情や交通状況に左右され難い自転車に注目が集まった。これによって、自転車通勤の人が急増した。それに連れて、危険な走行をする自転車が増えてきているのだと言う。震災後に増加したのは、会社勤めの人であり、その多くは免許を保有しているであろう。つまり、免許の有無によって、自転車の走行の良悪が決まるわけではないと言う事である。


  問題を、灯火、無灯火に絞る。何故にライトを点けないのか。一つに、その形態による。タイヤの回転による摩擦エネルギーを、点灯に使用している場合がそれである。この摩擦によって、走行のためのエネルギーが奪われてしまい、つまり、スピードが下がるためである。また、摩擦のために、ペダルをこいだ際に重さを感じるためである。しかし、これは、電池式のライトを別途で取り付ければ、すぐにでも解決される事である。


  また、もう一つの理由、これが殆どの理由である。それは、路面が見えているから、ライトを点ける必要が無いと言うのである。先に陳べておくが、自転車に取り付けるライト程度の光量では、路面を見えるまでに明るく出来るわけ無い。タイヤとの摩擦や、電池でのエネルギーには、そんなエネルギーは無い。路面が見えているのは、街頭や通りに面している店などからの灯りによるものでしかない。本当に真っ暗な中であれば、車やバイクのライトでなければ、その用を為さないのである。その車やバイクの灯りであっても、幹線道路を走行する際には、その用を以って使用されているわけではない。この時の用は、自転車と同じである。それは、自分の存在を他者に知らせるためである。自分が知るためではなく、自分を知らせるためである。


  無灯火によって事故に遭い、怪我をするのも死ぬのも己の勝手によるものだが、それによって怪我をさせられる人も出てくるであろう。また、そんな馬鹿な行動を取った人間を轢いたがために、刑務所に入らなければならなくなる人を発生させるのは、これこそ極悪人の非道と言えよう。刑期を終えて出てきたとしても、引いた時の感覚、感触は消えやしないであろう。その光景が、記憶から消される事は無いであろう。死んでなお人を苦しめ続けるなど、閻魔の裁きを待つまでもなく、地獄送りとなろう。



  日常的ではないけれども、僕も自転車に乗っている。当然、ライトは取り付けている。一回買ってしまえば、そうそう買い換える事になる物でもないから、値段そのものは少々高くとも、自分の身を命を守る値段と考えれば、破格に安い物。電池だってアルカリ電池が四本で、だいぶ前に買ったので正確な時間は忘れたけど、点けっ放しにしていても、90時間は持ったはず。一日一時間使ったとしても、90日、三ヶ月も持つのである。点滅にすれば、更に時間は延びる。上で陳べたように、自分の存在を知らせるために点けるのであるから、点けっ放しにしておく必要はあまり無い。だから、電池一回の交換で半年近く持つ人が多いんじゃないかと思う。


  点灯させるのだって、今は夏で日没まで時間があり、また、沈んでからもそこそこ明るさがあるけど、日没前でも、ちょっと暗さを覚えれば、そこで点ける。冬のように日没時間が早ければ、日没に30分前であっても点ける。ただ、こちらが点けたとしても、他者がそうでなければ、そこで確保される安全度は20%も無いかもしれない。安全とは相互作用であり、相互信頼の下に成り立つもの。相手の信頼にこたえるためにも、それは自分の身を守る確率を上げる事でもあるのだから、暗さを覚えたらライトを点けて欲しい。暗さを覚えなくても、車の三割がライトを点けたら、自転車も点けて欲しい。



  自転車に乗る身から、自転車関係の事は、これから何回も書いていきます。





「今年の変更点」

  今年の野球界では、二つの変更点があります。一つはストライクゾーン、もう一つは使用球です。ストライクゾーンは、今までが狭すぎました。以前にも、何回かに渡ってゾーンが広くされましたが、残念ながら、シーズンの途中で以前のに戻ってしまいました。人間が判断する事であり、今年の変更も元に戻ってしまう可能性はあります。また、これを複数人の人間がやるため、仕方の無いものではありますが、ゾーンの幅、位置に違いが生じています。以前と比べて広くなった事から、バッターが途惑いを感じるのは仕方がありません。特に外角に対しての途惑いが見られます。しかし、審判によっては、確かに外に広げたものの、その広げた何割かの内角の分を削って判定する事があるように見えます。これでは、バッテリーが途惑ってしまいます。内角に関しては、以前と変えなくともいいのです。今まで狭かった分を広げようと言うのであって、十分な広さのあったゾーンを外にずらしましょう、と言う話ではないのだから。


