西東雑論 -46ページ目

「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その七

  これを受けて、崔浩が張淵の言に反駁していく。『魏書』と『資治通鑑』の当該部分を合わせて見る。第一点の三陰から始める。


陽は德であり、陰は刑である。そのため、日食には德を修め、月蝕には刑を修めるのである。そも王たる者が刑を用うるに当たって、その大なるは戦伐であろう。であるならば、三陰の年の用兵は、修刑の義に適うものではないか。今、出兵して罪有るを討つは、修刑と言えよう。


と、三陰、干支による反対論を否定した。続けて、歳星(木星)と太白(金星)、天文に関して論じていく。


今、飢饉のために民流が発生している。歳星が月に差し掛かっている事から、その流民が他國に居ざるを得なくなる年月は、長ければ十二年になってしまう。太白は倉龍宿に向かっていて、天文においては東であり、北伐を妨げるものではない。


と。歳星、つまり、木星の公転周期は十二年であるから、流民生活の周期を陳べているのだと思われる。倉龍宿(蒼龍宿)とは、二十八宿の東方にある七宿の総称である。これで、張淵の二つの論点に反駁を加えた。反駁は、天文だけからでなく、『漢書』「刑法志」を参考にしている。「夫王者用刑,大則陳諸原野」の部分である。また、現在の情況である飢饉と流民の問題も絡めている。どちらが説得力があるかは、一聴にして分かるであろう。崔浩は更に続ける。


張淵は俗の生まれのため、知識は浅近な所にしか及ばず、大體に達する事は出来なかったのだ。だから、この事については知らなかったのである。そのような者とは、遠図を共にするのは難しいであろう。


と。張淵が信頼に足る人物ではなく、耳を貸すべきではないと陳べた上で、更に天文の事象を付け加える。


私も天文を見ているが、ここ数年来、月が昴を覆っており、今もそうである。ここから言える事は『三年,天子大破旄頭之國.』である。蠕蠕、高車は旄頭の衆である。


と。これは、張淵が全く触れていない事である。張淵は天文に明るいと言う触れ込みだったが、この事も気づけない程度しかなかった事を暴露したのである。昴は二十八宿の一つで、西方に位置し、別名を旄頭と言い、胡星と見做されていた。これにより、昴は胡人を征伐する天象とされた。上記のように、蠕蠕や高車は旄頭の衆、つまり、胡人である。そして結論を導き出す。


そも聖明なる天子が御する時には、非常の事を行う事が出来るものだ。古人の語にもある。「非常の源に、黎民は懼れを抱くが、それが成功に及べば、天下は晏然となる。」


と。これは『史記』「司馬相如傳」に見える。以下に当該部分を引用する。


蓋世必有非常之人,然後有非常之事;有非常之事,然後有非常之功。非常者,固常之所異也。故曰非常之原,黎民懼焉(注)。及臻厥成,天下晏如也。」


崔浩が引用したのは、多少の異同はあるが、注の前の部分である。そして注では、このように解釈されている。「非常之事,其本難知,衆人懼也」と。非常の事と言うのは、非常の人でなければ分からない。だから、常人はそれを知る事が出来ない。だから、恐れるのだ、と言う事である。これを言われてしまっては、張淵もこの論点で反対論を続ける事は出来なくなった。ここまでの崔浩の論によって、蠕蠕討伐は天意に適った事であり、この非常の事に気づいたのは、世祖である。それも、臣下の進言によるものではなく、自らの発案であった。非常の事は非常の人にしか気づけないと言われては、これを否定しては世祖が非常の人物ではないと言う事であり、崔浩は更に上なる存在であるとして称した、聖明である事も否定してしまう事になるためである。





「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その六

○は表示できない字です。最後に画像で示します。


  神○二年(429、元嘉六年)の四月、世祖は蠕蠕を討伐すべく、その可否を議させた。蠕蠕とは、前述に出ているが、柔然の蠕蠕での呼称である。『資治通鑑』の注に、「杜佑曰:柔然,後魏太武以其無知,状類於蟲,故改其號曰蠕蠕。」とある。つまり、蔑称である。世祖の意する所は、当然に賛成を得る事にあったが、朝臣は乗り気ではなかった。ただ一人、賛成を表明したのが崔浩であった。そんな中にあって、保太后が強く反対した。保太后とは、世祖の乳母である。世祖の母である密后の杜氏は、世祖がまだ幼かった時に亡くなっており、竇氏が養育するよう命じられたのであった。その時の恩に報いるべく、始光二年(425、元嘉二年)の三月、世祖は竇氏に太后の尊号を加えたのである。保太后の「保」は、「保母」から取られたのではなかろうか。しかし、その保太后に反対されたからと言って、世祖は考えを変える気は無かった。反対派は、太史の張淵と徐辯に、世祖の翻意を試みさせた。この二人、元は北魏が滅ぼした夏の臣で、天文を司る太史に任じられていた。夏の國都であった統萬が陥落した時、この二人は捕えられたが、そのまま引き入れられ、そのまま同じく太史に任じられていた。専門の官職は得がたいものであり、生きて捕らえる事が出来たらば、強制的にでも自勢力に組み入れるであろう。文官のため、叛乱を起こしたり、暗殺を企てたりと言う心配も、ほぼ無い。また、専門官、文官であれば、自分の職務を保証してくれるのであれば、誰が主であるかを問わない者も多いであろう。一番嫌がるのは、研究の対象から外される、奪われる事である。さて、この二人は、その本職である天文の運行から、反対を論じていく。

