西東雑論 -50ページ目

「料理上手、片付け上手」

  その昔、男の料理と言えば、その料理そのものよりも、料理をした後の台所の汚さがネタにされていた。稀にしか料理をしない人であれば、これは男女を問わずと言うのが、現実であろう。毎日ではないにしろ、週に三日の一食でも続けている人であれば、料理の後は、比較的に片付いているものである。更に進めば、使い終わった先から片付けていくようになり、料理が終わった時には、最後に使用した器具以外は残っていないようになる。それがフライパンで、すぐに洗わないと汚れが取れ難い場合でもなければ、水にうるがしておいて、食後に食器と一緒に洗えばいい。これが出来ていかないと、食後に多くの洗い物が溜まっていて、次に料理をする気が失せてしまう。つまり、料理上手とは、料理そのものの手際の良さだけでなく、並行して、使用の終わった器具を片付けていく手際の良さも無ければ、言わないわけである。


  料理をするしないに限らず、生活する上で、一番最初に汚れていくのは、台所である。家では、インスタント物や弁当、お惣菜しか食べない人でも、実家にいた時の癖として、台所に持っていく人も多いであろう。また、自分の生活スペースから遠ざけ、くつろいでいる時に、眼に入らないようにするためには、どこかに持っていくしかない。手っ取り早いのが、台所のシンクと言う事である。しかし、料理をしない人であれば、シンクにゴミが溜まっていても、生活に支障は出ない。また、ゴミを出す曜日は、地域によって決まっており、燃えないゴミや資源ゴミは、週一回の所が殆どと思われる。ゴミ袋も、指定されている所では、燃えるゴミにある最小サイズが無い所もあろう。となれば、袋が一杯になるまでは、日にちが掛かる。その日が来る頃には、シンクだけでなく、台所の物を置ける場所は、手を付けられないくらいに汚れてしまっていることは、想像に難くない。そこまでなってしまうと、殆どの人は、手を付けたくなくなり、その汚れたままにしてしまうであろう。


  問題はここから飛躍する。台所は、多くの部屋の構成として、玄関を入ってから生活スペースへと向かう途中に配置されている。汚れている、そして、汚れていく台所を、外に出る時、戻ってきた時、トイレの時、毎日のように否応無しに目にするわけである。そうなると、人はそれが自然の状態と錯覚して、それに慣れていってしまう。そのため、台所に持っていけなくなれば、その置き場を、生活スペースに移すことに対して、抵抗を次第に失っていってしまう。その末路は、人間的な生活空間の終了である。つゴミ部屋に一直線である。


  つまり、この改善には引っ越ししかない。台所を汚さないようにするしかない。これは、料理のするしないに関わらず、である。一週間の内、定期的に掃除する癖が付けば、生活スペースが汚れていく事は少なくなるだろう。




  片付けられない男、ないし、女と言うのは、絶対に存在しない。片付けないだけ。後追いで、それにもっともらしい病名やら何やらと称しているに過ぎない。では、片付けない、ゴミ部屋にしないためには、どこを汚さなければ済むのか、と考えた。それが台所。自炊をしているし、作り終わった時には、ほぼ片づけが終わっている。だからと言って、僕の部屋が奇麗と言うわけでもない。自分が生活する上では、別に問題無い状況を確保しているけど、じゃあ人を招けるか?と言うと、無理、と言うのが現実。それ用に部屋を構成していないし、する気も無い。座っている所から手を伸ばせば、事の殆どが済むと言う構成を崩してまで、人を招く気は無い。まあ、そんな広さも無い。ただ、ゴミが散乱しているわけではないことは、言っておかなければならない。




「問題は最大値か否か」

  福島市の一地区で生産された米から、暫定基準値を超える放射性セシウムが検出されたと言う。暫定基準値500ベクレルに対して、130ベクレル超の630ベクレルである。基準値は、つまり、規制値であり、僅か1であろうとも、超えてしまえばアウトなわけである。県の安全宣言後であったため、驚きを以って迎えられたニュースである。

  しかし、原発の事故後、まだ八ヵ月しか経っておらず、まだまだその拡散範囲、規模、濃度は、未確定、未調査なエリアの方が圧倒的であろう。そんな中での最初の収穫であり、このような事態は想定内であったろう。しかし、行政とすれば、どこかで判断を下さねばならず、その時点で得られた情報を以って、決断したと言う事である。前述より、未の部分が大きすぎるため、素より完全に安全と言えない状況下での、難しい判断であったろう。今回の事は、確定後のそこからの異常数値ではないのだから、つまり、驚くに値しない。