  そして、最大の変更点は、使用球の反発係数です。このような変更は、以前にもありました。2005年がそれに当たります。かなり以前にサイトをやっていた時、この事をネタにして、一文を書いた事があります。原題が「高反発球」で、載せるに当たって「中距離打者復権」と改題しました。残念ながら、アップしたファイルを誤って消去したため、原文しか残っていません。それを以下に引用します。



バットに当たった瞬間、ガッツポーズを取るバッターと、マウンドで項垂れるピッチャー。野球の醍醐味の一つ、ホームランの明と暗の決定的瞬間である。しかし、ここ数年、この瞬間に異変が生じていた。届いていないなとバットを放るバッター、しかし、その打球を驚きの眼で追うピッチャーがいた。両者にとって、暗と暗と言う不幸の瞬間が生まれるようになっていた。勿論、打った側を第三者が見れば、誰もが明と見るであろうが。


この不幸の大元は、ボールの反発率にあると言う。使用されていた球は、規定内の数値だったそうであるが。しかし、それは、ピッチャー、バッターの両者に違和感を抱かせるものであった。見ている側でも、「あの当たりで入るのかよ?!」と言うものもあったから、当事両者にとっては尚更であったろう。


この不幸を取り除くべく、使用球の反発率が低く抑えられる事となった。シーズンが開幕し、結果ははっきりと出ているようだ。バッターが首を傾げた打球がホームランになる事も、ピッチャーが驚きの目で追うようなホームランも無くなった。実況アナは、盛んに「低反発球」と口にしている。しかしどうだろう。ここ数年が異常だっただけであって、正常に戻ったと言った方が、より正確であろう。ただ、今の使用球が、異常期以前よりも低いと言われているので、そうであれば、低反発球と言う表現は、あながち間違えてはいない。


さて、この球の反発率の変化で、バッター有利からピッチャー有利になると予想されていた。ここ数年のホームランになった打球が、フェンス手前で失速して外野フライになると考えられたからである。確かに、これは当たっていた。しかし、打球は何もホームランだけではない。今まで、飛び過ぎてホームランになっていた打球があるように、飛び過ぎて外野フライになってしまった打球や、打球が速すぎて塁上ランナーの進塁が阻害されていたものもあったろう。試合内容を見ると、好投手が好投していれば、確かに完封や、それに近い内容になっているが、調子が悪いと炎上してしまう。以前と変わらない結果になっている。ただ、内容を見ると変化がある。一発攻勢から、集中打によるものへと変化している。ピッチャー有利とはなっていないようだ。



  以上であるが、改題した中距離打者は、外野フライがその前に落ちてヒットになる打者を指していたはずです。書いたのがシーズンが始まってすぐ、2005年04月17日のため、この年の成績がどうであったかは分かりません。調べれば分かる事ですが、面倒なのでここでは触れません。


  今年の使用球は、確かに飛距離が落ちています。テレビではなく、実際に球場で目にすると、より実感します。そして、ゴロの打球も、そのスピードが落ちています。ですので、脚が速くて反応の速い野手であれば、追いつけるような打球が増えていて、以前よりも外野に抜けていく打球が減っているように思えます。しかし、改題で予想した、中距離打者の復権はなされていません。それは、外野手まで飛んでいた打球は、変わらずに外野手まで飛んでしまっているためです。飛距離が落ちてくるのは、外野手の頭を越えていった後からなのです。


