西東雑論 -52ページ目

「乱立と言うのであれば、その適正数とは」

  民主党の代表戦が開始された。その数日前から、立候補者について取り沙汰され、その立つ予定人数から、乱立、と言われていた。実際は五人であったが、当初の動きでは、もう数人立つのでは、と見られていた。しかし、その条件たる数の推薦人を集められたのであれば、何人立とうが、誰が立とうが、問題は全く無い。しかし、この何人立つか、誰が出てくるのが分からないと言うのが、マスコミは嫌だったわけである。


  人数が多くなれば、その分、その紹介のために時間を作らなければいけなくなる。紹介の段階では、公平と言う建前上、その時間に大きな差は作れない。30秒として五人でも二分半。八人も立てば、紹介だけで四分も取られてしまう事になる。そこから話を聞いてとなれば、時間が掛かり過ぎてしまう。また、事前に紹介VTRを作るに当たって、メディアへの露出が少ない人が立ってしまうと、その素材を集めるのに時間が掛かってしまう。露出が多い人でも、その数が多くなれば、集めるのに、編集するのに、人手が掛かってしまう。それは、制作費用の増大を意味する。


  人数が多くなってしまうと、票読みが難しくなり、一回の投票では決まらない事も想定される。決選投票の組み合わせによっては、予想が外れる事態も起こり得てしまう。また、候補者のVTRも作らなければならないが、当選が決まった後に流すVTRも作っておかなければならない。決まってから作ったのでは、当然、間に合うわけが無い。読めないとなると、全員分を作ると言うのも、制作費用の増大に繋がってしまう。だから、マスコミが望むのは、目ぼしい二人と、他に通りそうの無い一人、二人が立ってくれる事である。その目ぼしい二人分を作っておけば大丈夫だろう、と言う状況になってくれないと、制作の都合上、困るのである。


  と、長々と陳べてきたが、このような情況にならないのが、民主党である。古くの自民党の、その体質の権化たる小沢、鳩山の両名がいるからである。要は派閥である。この二派閥の主が誰を推すかで、当選者がほぼ決まってしまうからである。だから、マスコミは、この二派閥の主の動向を注視していれば、自ずと作るVTRは決まるのである。しかし、その小沢が、なかなか決めなかった。小沢は党員資格を停止されており、この解除を確約する候補者でなければ、まずならない。その上で、自派閥から閣僚を何人出させるかも、条件に入れてくるであろう。これを確約すれば、その候補者を支持する。派閥の構成員数を頼みとした、このやり方によって、恩を着せる、キングメーカーとしての力を発揮し、裏で操作する、フィクサーとしての位置を確保できると言う算段である。これこそが、古くの自民党の体質であるが、ここからも分かるように、既に民主党の体質と言うべきであろう。


  2000年前後から、民主党に政権を取らせるために、作為的な情報を流して共闘してきたマスコミも、今回はマイナス要素も含めて流している。今回の代表戦によって、すぐさまに政権与党が動く事は無いからに他ならない。そのマイナス要素とは、「乱立」に始まり、後は誰が出てきても、どこが出てきても、同じように言える、この意味において卑怯の物言いが続く。「政策が分からない」、「党内ばかりに目が行って、国民を見ていない」、そして、「誰がなっても同じ」である。政策が分からないとか、情報を集めて流す事を商売にしている者が言うな。国民を見るも見ないも、まず議員以外に投票権が無いのだから、それは的外れである。それは、「誰がなっても同じ」と理由を一にしている。「誰がなっても同じ」と言うのは、これは正にその通りである。誰が選出されようとも、遠中近でやらなければいけない事に、違いは無いからである。勿論、力点を、重点を置く所に違いはあるだろうが、そんなのは大同小異だ。


  つまり、望まれるのは政策ではなく、その実行力と、それを選ぶ決断力である。現代表があまりにぼんくら過ぎたため、これが必要な能力と思われてしまったが、様々な調整を為すのは、それを預かる役職者に任せればいいのである。最終的な確認を、その代表者とつければいいのであって、トップが調整をつける必要など無い。最終確認まで調整する能力を持った人間を、横槍を無視してでも、選び任命できるかが、求められる能力である。そもそもで、いるのかどうかは不明であるが。