  基準値は規制値であり、この場合は500であり、これを1超過した501であったとしても、規制対象となる。基準値を1でも超えれば規制されるし、規制範囲を1mでも超えれば退去を命じられる。僅か1であろうと、許されない。僅か1だからと許されるならば、2は?3?…と、結果、値が意味を為さなくなってしまう。

  生産者には申し訳ないが、出てしまったものは仕様が無い。むしろ、消費者の手に渡る遥か前に、確実に対処できた事に眼を向けるべきである。つまり、出荷、流通している物は、安全性が確保されていると見る事が出来る。それでも疑う人は出るであろう。では、その人は自分の生活で、どれだけ有害物質に囲まれ、まみれているか、常に意識しているだろうか。いや、意識していたら、特に都心部に住み続ける事は不可能であろう。現代社会に生きると言う事は、どこまでを許容するかにある。無病息災を願うより、一病息災として自らの身体を管理するのと、同じような感覚と言う事である。

  爆発によって拡散された物質であり、以降に爆発が起きていないのだから、これ以上の積み増しは無いわけである。であるならば、この地区においては、630と言う値が、最濃と見る事が出来る。基準値が暫定であるため、下方に再設定される事も考えられるが、土壌の入れ替えや、雨やこれから降るであろう雪によって流される事が予想され、来年の収穫期には、この値を下回る事が予想される。ただ、雨によって流出するように、山からの水の流入によって、思ったほどの減少が見られない事もあり得る。しかし、今年にも雨は降っており、その結果での値であるから、630を近辺とする高値安定の可能性はあっても、それ以上の異常上昇の可能性は低いのではないか。

  山からの水を直接的に用いる山あい地では難しいかもしれないが、平野や盆地などの、幾つもの分岐点を経ての利用となれば、早い分岐地点での監視によって、管理できる可能性が見える。その数を考えれば、不可能に近いものではあろうが、その用水の利用者で団結する事によって、多くの数をカバーできるのではなかろうか。上流すぎるかもしれないが、大小を問わず、ダムの水の監視するのは必要になってくるであろう。雨による山からの流出は、ある程度は検討、検証されたかもしれないが、雪による影響は、これも未である以上、やらなければならない事である。また、雪解け水は、農業にとって重要な天然の資源であるのだから、最重の対処ポイントとしなければならない。



  都心部の空気の具合を、以下に画像で示します。どちらも今年のもので、遠くまで見通せる時期のものです。

  多摩湖堤から東、都心方向を撮ったものです。上部と下部では、空気の色が全く違う事が分かると思います。右下隅のは、スカイツリーではありません。

多摩湖堤から都心方向。


  荒川河口橋から、スカイツリー方向を撮ったものです。高さは既に完成していた時期のはずです。

荒川河口橋からスカイツリー方向。




「今、求められるのは、錬金術と原爆開発」

  錬金術は、現代の科学的発展の大いなる礎となったものである。端的に言えば、卑金から貴金を精錬すると言う、壮大な挑戦であった。これ自体は、現代においても不可能に等しいものであるが、この挑戦の過程で、様々な発見、発展、開発、発明、理論の構築が為された。当時、これに挑んだ人々は、これを可能と信じて行った人がどれくらいいたのかは不明だが、発見できれば後世に名を残す事が出来ると言う、功名心もあったのかもしれない。


  今にこれを求めるとすれば、放射性物質への対応である。その半減期を速める事は出来ないか。放射能が放射線を出さないように、化学反応によって無力化する事は出来ないか。その物質を、安価に大量生産できないか。これに、不可能と言う答えしか返ってこないのは分かっている。ただ、これに手を着けた人はいるのであろうか。誰もやっていないのに、出来ないも何も無い。これこそは、非科学的思考、発想ではないか。科学とは、畢竟、証明である。名詞でとらえれば、証明された事であり、動詞でとらえれば、証明する事である。昔に否定された事でも、今日にそれが覆される事もある。直近で言えば、ニュートリノを光より速く移動させる実験に成功した事により、アインシュタインの理論に反証が生まれたと言う事である。昨日と今日では、見つかった知識、方法は増えている。これを、また組み合わせて、また新たなものが生じる。多くの頭脳が関われば、その増え方は倍化、乗化していく。