  打球が飛ばなくなったと実感させられるのは、やはり、ホームランの数が減少した事です。しかし、そこには簡単に比較できないものがあります。それは、去年までは、各球場ごとに使用球が違っていたからです。特に去年は、甲子園での打球の飛びは、飛び抜けて異常なものがありました。甲子園をホーム球場としている阪神は、メディアに大きく取り上げられる事が多いため、どうしても飛ばないと言う印象を強めています。同じく、メディアに大きく扱われる巨人のバッターが打てていない事も、それを強化させています。阪神も巨人も、その主軸の年齢がいっている上に、怪我のために、本調子ではないと言う側面があるため、一概には言えないのです。


  そんな中にあって、例年と変わらない、いや、それ以上かもしれないペースでホームランを量産しているのが、西武の中村です。55試合を終了した時点で、既に20本も打っているのです。ぎりぎりの当たりではなく、打った瞬間に分かるものです。球場で見ていても、去年と同じように、打った瞬間に入ったと確信が出来るような当たりです。これから更に脂が乗ってくる年齢であり、前述の選手とは、その点での違いがあるので、どちらがどちらと言えはしません。また、この使用球の変更に当たって、去年の秋季キャンプで、1.3cm長いバットを試したそうですが、結局、以前のままのバットに戻したとの事です。その理由は、長くしたバットではバランスが取り難かった事と、とらえれば飛ぶ事が分かったから、と。去年のように飛ばせなくなったと言われるバッターは、その多くがベテランや外国人です。外国人はシーズン終了と共に帰国してしまいますし、ベテランはと言うと、秋季キャンプは身体のメンテナンスに当てる事が多く、共に春季キャンプになってから本格的に対応しようとしたため、その対応が遅れてしまったのでしょう。また、飛ばなくなる、と言う事から、筋力アップやバットの変更で対応しようとし、また、それで対応できると踏んでいたのでしょう。ところが、蓋を開けてみたら、それでは対応しきれない事が分かり、シーズンに入ってから更なる対応を迫られてしまい、その分、余計に出遅れたと思われます。また、これとは別に打撃フォームの変更を図ったものの、それをものに出来なかったために、成績が上がってきていない選手もいます。ただ、この変更で打ち出した選手がいます。ヤクルトの畠山です。開幕してからしばらくの間、やたらと打ちまくっていました。何がその要因だったのでしょう。謎です。また、徐々に球への対応が実を結んできていて、これまでのような投手の圧倒的有利と言う展開に、少し変化が生じる可能性が出てきています。


  野球は、その飛距離を競うスポーツではありません。フェンスぎりぎりであろうと、場外であろうと、同じ一本のホームランです。だから、言ってしまえば、フェンスを越えるだけのパワーがあれば、それでいいのです。だから、球が飛ばなくなったと言うのであれば、飛ばせるようにすればいいだけの事なのです。それは、筋力アップなのか、バットの変更なのか、フォームの変更なのか。球が実際のところどうなのか、その情報が無い上での対応ではなく、情報を得た上での対応が図られる来シーズン、その終了した時にこそ、使用球の変更がどうなのかが分かってくると思うのです。それによっては、長距離砲から中距離砲へとスタイルチェンジを迫られる選手も出てくるでしょう。それは、窮状の広さが一気に増した時期がありましたが、それに対応し得なかったベテランと、それに対応しようとした若手と言う構図が、また起きようとしていると考えられます。当時のダイエーに移籍した秋山と、入ってきたばかりの小久保や松中、と言う構図です。つまり、二軍にいる若手にとっては、台頭するチャンスと言えるのです。年を取れば、それだけ対応する能力は落ちていきますから。


  飛距離の低下によって、おもしろい現象が見られるようになってきました。長距離打者の両ライン際へのフライの時です。内野手と外野手の三人が追いかけるものが、落ちるケースが増えているように思われるのです。また、同じく、外野ラインへのライナー性の打球も、スライスするにしろフックするにしろ、ファールゾーンに切れる前に着弾してしまうのです。以前なら、もう少し滞空時間があるため、切れていってしまっていたと思われます。


