西東雑論 -48ページ目

「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その一

  表題の語は、北魏の人物である崔浩の言を、一部改変したものである。元は「知而不言,是其不忠.若實不知,是其無術.」である。書き下せば、「知りて而して言わざれば,是れ其れ不忠.若し實に知らざれば,是れ其れ術無し.」となる。「若實」を「素」に置き換えても、意味するところは変わらず、また、語呂も整うと判断し、表題のようにしたのである。


  崔浩と言えば、高校の世界史の授業で出てくる名であろうか。僕は日本史で受験すると決めていたので、高校二年の時の世界史は、赤点にならなければいい、と言う意識で受けていたため、全く記憶に残っていない。崔浩が出てくるのは、その最期を招いた事件である。450年に起きた国史事件である。これについては、その段に至って陳べるが、その事件の起因となったのも、この言に由来すると言っていいであろう。


  崔浩の仕えた北魏は、史家が便宜上に呼んでいる呼称に過ぎず、自称は魏である。北方異民族である鮮卑族の拓跋部の建てた国である。では、崔浩も鮮卑族なのかと言うと、そうではない。崔浩は漢人である。ここで、漢人である崔氏が、北魏に至るまでの流れを見ていく。その源流は、三國・魏の崔林(?~244)である。位は司空に至っている。異民族勢力に流れたのは、崔林の曾孫である崔悅の時である。時は東晉に移ったばかりの太興元年(318)の五月、崔悅が仕えていた劉琨が、鮮卑族の段匹磾によって殺害された事による。段部は、この時、段匹磾の兄の段疾陸眷の死によって、後継争いが起きていた。指揮官を失った崔悅は、同じく劉琨に仕えていた盧諶と共に、遼西へと逃亡した。遼西には、段匹磾と対立していた、従兄弟の段末柸がいたためである。その下に身を寄せ、劉琨の子の劉群を主と仰いだ。その後、咸康四年(338)の 三月、後趙の侵攻を受けると、劉群、盧諶と共に降服している。その最期は、『資治通鑑』の注に「石虎之末,清河崔悅為新平相,為郡人所殺。」とある。ここで言う石虎の末年は、永和五年(349)がそれに当たると思われる。行動を共にしてきた盧諶は、永和六年(350)、冉閔が石氏の誅殺に乗り出した時、その戦闘中に命を落としている。崔悅の子の崔潛は、歴史的経緯から、後趙を滅ぼした冉魏、その冉魏を滅ぼした前燕へと移っていったと思われる。慕容暐の時、黄門侍郎とされた。しかし、太和五年(370)の十一月、その前燕が前秦の苻堅によって滅せられると、前秦へと移った。長幼は不明だが、崔潛には崔液と言う兄弟がいて、同じく苻堅の下へと身を寄せている。この時に崔液は、父の仇を討とうとしたが、無理と諦めて、冀州へと帰る事を求めた。苻堅がこれを愍んで、新平人を禁錮し、城角を欠いて辱めたと、上述した崔悅の最期を記した注の後に記されている。


  崔潛の子に崔宏がいる。これが崔浩の父である。北魏の史書である『魏書』では、「崔玄伯」と記されている。名の「宏」が、北魏の第六代皇帝である拓跋宏(高祖孝文帝)と同じであったためである。皇帝の名は避諱とされるため、「宏」の字が用いる事が出来なくなったため、字(あざな)の玄伯を以って呼称されるようになったのである。史書における避諱は、通常であれば、その編纂時期よりも前の皇帝の諱(名)がそれに当たる。五胡十六国の端緒を開いた劉淵や、前述の石虎が知られている。この二人が載っている『晉書』が編まれたのは、唐朝の太宗とされた李世民の治世である。避諱字とされた「淵」は、父で前皇帝の李淵、「虎」は李淵の祖父の李虎である。そのため、『晉書』で両名は、「元海」、「季龍」と字で記述されている。崔宏の場合、その死後に拓跋宏が出て来たため、これ以後に字で称されるようになったのであろう。それはさて置き、崔宏は前秦に仕えていたが、その苻堅の死後に起きた、跡目争いによる混乱を避けて離れたが、丁零の翟釗に留められてしまった。その翟氏が敗れると、後燕の慕容垂に降服した。太元二十一年(396)の十一月、北魏に攻め込まれると、梅へと逃亡を図ったが、捕らえられた。これは、拓跋珪(太祖道武帝)が、崔宏の名を知っていたため、捕えるように命じたためである。捕えられた崔宏は、黄門侍郎に任命され、機要を任され、制度の創立を担った。隆安二年(398)の六月、太祖は國号について議させた。太元十一年(386)、拓跋珪が再び自立を図った際、以前の「代」から「魏」に改めていた。他の者は、以前の「代」に戻すよう言う中、「夫魏者,大名,神州之上國也,宜稱魏如故。」と言って、変更する必要は無いと説くと、太祖は國号を魏のままとする事とした。『資治通鑑』のこの言の「大名,神州之上國也」の部分に注が付されている。『春秋左氏傳』において、「魏,大名也。」とあり、また、戰國の時、魏は大國であり、中國から神州と呼ばれていた、と。拓跋珪もこの故事を知っていて、そのために魏としたのかもしれない。


