西東雑論 -47ページ目

「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その四

  泰常三年(418、義熙十四年)、彗星が出現した。天の運行は、何かしらの意味を持っているとされていたため、太宗が術士に意味するところを問うた。術士らは、崔浩の名を挙げて、その答えを任せた。崔浩は『漢書』を引いて、劉裕が帝位の簒奪に及ぶと予測した。それは、前漢を簒奪した王莽が、その実行の前にも彗星が現われ、同じ運行した、と説いた。この二年後、果たして劉裕は東晉を簒奪した。この報が、猟の途中であった太宗の下にもたらされると、すぐさま崔浩を呼び出して、「往年に卿が言った彗星の占が、現実となったそうだ。朕は今日始めて、天道が信ずるに値するものだと思い知らされた。」と言った。これは、崔浩の言った通りになったからだけではない。『漢書』から引用しながら、「天事恒象,百代不易(天事は恒の象にして,百代しても易わらず).」と明言したからである。太宗も中華文明、文化に浴していたであろうが、民族の文化に無く、実態の無い部分に関して、懐疑的であった事が窺える。しかし、この一件によって、天の運行が意味を有していると信じるに至った。これは、太宗一人の転換ではなく、北魏の知識階級全体の考えの転換点になったと思われる。そして、これ以後、崔浩は天の運行と絡めて進言するようになる。


  父の崔宏の病状が悪化すると、斗極に自らの命と引き替えに、父の延命を祈祷している。この時、崔浩は剪爪截髮している。この行動は、『尚書』に見えるもので、殷の湯王が「剪爪截髮」して雨乞いをしている。これに倣ったものであろう。祈祷のやり方も、夜、誰の目にも付かないように、流血しても叩頭を続けている。この甲斐無く崔宏が死去すると、服喪の間は礼を尽していた。これは漢人としての行動であり、異地に生まれ育ったとは言え、漢人としての誇りがあったようである。それは儒学を修めると言うことであり、この時代に流行していた老莊の書は好んでいない。




「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その三

  その経緯は省略するが、太祖は子の拓跋紹に弑殺されてしまった。その拓跋紹を太子の拓跋嗣が誅殺して、後継に即いた。太宗明元帝である。太宗は、太祖と同様に崔氏親子を信任した。崔浩は太宗に、經書について教授している。太宗は陰陽術数に強い関心があり、これらを得意としていた崔浩が適任だったわけである。太宗は、崔浩に吉凶を筮させ、天文からも判断させて、事前予測するよう命じた。崔浩がこれを受けて出した結論は、多くがその通りとなったため、軍國の大謀を任され、信頼は絶大となっていった。天文からの判断として、後秦の姚興の死を、その前年に見て取っている。


  では、崔浩の判断は、筮や天文によるものだけであったのかと言えば、そうではない。泰常元年(416、義熙十二年)、東晉の劉裕が、姚泓に代替わりした後秦を攻撃するため、北魏国内を通過させて欲しいと申し入れがあった。この時、後秦からは、救援を求められていた。北魏と後秦は、姻戚関係にあった。また、劉裕の本図が後秦なのか北魏なのか予測できないとして、内外の朝臣が通過に反対の声を挙げた。しかし崔浩は次のように言って、賛成の声を挙げた。


劉裕の本図は後秦にあり、ここでその行軍を遮れば、それこそ目標を我が國に改める。また、北で蠕蠕と戦っている。劉裕が向かってきた時に、こちらに振り向ける軍は無い。無理に割いてしまえば、両面どちらにも負けてしまう。ここは、通過させた上で、その帰路を塞いでしまえばいい。劉裕が勝てば、それはつまり後秦の滅亡を意味するのだから、後秦との婚姻も何も無い。後秦が勝ったとしても、劉裕の退路を断っており、情況を見て攻撃しておけば、援護しなかったと誹られる事も無い。また、後秦を滅して關中を得たとしても、遠征してきた劉裕軍では維持し続ける事は無理であり、労せずして我らのものとなろう。