  多くの頭脳がその開発に関わった物と言えば、原子爆弾であろう。第二次世界大戦にあって、アメリカがその開発を成功させた。日本は戦況の悪化により、ドイツは指導者の理解を得られず、その完成を見る事は無かった。両国ともに、それを得られたからと言って、開発に成功していたかは不明であるが。アメリカは、本土に戦火は及ばず、また、国内の当代一等の頭脳だけでなく、国外からもそれを得て、国内一等の機関が参加し、多額の資金を注ぎ込んでの成果である。開発に直接に関わった人物だけでなく、政治指導者、上層部の理解があったればこそである。


  今回の事により、原子力関連はどのようになるか。その今後にも関わる事ともなれば、この回復作業に手を貸さなければ、自分の研究先の存亡となり、ここまで培われてきた知識は、理論は、研究は、施設は、当の本人の頭脳は無力化されてしまう。


  当然の事だが、現代科学の最先端が、科学の終着点ではない。既知となった事に胡坐をかいてはいられない。人類の知った範囲は、微々たるものに過ぎない。「未」に対するのに、「既」を以って否定するより、「未」すら引き込んでいかなければならない。




  今回の内容は、ここの第一回更新の焼き直し。「未」と「既」は、第一回更新の言うところの、「愚」と「智」です。「智」は、本文では「この様子を見ていた老人」と訳しましたが、原文では「河曲智叟」となっています。


  本文の最終段落で「微々たるものに過ぎない」と書いた後、下書きの段階で抹消線を引いて削除しましたが、以下のような文章を入れようとしました。


あるものが開発されても、その使用の結果が、どのようになるかは分からない。分かった時には、手遅れになっている場合もある。


  これを削除したのは、本旨とずれていったからです。後記として記します。使用の結果が手遅れに近い状態を生んだのは、フロンガスによるオゾンホールの発生が一例です。フロンガスは、開発された時には夢のガスと言われ、様々な物に使用されましたが、その結果が全く予期していなかったオゾンホールでした。今までは、南極がその要監視対象でしたが、ここに来て、北極上空にも同程度のオゾンホールが発生している事が確認されたとのニュースは、耳に新しいところです。


  今回の事により、再生可能エネルギーがクローズアップされましたが、はて?誰がそれを再生可能って言ったの?と言う疑問が生じたのです。再生可能であったからと言って、果たして、影響は出ないのか?いや、今の時点で出てはいないのか?自然にあるものだから問題無い、と言うのであれば、それこそ非科学と言わねばならない。電力は、他のエネルギーを変換する事によって生じるもので、熱エネルギーや位置エネルギーなどがその例。このエネルギーを変換するためには、それ用の大規模の施設が必要になる。家庭の範囲で出来るエネルギー変換もありますが、太陽光、果たして天候次第であり、それを克服できるのか。


  また、風力もありますが、これが曲者です。風力が電力に変換される事により、それが無ければ風力が届いていた所に、届かなくなる可能性が出てきます。現在の規模であれば、影響が出ていないかもしれません。いや、フロンガスと同様に、どこに影響が出ているものの、それに気づけていないだけかもしれない。風力には、熱を移動させる効果があります。それに少しでも変化が生じれば、どのようになるのか。日本で言えば、汐留の再開発によって、海から吹き込んできた風が阻害されるようになり、都心の温度に影響を与えているとも言われています。一箇所で熱の移動に変化が生じれば、玉突き的にその周辺にも影響を及ぼします。熱が溜まるエリアと、熱が届いてこないエリアが生じてしまいます。熱は平衡を保とうとして、そこエリア間で今までには無かった熱の移動が、何がしかの形で行われるでしょう。そうすれば、そこには、今までになかった気象状況が生じるでしょう。一箇所で気象の変化が生じれば、周辺のエリアに同じように変化をもたらします。どこまでその連鎖が続くかは分かりません。分かった時には、果たして、元に戻せるでしょうか?


  後記の方が、どちらかと言うと書きたかった事ですが、こちらに科学的な論拠を持っているわけでもなく、本旨に据えるだけの知識は全く無いので、このような逃げ方をしました。ある事に対して、想定外を想定せよ、と言っておきながら、自分らが行おうと言う事に対して、それを為さないと言うのは、暴挙に他ならない、と言う事を、ちょっと言いたかっただけです。