  さて、政策で避けられないのを一つ挙げる。増税である。ある番組で、候補者の支持議員であろうか、改革する事によって確保できると言っていた。もう忘れたのであろうか。事業仕分けと称してやった事が、その目標額に全く届かなかったではないか。このように、現実を見ずに、幻想の世界の中で生きている者が、いるとは思わなかった。この増税の問題など、10年も前に着手していなければならない事であった。また、ある番組で、「増税を口にすれば選挙に負けるから言わない」と責めていた。評論家だったのか、コメンテーターだったのか、新聞社からの人間だったのか、どれだったかは定かな記憶は無いが、そのようになるようにしてきたのは、誰あろうマスコミではなかったか。とりあえず、マスコミはその責任を取るべきであろう。


  また表題とずれた内容になってしまった。それは仕方ない。とりあえず、マスコミは、政界との黒い交際を絶つべきであろう。




「所謂はどれくらいの人が知っていれば使えるか」

  先日のニュースで、同じ事件を扱ったテレビ局が二局あった。正確を期すのであれば、その他の局でもやったかもしれないが、僕が目にしたのがその二局であった、と言う事である。その事件とは、昔からあったと言えばあったもので、ガスを吸って脳を酸欠状態にすると言う、愚にもつかない行動である。これを「ガスパン遊び」と称したのである。それも、二局が共に「所謂」と前置してであった。このような行動があるのは知ってはいたが、それがこのような名称を以って称されるとは、僕は初耳であった。「所謂」は読み癖として「いわゆる」と読まれる。訓読するならば、「謂(い)う所の」であり、辞書から意味を引けば、「世間で言うところに。一般に言っている。世の中で言われている」である。言い換えれば、「皆さんご存知の」である。つまり、誰もが聞いて分かる事が前提であるが、果たして、これは、誰もが知っている事であろうか。


  「謂」は分解すれば、「言」+「胃」となる。音符の「胃」を更に分解すれば、「田」+「月」である。「田」は、たんぼの「田」ではなく、簡略化の結果である。元に戻せば、囗の中が「+」ではなく、「※」である。胃の中に入った食べ物の象形と言う。ここから、「胃」は「囲」に通じて「かこむ」の意味となり、「ある概念をはっきりかこみ区別して言う」と言う含意になると言う事である。「※」が胃の中の食べ物を示す事から、「自分の中に取り込んだ」と言う意味も含んでいるものと思われる。では、意符の「言」はどうか。「辛」+「口」に分解されるそうだ。「辛」は、取っ手のある刃物の象形で、更に言えば、刑罰として刺青をするための針の象形である。「口」は誓いの文章を意味する、と。「もし不信がある時には、罪に服する事を前提とした『ちかい』、『つつしんでいう』の意味となる。これを以って、「謂」の意味が構成されている。


  これはさて置き、何故に「所謂」と前置したのであろうか。その一つに、「通」ぶりたい心理が考えられる。業界用語や横文字、片仮名語を用いたくなる心理である。その二つに、この言葉を流行らせようと言う意図があるのではないか。これには、過去に例がある。「オヤジ狩り」、「援助交際」がそれである。アンダーグラウンドで隠語として用いられていた語を、メディアが使用することに無批判なままに使用し続けた事により、あたかも一般社会で使ってもいい言葉に昇格させてしまったのである。このようにする事によって、犯罪である意識を失わせ、同行為の拡大を目論んでいると見るべきである。つまり、犯罪を助長させる事によって、濡れ手で粟でニュースを作る事が出来るようになる。現代世相を切ると言ったような、安い御為ごかしのドキュメンタリーなどにも、二次使用できる。一度でも世に出てしまえば、もう二度と無かった状態にする事は出来ない。現在における深刻な事として、動画や画像などがネットに流出してしまう事があるが、これが完全にネットから消去する事が出来ないのと同じである。