  しかし、これは聞き入れられなかった。太宗は軍を派遣して、劉裕軍の進軍を止めようとしたが、劉裕軍に返り討ちにされ、多大な損失を被った。太宗は崔浩の計を用いなかった事を後悔した。この一件から崔浩は、敵の真意を見抜き、かつ、どちらに転んでも自国の評判を落とさないように、しっかりと考えられた建策をしている事が分かる。他の群臣が、劉裕の動向にだけしか目が行っていなかったのに対して、崔浩は他国の情況と、それに誘発された行動の真意を見抜けたからである。劉裕が後秦征討を企図したのは、英雄たる姚興が死去し、凡庸たる姚泓が継いだ事に起因する。東晉の至上命題は、かつての國都であった長安を、異民族の手から奪還する事にあった。北魏のこの時の版図は、長安には掛かっておらず、東晉の目的にはなり得ないのである。この後になるが、太宗との語らいが夜中に至ると、太宗は酒と岩塩(戎鹽)を下賜して、「朕が卿の言を味わうのは、この鹽(塩)と酒を味わうようなものである。故に、卿とこうやってその旨を共にしたかったのだ。」と高く評価している。



「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その二

  これより先は、特に記さない限り、元号は北魏を以って示す。ただ、年表などに記されている年号は、南朝のものが殆どのため、( )内に南朝の元号も合わせて記す。また同じく、特に記さない限りは、『魏書』を引用元とする。展開も『魏書』の流れに沿って行う。




  崔浩を最初に漢人と陳べたが、漢人の版図を離れて半世紀、三代も経ってからの生まれである。生年は不明だが、北魏の天興年間(398~404年、東晉の隆安二年~元興三年)に給事祕書に任命され、著作郎に転じられている。この直前の記述に、「弱冠為直郎」とある。弱冠とは二十歳の事であり、単純計算で引く事の20年とすれば、生まれは370年後半から380年半ばと推定される。小さい頃から文學を好み、經史の多くに目を通していたと言う。ここで言う文學は、現代で言う文学ではなく、直後にある經史など、学問を身に着けるための書である。現代的意味との混用を避けるため、本字の「學」を以って記した。經史の「經」は、十三經のように儒学の基本となる書で、「史」はそのまま史書である。史書には、歴史だけでなく、制度や天文についても、十分な分量が割かれている。これは、士大夫が身に着けるべき知識である。漢人の血統であり、父の崔宏も文化的、学問的に高いものを有していたため、經史を修めると言うのは、当然だったと言える。これが北方異民族で、皇族など高い身分の家の子弟でもなければ、この段階では經史を修めると言う意識は、生まれていなかったであろう。經史だけでなく、天文(玄象)や陰陽、諸子百家にも目を通していた。「研精義理」とある事から、ただ目を通した、記憶した、影響を受けたと言うのではなく、その内容について、自分で解釈を付け、自分の物にしていったと言う事である。


  父の崔宏が皇帝に親任されていたために、そのお陰を以って皇帝の近くに置かれたわけではない。「太祖(拓跋珪)以其工書,常置左右.」とあり、崔氏家伝の書術が、そのきっかけとなった事が窺える。「太祖季年」と言うから、天賜五~六年(408~409年)であろうか、太祖が法を厳正に執行するようになったため、微過(ちょっとした過ち)でも罪されるようになってしまった。太祖が法を厳正に執行した、と言うのは「威嚴頗峻」の訳であるが、文字通りの意味で取れば、有能な皇帝の行動に見えてくる。だが、ここではそうではない。法を勝手放題に乱用するようになったと言う事であり、つまり、太祖の暴君性を表した一文である。そのため、多くの官吏が、身に降り掛かる火の粉から逃亡を図ったが、そんな中にあっても、崔浩は政務を執り行い、そのために家に帰る事の出来ない日もあった。つまり、いつも通りの行動をしていたと言う事である。これを知った太祖が、御粥を賜したと言うから、太祖も本格的に狂人とはなっていなかったようである。ここまでは、『魏書』「崔浩傳」の第一段をなぞっているだけだが、最後は「其砥直任時,不為窮通改節」の一文で締められている。任務に当たる時は、どんな情況でも節、態度、姿勢を変える事は無かった人物と、この時点で評されている。