  これが、崔氏が北魏へと行き着いた流れである。崔宏までの崔氏で、崔浩と関連のあるこぼれ話を拾ってみる。崔浩の曾祖父の崔悅は、劉琨の下で司空從事中郎であった盧諶と共に、博藝として名を知られた。盧氏の始めは、後漢末の黄巾の乱の際に登場する盧植で、盧諶の六世祖に当たる。崔悅も盧諶も書の達人で、盧諶は鍾繇(三國・魏、151~230)、崔悅は衞瓘(西晉、220~291年)の筆法を手本とし、共に索靖(西晉、239~303年)の草書に習った。その技術を、盧諶の子の盧偃に、盧偃はその子の盧邈へと継承されていった。崔悅は子の崔潛に、崔潛はその子の崔宏へと伝えた。両氏は共に北魏に流れていっているが、北魏の初めには崔氏、盧氏の書が尊ばれた。草書と隸書に巧みであったが、模写されたのは楷書であった。


  崔宏の父の崔潛の書として、兄の崔渾のために書いた誄の草稿があった。どのような経緯で流れたかは分からないが、市で売りに出されていたと言う。北魏の延昌初と言うから、西暦で言えば512年であるが、著作佐郎であった王遵業(?~528)と言う人物が、これを購入して、家宝として秘蔵した。書かれてから二百年近く経過している。これが再び世に出たのが、東魏の武定年間(543~550)の事である。王遵業の子の王松年(東魏~北斉)が、黄門郎の崔季舒(?~573)に送っていたのである。崔季舒は、崔浩とは別系統の崔氏である。これによって、多くの人に模写されるようになったと言う。書に巧みとして名を知られた姚元標(北齊)は、崔潛の書を見て、崔浩より勝っていると評した。


  その家系から、崔浩も書に優れ、後にも触れるが、その巧みさによって皇帝の側近とされているほどである。誄(るい)とは、死者の徳行功績を称えて、その死を傷む文である。崔宏は、苻堅の死によって混乱した前秦を離れ、江南の地、つまり、漢人朝である東晉に逃れようとしたが、東晉から翟氏に寝返った張願によって捕えられ、本図を遂げられなかった。そのため、自らを傷む詩を作したが、罪されるのを恐れて、誰にも見せなかった。崔浩が誅殺された後、高允が崔浩の家から書を接収するよう命じられたが、この時にこの詩が発見された。「允知其意.允孫綽録於允集.」と記されている事から、高允はこの詩を提出していなかった事が分かる。詩の内容が、異民族に対する敵意や憎悪を陳べたものだったのだろうか。崔浩の母、つまり、崔宏の妻は、祖父の崔悅と行動を共にしてきた盧諶の孫である。




「絆はマイナスイメージ」

  今年の漢字として「絆」が選ばれた。このイベント自体、いったい何の意味があって、価値があってのものかは、全く分からないところではあるが、こんな一年をプラスに転換して捉えるには、適当な語なのかもしれない。しかし、この後、「絆」とは、元来はマイナスの語であると、新聞か何かに出たようである。それで、漢和辞典を当たってみた。