今年は己巳(日本で言う「つちのと・み」)で、三陰の歳である。
歳星(木星)が月に掛かり、太白(金星)が西方にあるため、兵を挙げるべきではない。
北伐しても失敗する可能性が高く、勝ったとしても、上(皇帝)には利は無い。

と言うのであった。三陰を『資治通鑑』の注から説明する。干支の干、十干の内、甲、丙、戊、庚、壬を陽とし、乙、丁、己、辛、癸を陰とする。分かりやすく言うと、紀元後の西暦の末尾が、偶数なら陽、奇数なら陰である。甲が4、乙が5である。これを知っておくと、干支付きの歴史事象の末尾の年だけは分かる。それはさて置き、干支の支、十二支の内、支以子、寅、辰、午、申、戌が陽であり、丑、卯、巳、未、酉、亥が陰である。この十干十二支の組み合わせが干支(かんし)である。干が陰、支が陰、その組み合わせが陰である事から、三陰と言うのである。三陰の歳が、軍を挙げるべきではない理由は陳べられていない。これを聞いていた群臣は、この説得力を感じる言に勢いづき、その説得力を増させるために、張淵の過去の言の実績を挙げた。

張淵が若かりし頃、前秦の苻堅が南伐を起こそうとしたため、東晉の太元八年(383)の事であるが、これに反対した。しかし、苻堅はこれに従わなかったばかりに敗れてしまった。

と言い、「言するところ中(当)たらざる無く、違うべからず」と繋げ、「今、天意も群臣も反対しており、動くべきではない」と結んでいる。こうなると、さしもの世祖も迷いが生じてきた。重要度の増した天文を読み解き、また、前秦が滅亡へと転換していった南伐の失敗を見抜いていたと言う過去を提示されては、さもありなんと言うところである。しかし、世祖の意するところは蠕蠕討伐であり、ただ一人だけ賛成していた崔浩に、我が意を得るためにも、張淵らと議させた。



○は以下の字です。





「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その五

  423年、太宗が死去すると、拓跋燾(世祖太武帝)が後継に即いた。これを好機とばかりに、崔浩を煙たがっていた者が、その排斥に動き出した。世祖は、崔浩の事をよく知っていたが、代替わりしたばかりだったため、無駄に軋轢を生じさせないようにと、崔浩には、自宅に留まるよう求めた。しかし、疑義があれば、呼び出して問う事にしていた。これによって、崔浩は自宅に留まる事となったが、この時に服食養性の術を修め、寇謙之を師と仰ぐようになった。崔浩の外見は、色白な細身で、言うなれば美婦人のようであった。頭の回転が早く、謀計に長じていた。その謀計の能力は、前漢の張良に比しながらも、自分の方が上だと言うほど、ある種の自信を有していた。


  ここまで崔浩は、積極的に戦う事を進言してこなかったが、ここに来て、攻めるよう論を展開した。始光二年(425、劉宋の元嘉二年)の八月、五胡十六国の一つである夏の赫連勃勃が死去すると、太子の赫連昌が後継に立ったのが契機である。この前年、始光元年(424、元嘉元年)、夏では後継者争いが起きていた。それを引き起こしたのは、その決定権を有していた、つまり、父であり主でもある赫連勃勃であった。溯ること十年前、神瑞元年(414、東晉の義熙十年)、第二子の赫連璝を太子に立てた。第三子の赫連昌は太原公に、第四子の赫連倫は酒泉公に封じられていた。それが、始光元年になって、太子とした赫連璝を廃して、赫連倫を太子に立てようとしたのであった。これを聞いた赫連璝は、そうはさせじと、機先を制すように赫連倫を攻め殺したのである。この第二子と第四子の争いは、その間の赫連昌に取っても好機となった。それは、太子の赫連璝は、太子を廃される流れになったのだから、それは父の赫連勃勃が見限らる何かしらがあったからであり、その変更先であった赫連倫も殺されて、いなくなってしまった。となれば、次の太子の候補に、自分が挙がってくると考えるのは必定である。ただ、赫連倫が殺されたため、やっぱり赫連璝のままにしておこうか、となっては困る。そこで、赫連昌は動いた。赫連璝に急襲を仕掛けて、これを攻め殺したのである。そして、その首級を持って都(統萬)に帰還した。この場面を、『資治通鑑』では「夏主大悅,立昌為太子。」と結んでいる。兄弟が殺し合った上に、それを引き起こした赫連勃勃が、この相殺(そうさつ)劇を悦ぶなどしたため、この後の代替わりも手伝って、夏国人は不安に陥ったのである。