  ここまでは、打者の方を見てきましたが、投手はどうなのでしょうか。球は飛ばなくなるように内部構造の変更が行われましたが、その外部にも変更が行われました。皮と縫い目です。これによって、どのような影響がもたらされるのか。縫い目の高さが増した事によって、エースどころは対応できているようですが、変化球の曲がり具合が増したとも言われています。この曲がりを制御できなくて、消えていく投手や、逆にこれを掴んで武器を獲得して、台頭してくる投手が出てくるかもしれません。また、この微妙な変化によって、今年一年投げてみて、指や腕に何か変調をもたらすかもしれません。指はシーズン中にも考えられるでしょう。まめの出来方や、出来る箇所であったり、今までは破れる事が無かったけれども、それが破れたりするかもしれません。


  いずれにしても、使用球の変更の結果が見えてくるのは、三年やってなんぼ、とまではいかないまでも、来シーズンになってからでしょう。次の変更点は、各球場のスピードガン表示でしょうか。統一とまではいかないまでも、ばらつきが大きすぎるのは、打球の飛びすぎと同じく、違和感を覚えるものですので。






「最終にして最大の力は人力」

  学校の漢文の授業で習った人もいるかもしれませんが、「愚公移山」と言う話があります。書き下せば「愚公、山を移す」で、『列子』「湯問篇」がその出典です。話の前半を掻い摘んで訳すと、以下のようになります。


太行山、王屋山と言う二山があり、広さは七百里、高さは一万丈になろうかと言う山である。その広高のため、向こう側に行くためには、遠回りをしなければならなかった。この二山の北側に、九十歳になろうかと言う愚公と呼ばれた老人がいた。その愚公が家族を集めて、「山を切り崩して平らにし、山向こうに通す」と言う計画を伝えた。


  これに子と孫は賛同を示しましたが、愚公の妻が反対しています。山を移すなんて力は、九十近い老人にあるわけが無いし、たといその力があったとして、どこに土石を捨てるのか、と言う至極その通りな意見です。その内容を以下に訳します。


爺さまの力じゃ、魁父の丘を削る事も出来なんだ。それを、太行、王屋だとか。それに土石をどこに持っていこうと言うのです。


  「魁父」とは、注によれば、陳留と言う場所との境にある小山だそうです。老人に力仕事を望むべくもありません。また、広さ七百里、高さ一万丈の山を平らにした時の土石は、どこに持っていけばいいのでしょう。この後者の問いに対して、子と孫が「渤海から隱土の北に捨てればいいではないですか」と答えています。「隱土」は古九州の薄州の事だそうで、位置は東北との事です。「渤海」は山東半島と遼東半島に囲まれた内海です。並列されていて、後に言っていると言う事から、隱土は渤海を渡った先の地域でしょうか。それは分かりません。


  遂に計画は実行に移されましたが、愚公の他には、子と孫が合わせて三人だけでした。作業を始めると、その姿を見ていた隣人の子供が、歯が抜け替わった七、八歳くらいでしたが、家を飛び出て手伝いに加わりました。しかし、力としては計算外の存在でしかありません。季節にが移り変わって、ようやく崩した土石を捨てて返ってくると言う一往復が出来ただけでした。


  この様子を見ていた老人に、年寄りの冷や水と嘲笑されています。そして、二つの疑問をぶつけられています。それは、愚公の妻が言った内容と同じでした。ここで愚公は、妻とこの老人の前者の疑問に答えています。

儂が死んでも、子がいる。子が孫を生み、孫がまた子を生む。子々孫々に絶える事は無いであろう。


  つまり、愚公の残り少ない余生で、この事業を完遂させようと言う事ではありませんでした。この意思を受け継いだ子孫が、どれほど先の代になるかは分かりませんが、いずれ成し遂げられると言うものです。しかし、山二つを平らにすると言うのは、途方も無い、と言うより、無謀な考えです。仮に子々孫々とこの事業に従事したとして、果たしてどうなるものか、と言う疑問が涌いてきます。これは、妻からも老人からも問われてはいませんが、愚公はこれについて陳べています。