形勢。糸+半(音)。音符の半は攀に通じ、ひきつなぐの意味。きずなの意味を表す。
01.きずな。ほだし。
ア)牛馬などの足をつなぐ縄。
イ)物をつなぎとめるもの。自由を束縛するもの。羈絆。
02.つなぐ。ほだす。つなぎとめるもの。


  確かに、今で言う「絆」の意味は見当たらない。しかし、昔の意味、元来の意味がこのようであるからと言って、それで確定と言うわけではない。用いられ、継承、受容、変化を繰り返す事によって、意味が付加され、語によっては、意味が変わってしまう事もあり得る。と言う事で、中日辞典を見る。


01.(足を)すくう。(罠などに)ひっかかる(かける)。絡みつく。
02.邪魔、妨げになる。まつわりつく。
03.きずな。拘束。


  マイナス部分が、更に強化されている。と言う事は、「絆」の意味は、中国から伝来したものではなく、日本で変遷、転換していったものだと考えられる。と言う事で、高校生が使うレベルの語数の国語辞典を見る。


01.動物をつなぎとめる綱。
02.人と人の結びつき。


  第一義から、「き『ず』な」ではなく、「き『づ』な」が本来の表記と思われる。それで「きづな」を見ると、確かに記載されていたが、「きずな」と書くのが本則とある。本則とは何か。辞典の本編の後ろにある、付録に書かれてある。


次のような語は「ぢ」「づ」を用いて書く。
・二語の連語によって生じた「ぢ」「づ」
註)なお、現代語の意識では、一般に二語に分解し難いものとして、それぞれ「じ」「ず」を用いて書くことを本則とする。


  この註の部分の用例に、「絆」も含まれていた。確かに「ずな」を「づな」としても、では「き」は何であるか、現代の意識では分からない。ただ、これは表記上の問題であって、「づな」が「ずな」であろうと、「綱」を意味する事は、想像に難くない。


  さて、第二義として、今で言う「絆」の意味が出てきた。しかし、ここからは、何故にこの意味が発生したのか見えてこない。行き詰まりを見せたが、漢和辞典の第一義に「ほだし」とある。これを国語辞典で見てみると、「絆し」と見出し語にあった。


01.馬の足をつなぎとめる縄。手かせ足かせ。
02.自由を束縛すること。特に人情や義理が絡んで、行動の妨げとなること。また、そのもの。


  第二義において、「絆」の第二義に通じそうな意味が示されてはいるが、第一義のイメージを継承してのものであり、やはり、「絆」の意味するところではない。「絆し」の前後に、「絆す」「絆される」とある。これも見てみる。まずは「絆し」である。


01.つなぎ止める。束縛する。


  やはりマイナスイメージである。では、「絆される」はどうであろうか。


01.つなぎ止められて、離れられなくなる。また、情に引かされて、身動きもならない気持ちになる。


  近づいてはきたが、イメージとしては「後ろ髪を引かれる」であって、「繋がり合う」と言うイメージからは、まだ遠いところにある。そこでもう一つある辞典、『大辞林』を引っ張り出して調べた。「絆」からである。


01.家族、友人などの結びつきを、離れがたくつなぎ止めているもの。
02.動物などをつなぎ止めておく綱。


  前述の辞典とは、第一義と第二義が入れ替わっており、また、結び付きの意味合いが強化されている。続いて「絆し」である。


01.刑具として用いる手かせ足かせ。
02.人情にひかされて、物簿とを行う妨げとなるもの。自由を束縛するもの。


  こちらに変化は見られない。共に「手かせ足かせ」がある。続いて「絆す」である。


01.綱でつなぎ止める。縛る。
02.人の自由を束縛する。


  こちらも大きな変化は無い。束縛の対象が明確になったくらいであるが、こは一項目に盛り込める分量の差のためであろう。最後に「絆される」である。


01.情にひかされて、自分の考えに無い行動を取る。人情に絡まれる。


  この三つを見ると、どうしてもマイナスのイメージを受けてしまう。今の言う「絆」とは情を起因とするところまでは同じであるが、それが「物事を行う妨げとなる」や「自分の考えに無い行動を取る」と言う点で違いがある。しかし、「絆」の意味には違いがある。一つめが1986年改訂版であるのに対して、二つめが1990年初版と言う事が影響しているのであろうか。四年の差で第一義が入れ替わったとしたのであれば、現在に至るまでは、更なる変化が生じたと見る事が出来るのではないか。