  殆どの人が使っていなくとも、メディアが使い続ける事によって、それが流行となると言うのは、世の常であり、人の性である。メディアと大上段を持ってこなくとも、日常生活において仲間内の行動や言葉などが、その小円で流行ったりするものである。ただ、メディアがこれをやったとしても、残念な事に、これが発揮されるのは、あっても無くてもどちらでもいい事と、悪用においてである。善用では、ほぼ効果は無い。さて、メディアの使う「所謂」とは、上記の事を狙っての事であり、決して、一般的に使用されているか否かは、求められていないと見ていい。




  どうでもいいような瑣末なニュースだったけど、ザッピングの際にたまたま二局で扱われていたのを見て、そのどちらでも「所謂」と名称を引っ張り出してきたので、ちょっと印象に残った。所謂の後に、よく聞く、ないし、知っている言葉が来ていたら、引っ掛かる事無く忘れたろうけど、続けられた名称が、聞いたことが無いようなものだった。これって「所謂」で置き換えていい言葉?と。それで、「所謂」ってどう言う意味だろうか?と漢和辞典を引いて見ると、まあ普通の意味、と言った感想しか持てなかったので、やっぱりこれで一ネタ書くのは難しいなあ、と思いながら、何か無いかと見ていたら、解字の部分における漢字の解説に面白いことが書いてあったので、今回のネタを書くに至ったのです。ただ、突発的かつ書いてみようかな程度の感覚でスタートしたため、内容が無いよう、と言う残念な結果になってしまった。まあ、それはそれでいいや、と。


  表題に対して、僕は回答を出していないけど、やっぱり分かんないや、と言うのが答えと言えば答え。その理由は、僕の考え方にあって、あまり用語を使いたがらないから。その理由は、あまり言葉を知らないから。それと、この言葉をどれだけの人が知っているだろうか、また、同じ概念として受容してくれるか、と言うのが判断できないから。だから、なるべく用語を用いないようにしている。でも、複数回で用いる時は、一回目の時、その用語の後に「、」を打って、その用語をどのような意味合いで用いたかを説明するようにしている。長くはなるけど、それは仕方ない。決して、分量稼ぎとか、そう言うための手段として、開発したものではありません。とにかく、こちらが伝えようとしている事が、その用語の解釈の違いによって、認識に違いが生じるのが、あまり好きではないのです。


  さて、「謂」の「胃」の「田」の解字については、画像を作成して以って説明しようと思ったのですが、面倒だったので止めました。そう言えば、中の部分って米印(※)に似ているなあ、だったら出せるか、と思ったのも一つの理由です。もしかして、文字が用意されているかもしれないと調べてもみましたが、残念ながら、と言うか、当然にありませんでした。しかし、「言」には、何と恐ろしい解釈があるのかと。「言」とは軽々に出来るものではない、とちょっと怖さを覚えました。





「生物の生存範囲の限界」

  生物は、常にその棲息範囲を拡大しようと図っている。その結果として、地球の至る所に生物は進出、定着していったのである。その結果として、進出前と後では、別種として見做せる程の変化をしたものもあろう。ここで陳べたいのは、この定着して、元の生息範囲を離れたものの、枝分かれした存在になる以前の段階についてである。ある生物をA→Bに移して、生存可能かと言う事である。A→A1→A2→…→B2→B1→Bと段階的に移していくのは、適応を変化させる能力を試すものである。しかし、極地に住んでいる生物を赤道に、赤道に住んでいる生物を極地に移せば、それは死んでしまう。これは、DNAの劇的な変化が無ければ、適応は到底無理な話である。


  生物は棲息するのに、最適な環境を選ぶ。言い換えれば、その環境に合うように、自らの性質を変化、つまり、適応させていく。例えのための例えだから、実際にはあり得ない想定であるが、年間25度で保たれた場所があったとする。この場所に適応してしまった場合、温度の上下は、どの範囲まで耐えられるのであろうか。25度に適応してしまったから、01度の上下も経験した事の無い温度である。これはすぐに絶滅する種となってしまう。今までは25度だったが、ここから±01度の変化をしてしまう事もあり得るからである。その環境は、あくまで、棲息するのに最適なだけであって、そこにしか生存できないわけではない。だから、知りたいのは、求められるのは、現在棲息している範囲の限界ではなく、適応の結果としてその環境に耐えられるようになる事でもなく、いきなり移しても生存可能なのかどうかである。