山は高さも広さも増す事は無い。ならば、平らに出来ない事があろうか。


  愚公がこの事業を完遂させられると考えたのは、これ以上は増えない対象を、これから植えていく人数で行えば何とかなる、と言う事です。現在の人手は、愚公とその子とその孫の血縁による四人と、八歳くらいの近所の子供だけです。子と孫の構成は陳べられていませんが、親とその二人の子でしょう。孫が同じように二人の子を持ち、その二人が更に二人の子を持ち、これが続いていけば、つまり、鼠算式に増えていく事になります。また、近所の子も同じようになっていけば、ある代より先からは、代が進むごとに、爆発的に数が増えていく事になります。この近所の子のように、この志に賛同して参加する人が数人でも増えれば、この爆発的増加はもっと手前の代から起きる事になるでしょう。今、この作業に従事している人数では無謀な事でも、賛同する者が増えていけば、有謀なものと感じられるようになり、途方の無い事でも、途方の有る事のようになっていきます。


  それは、作業する人手が増えるからだけではありません。五人が全員が作業を続けられるわけではありません。順繰りに休息が必要になるし、疲労や怪我、体調不良、不測の事態によって、作業人員が減る事だってあり得ます。つまり、人手が増えると言う事は、効率良く作業と休息のサイクルを回せるようになり、不測の事態にも対処し易くなると言う事です。また、数が増えれば、頭脳の数も増えると言う事になります。頭脳が増えれば、作業の効率化を思いつく人が出てくれば、効率的かつ強度のある工具の開発、労力を減少させる機械の発明をする人も出てくるでしょう。人数が少ない段階でも、これは可能な事ですが、それに専従する事は難しいものがあります。また、部品の調達から製造にも人手を割けないと言うのが現実でしょう。人の数が増えると言う事は、直接的にも間接的にも、作業の速度を上げる事が出来るのです。


  なお、この話の結末は以下のようになっています。


この愚公の言葉を聞いた山神が、このままでは山を失ってしまうと恐れて、天帝にこれを報告した。しかし、天帝は愚公の誠なるに感じて、神力の持ち主の二人をやって、山を別の場所へと移動させた。


  天佑神助によって、忽ちの内に愚公の事業は完遂されたのです。これは神話、伝説なので、このような結末となっていますが、この愚公の考えと言うのは、正に真理です。何の事はありません、人類が発展してきた方法そのものです。明晰な頭脳の持ち主、物の調達に長じた交渉術の持ち主、怪力の持ち主、疲れ知らずの体力の持ち主が、現実における天佑でしょう。しかし、どちらの天佑も、しっかりとした意思と、それに対する計画と遠望を持った人物が立ち上がる事が、絶対の条件になります。意思と計画が立派でも、遠望を示せなければ、計画を聞いて集まった人以上には、人が集まる事はありません。人の増加が無ければ、天佑の持ち主が現れる確率も高まりません。


  それは、移山のような無謀な大事業ともなれば、進行の遅れだけでなく、そこから停滞を招く事になります。山の頂上は断面積が小さいので、削っていった時に、その進行の具合が目に見えるものですが、下に行くに従って断面積は大きくなっていきます。いったん停滞が起きてしまうと、そこからまた動き出すのには、相当の労力が必要になります。それは、停滞前の力よりも遥かに大きいものです。それを生み出す力よりは、もう止めてしまおうと言う力が強まっていく、それが人情と言うものです。


  これに陥らないための遠望です。大事業の遠望は、愚公のように、その事業を完遂させるためには何が必要か、と言う視点で図る事です。愚公の「愚」とは、注に「未必非智也」とあるように、「愚か」と言う事ではありません。既成の方法、既存の知識にとらわれないと言う事です。既成既存は、実際的な行動計画を立てる時に必要なものです。そして、既存のものでは乗り越えられない事態を超えるために、天佑が必要になります。天佑は人が増加しないと得られる確率は高まりませんが、それには遠望を示さなければなりません。となれば、遠望を示す事の出来る、愚公のような存在が、天佑と言えるのでしょう。これは、人が増えれば確率も高まるでしょうが、ただ一人でも出来る事です。誰にでも出来る事なのです。




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