  「絆」とは、その原義が、「足を繋ぐ縄」である。足を繋がれてしまっては、その縄の長さ分しか行動できない、許されないものである。原義から派生した「自由を束縛する」と言うのは、「行動範囲を制限する」と言う意味である。これは動物に対する物であり、これが人に対する物となると、「刑具として用いる手かせ足かせ」となる。しかし、これは動物の行動を制限するのと同じで、物理的な制限である。求めているのは、心理的、心情的な、人と人との関係によって、行動を制限するものである。


  人と人との行動を制限するものとしては、法律や規律、風習や慣習が挙げられる。しかし、これは、人同士の関係によるものではなく、言い換えれば、社会的な横関係によるものではなく、社会的な縦関係である。法律や規律は、人の話し合いによって決まるものだが、それが実行力を得るには、権威を有していなければならなく、そのため、人の上からの制限と言える。風習や慣習は、人と人との関係によって生じるものだが、それは特定の人に向けられたもの、特定の人を結び付けるような存在ではなく、空気のような、抽象的な存在、雰囲気として存在するものであり、容易には否定し得なく、時が経つにつれて権威化されていき、遂には、上から人、社会を圧迫する存在になる事もある。


  では、社会的な横関係による、人の行動を制限するものとは何か。辞典からの引用にもあるように、情、義理である。だが、これによって人を束縛、自由を制限できるか?当然だが、ならない人もいる。それは、正に「行動の妨げ」になるとして、取り合わないと判断を下した人である。ここから、人が自由を制限されるのを受け入れるか、つまり、行動を止めるのか、その条件が見えてくる。それは、情を受けるからではなく、情を感じるからである。「情を受ける」とは受動であり、自分の意志に拠らないものであり、つまり、妨げとなる。これは、言い換えれば、外国で見られる罰則的奉仕である。「情を感じる」とは、相手がその情を発しているか不明確ではあるが、そう感じるのは能動であり、自分の意志である。前者に合わせて言い換えるのであれば、ボランティアと言える。


  つまり、能動によるものであれば、人は行動を制限されているとは感じないのである。例えば、恋人同士が時間を共に過ごすとしよう。付き合う以前は、それぞれがそれぞれに、他の事をやっていた。つまり、関係性から言えば、自由だった事になる。しかし、付き合う事となり、デートなどで時間を共有するようになる。その時間は、以前であれば、ゲームをしたり、本を読んだり、テレビを見たり、様々にしていたであろうが、テートのために、相手のために、その自由を捨てる、捨てられるのである。それは、それら自由を失っても、失う以上に得られる何かがあるからである。


  「絆」の原義は、馬や牛を繋いでおくものだが、馬にしろ牛にしろ、その力を以ってすれば、繋ぎ止めている程度の縄など、引き千切って逃げ出す事は、容易なはずである。それをしないのは、そうされている事によって身の安全を保て、食料を確実に得られるからに他ならない。もちろん、飼育するに当たって、小さい時から、そうなるように調教しているのが、最大の理由ではあろうが。身近な動物で見ても、やはり、同じである。犬であれば、飼い主によって、安全と食料を得られる。内猫も犬に同じである。家猫、外猫であれば、その行動範囲と引き換えに安全の度合いを失うが、地域によっては、イッパイアッテナ化されて、食料も得やすくなるであろう。


  今年の言う「絆」とは、恋人のような個人的な感情や、家族や友人と言った知った仲同士の繋がりも含まれてはいるが、それ以外にも及ぶ、もっと大きいものである。超個人の関係による繋がりで得られる「何か」とは、何であろうか。それは、地域的、心理的安定であり、そこから生ずる安心ではないか。得られるものが大なれば、一部の自由を失ってもいい、妨げられてもいい、そう思える根底の心情が、今年に示された「絆」の新意ではないであろうか。