  環境が違っても、それが移動可能な範囲の場所であれば、徐々に適応していくと言う事が考えられる。そのため、移動が起こり得ない場所の生物について、考えてみる。進化論の出発点となったガラパゴス諸島、世界自然遺産に登録された小笠原諸島のように、鳥類でなければ移動が不可能と思われる地域の生物は、環境を移した時にどうなるであろうか、と言う事である。しかし、移す場所は、動物園や管理されたエリアではない。そのまま離して、放置するのである。管理された保護区のような場所に放すとしたら、管理している以上、その生物の食性に適したエリアに、無いのであれば新たに設けて、そこに放す事になってしまう。これでは、適応の可否を見る事は出来ない。だから、パンダやコアラのような特殊な食性であれば、それ以外の環境が整っていたとしても、食べる物が無いため、その生存範囲の限界は、極端に狭いと言う事になる。ただ、このような実験を実際にやるとしたら、その生物にも負担を掛けるし、その生物が入ってくる事によって、移された環境に影響を与える事が容易に想定されるため、現実的な話ではない。また、生物を強制的に移して、このような事を試すのは、果たして正当な理由が与えられるか。


  長々と展開してきたが、これを書く基点となったのは、最近のテレビで、海水温の高温域の北上に従って、熱帯海域の魚も北上してきている、と言う事を言っていたのを見たからである。この話自体は最近の話ではなく、かなり前から言われていた事である。ザッピングの一つだったので、この部分を見ただけで、すぐに他に移動したが、これは本当なんだろうか?と思ったのである。前者、海水温域の北上については、調査か測定の結果によるものだから、ここに疑いを挟む余地は無い。疑問は後者である。その魚は、海水温上昇前の水温では生存し得なかったのか、と言うのが、疑問の出発点である。


  陸の生物であれば、海で川で山で森で、その移動を制限される事があり得るが、海の中ではそれが無いため、生存の限界を超えても行き着く事があり得るのである。また、海の魚であれば、特定のプランクトンしか食べない種類も多くなさそうだから、食性による範囲の制限も少なさそうである。また、魚は自分で移動も出来るが、望むと望まざるとに及ばず、海流に乗って、と言うよりも、流されてしまって、棲息エリアとは違うエリアに運ばれる事も考えられる。陸の生物のように人為による移動以外に、別のエリアに移る事があり得るのである。もし、移動した先の水温が、生存可能範囲の上下であれば、流れ着いた先で死んでしまうであろう。その範囲内であれば、そのまま生き続けるであろう。それが一匹であったり、繁殖可能なパートナーと遭遇できなければ、その一代で姿を消してしまう。しかし、繁殖かつそれが継続性を得るだけの数が流れてきたとすれば、その場所で数を増やしていくであろう。そうすれば、数代もすれば、その環境を最適とする変化、適応が為されるであろう。25度から20度を最適としたとすれば、別種、亜種と見做されるかもしれない。


  発見できたとしても、偶然の流入による一代限りのを発見したのかもしれない。また、複数年に渡って発見したとしても、既にそこを最適とするよう適応した後かもしれず、その後で移動前の高水温域が北上してきただけなのかもしれない。これは容易に判別し得ない。どの段階を生存の可否とするか、その線引きが難しいのである。これを判別するとすれば、それはDNAの差異をみなければならないが、現在の科学力で配列の違いは分かったとしても、その違いが水温の適性を示すものかどうか、判定することが出来るのであろうか。また、更に踏み込んで、何度が最適水温で、上下何度までが限界水温であるか、これを確認する事が出来るのであろうか。つまり、これが分からない事には、棲息と水温の関係は確定されず、科学的な判定とは言えないのではないか、と考える。




  科学的とは100%に証明された事を指す、と僕は考えています。だから、物理、化学などで、証明ないし再現性を有している事以外は、科学、と言う言葉を以って判断、判定される事は、違うんじゃないかと思うのです。