  世祖はこの虚を突く事を考え、夏を討つべく、その可否を群臣に議させた。始光三年(426、元嘉三年)の九月の事である。夏は長安を抑えていたため、ここを奪取する事により、關中の地を勢力下に置きたかったのである。これに四帝に仕えてきた、重鎮たる長孫嵩が反対している。「籠城されれば、その隙に蠕蠕(柔然)が侵攻してくる」と言うのが、その理由であった。これに反論して、賛成の意を表明したのが崔浩であった。ここで、前皇帝の太宗が信用した事により、その影響力が増大した天文を用いて、説いている。熒惑(火星)の運行を以って、まず秦の地域が亡ぶと論を始める。熒惑が順行から逆行に転換し、再び順行に戻った動きを見てである。秦の地域に、長安が含まれているのは、言うまでも無い。熒惑の運行による秦の地域の滅亡とは、長安を國都としていた後秦と、その主であった姚興の死を指している。その時と同じような動きを、熒惑がここ数年に見せていた。また、この年、五星が東方に出現しているため、西への軍事行動に天が加勢すると言うのである。五星とは、熒惑を含む歳星(木星)、鎮星(土星)、太白(金星)、辰星(水星)である。天の時と人の考えが、ここでは皇帝である世祖、一致しているのだから、これを失してはならない、と言うのが結論であった。天の運行と記憶に新しい事象を組み合わせ、また、皇帝がその天意に沿うような発案をした事も加える事によって、反論させづらいような論理展開を見せたのである。これで勝負ありと思われたが、長孫嵩は頑なに反対論を展開した。しかし、世祖は自らの発案と、崔浩の論理展開によって我が意を得ていたため、これを退けている。


  これによって夏征伐が決行された。翌年の始光四年(427、元嘉四年)の六月、夏の國都である統萬に攻勢を掛けた時、反対論を展開した長孫嵩が懸念した通り、城の守りを堅固にしていた。そこで偽退却を仕掛け、夏軍を城から誘き出した。ここまでは成功だったが、突如として暴風雨が、追撃してくる夏軍の後方からやってきていた。これを見た、同行していた側近の一人で、方術に通じている者が、「この情況は、天が我らに助力していない」と判断し、軍を引いて体勢を整えるべきだと進言した。これに崔浩が反駁を加えている。


必勝の計を以って遥か遠征してきているのであり、それをたった一日の天気の変化で変えられようか。


と言うのであった。この時の崔浩の言いようを「叱」としており、その語気の荒さが見て取れる。ただ、両者は、実際のところ、天気の急変を問題としていない。前者が見ていたのは、自軍の將士の情況であった。「空腹と渇きのため、まともに戦えない」と語を継いでおり、天気の急変は、その契機としたかっただけである。天の動きを以って、事の是非、可否を図ってきた崔浩であれば、これも天の思し召しとするかのように思える。しかし、前述の通り、「一日の天気の変化など気にする必要は無い」と言いのけている。「重要なのは、作戦を遂行する事にある」と言う。もちろん、それも言いたかった事である。確かに、偽退却に引っ掛かって、夏軍が追撃を仕掛けてきていた。しかし、崔浩が見ていたのは、その追撃軍の情況である。前軍が全速で追撃を掛けていたため、後続軍が引き離されてしまっていた。この機を逃してはならない、と言うのが本論である。およそ千里の遠征であれば、また、その攻略目標との対決となれば、空腹や渇きを満たす事のために、軍事の手を緩めてなどいられない。それが、まんまと経略に掛かってくれたとなれば、尚更の事である。これによって、夏の國都である統萬城は陥落した。この軍事行動の間、長孫嵩が懸念した通り、北魏の北端である雲中郡に蠕蠕が侵攻してきていたが、統萬陥落の翌月の七月、これを知って遁去している。


  翌年の始光五年(428、元嘉五年)の二月、逃走していた赫連昌を捕える事に成功した。翌月の三月、世祖は赫連昌を迎え入れた。それだけでなく、妹の始平公主を嫁がせ、常忠將軍とし、會稽公を賜爵する厚遇ぶりを見せた。狩りに出る時には、常にそば近くに置いた。その際、山澗に深入りする時も、他の従者ではなく赫連昌を連れていった。赫連昌が勇名を馳せていただけに、諸將は止めるように進言したが、「天命は在るべき所に有る。懼れる事など無い」と言って、遇し方を変える事は無かった。諸將とすれば、滅ぼした國の主であった人物を、側近くに置いていては、いつ隙を見て暗殺に動くか分からなかったため、このような心配をしたのである。尤もである。しかし、勢力を拡大していく北魏にとって、有能な人物と言うのは、得難いものである。ここは異民族の故郷の地ではない。漢人の地である。だから、崔浩のような流れで来た人物を除けば、好んで臣従する者は少ない。だから、むやみやたらに殺すわけにもいかない。また、ここで赫連昌を遠ざけてしまえば、肝っ玉の小さい奴だと見られかねない。ここで赫連昌を近くに置いておけば、肝っ玉の据わっているだけでなく、その来歴を問わずに近くに置くと言う度量の広さ、深さを示す事が出来る。北魏と言う國家の発展段階にあって、まだまだ早期にあったため、赫連昌はその身を保てていたのである。