「17才のトリック」改

これは、2002年06月25日に書いたものを、一部修正改変したものです。



  少し前の話になるが、「17才」と言う年齢が、マスコミの間で賑わっていた。17才の人達が次々と犯罪を犯し、社会問題化していると、盛んに喧伝していた。確かに、「17才」と言う年齢者による犯罪が、数件立て続いた。その最後となったのは、岡山県で発生した事件だったと記憶している。片手で足りる程度の件数だったとも、記憶している。この程度の問題が、なぜ社会問題化したのであろうか。17才が、年間ないし月間で、一番の犯罪者件数になったのであろうか。それとも、犯罪の背景が、17才と言う年齢と何かしらの繋がりを見い出せるものだったのであろうか。以下で考察してみる。


  2000年の04月から06月に掛けて、高校三年生で17才の人達が犯罪を犯した。高校生が重犯罪を犯したと言う事から、この事はテレビや新聞を賑わせた。その中では、何が起因となったのか、と言う事が論じられていた。家庭(親子)問題、生活環境、友人環境、当時の社会問題etc。しかし、その内容たるや、取るに足りない愚論に過ぎなかった。上記の論点など、別に17才の年齢者に限ったものではない。犯罪を犯した人たちよりも劣悪な環境にありながら、立派に生きている人達もいる。つまり、環境論にすり返る事は不可能である。友人関係も変わったところは見い出せない。そうなると、犯罪を犯した個人を対象とした個人論となる。しかし、そうなると、完全に対象者が、「17才」である必然を失う。また、個人論などは、軽々に語れるものではない。「17才」と銘を打ってはいたが、その実、多少の異同はあれど、何歳であろうが、如何なる立場にいる人間であるかを問わない、使い回し自由の論法なのである。


  しかし、私見ではあるが、「17才」と言う年齢は、大きな意味を有していたと思う。しかし、ここでの「17才」は、普遍的な「17才」ではない。2000年度に高校三年生になった、1982(昭和57)年度生まれの人達を指すものとしてである。このような限定をする理由は、1997年に求める事が出来る。1997年05月、神戸市で起きた連続殺傷事件である。事件発生当初は、大人による犯行と思われていたが、逮捕されたのは、14才の中学校三年生、少年Aであった。1997年に中学校三年生となると、出生年度は1982年になる。つまり、少年Aは、2000年度には、17才の高校三年生になっていたと言う事である。この年の「17才」と言う年齢者と、神戸の事件は、同じ年度生まれの人間によって引き起こされたものであった。しかし、この事が論点となって、テレビや新聞に出た事は無かったと記憶している。


  当時は、いや今もか、この手の事件に興味を抱く事は無かった。その理由の一端に、この国のマスコミが、この手の事件における振る舞いを知っていたからである。ただ、そこで言われていた論調は、想像に難くない。「現代の少年は分からない」と言うところから、「14才」と言う年齢に帰着させ、どこぞの犯罪心理学者や少年心理学者とやらに、その論証を求めると言う内容であったろう。何せ、「17才」の時に、この行動、方法を取ったのだから、間違いは無い。14才と言う多感な時期に、テレビによって連日のように、自分の年齢が「おかしい」などと言われ続けたらどうなるであろうか?自分の中の眼と、他者からの眼との対峙を繰り返している時期にである。テレビなどの情報媒体に依存し、その影響の度合いは、年を追うごとに大きくなっていると聞く。そんな中での事である。この当時の「14才」の年齢者の中には、ある種の劣等感や、「自分もそうなるかもしれない」と言う不安や恐怖心を抱いた者もいたかもしれない。そうして、2000年17才の時には、「17才が問題」と言われたのである。二度に渡って、自分の年齢が「おかしい」とテレビなどで騒がれれば、心理的に不安定になる者が出てきても、仕方の無い事ではないか。


  マスコミは、1982年度生まれの人間に対して、「14才」の時、「17才」の時と、二度に渡って、精神的レイプをしておきながら、その事を無視している。14才、17才がおかしくなる年齢であれば、2002年現在にも、多くのその事例が無ければならない。しかし、一向にそのような事例が増加したとは、聞こえてこない。




  確かTBSだったかな、2000年当時に、「17才の闇」と言った特集を組んでいた記憶がある。さて、今になっても、17才が問題を多く発生させているとは、ついぞ聞かない。上記に書いているけど、「現代の少年は分からない」とは、本当にいつの時代でも使い回せる言葉なんだと、最近の若者問題に関しての発言からも分かる。しかし、その若者問題とやらも、結局は、その論拠薄弱どころか、論拠不明の愚論である事が見えてくる。