西東雑論 -45ページ目

「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その十

  朝議終了後、崔浩は公卿の一人に「今、呉賊が北伐してきたらどうなる?千里の先に行軍した情況では、これを知る事は出来まい?」と問われている。先刻の議では、蠕蠕との絡みしか論点にされておらず、その間の劉宋の動きには、確かに触れられていなかった。また、「戦闘の成り行きで、蠕蠕が遠遁してしまったら、前には何も得る物が無く、後ろには南賊の患を抱える事になり、危道ではないか」と言うのである。蠕蠕の戦術として、離合集散を得意としていた。また、退いて誘き寄せておいて、戦線が延びた所で反転して、攻撃を加えると言う戦法も有していた。これに対して、鮮卑族出身の北魏は対処する術と能力を有しているが、遠遁、つまり、遠くまで逃げ去られてしまったら、流石にどうしようもない。これも離合集散の一形態であるが、ばらばらに四散されてしまったら、それを虱潰しに叩く事は、不可能である。いなくなったのだから、その地を占領できるわけでもない。四散しただけだから、戦力の総数が無くなったわけではない。折りを見て四集してくれば、その地を保つ事は不可能である。骨折り損のくたびれもうけになるわけだが、その兵を引き返して、すぐさま劉宋軍と戦わなければならない。ただ、引き返せば、すぐに蠕が四集してきて、背後を突いてくるのは必至である。南北両面に対応しなければならなくなり、であるならば、動かない方がいいのではないか、と言うのが、公卿の意するところであろう。


  崔浩はこれを否定する。両面対応には陥らないと言うのである。それを、自国の北魏、そして劉宋の立場から見て、その理由を説いていく。まずは北魏の立場からである。


今年に蠕蠕を叩く事が出来なければ、南賊(劉宋)の防禦に兵を回せない。


と。蠕蠕と劉宋のどちらが叩くのに手が掛かるかと言えば、当然に劉宋である。だから、叩きやすい蠕蠕を先んじて行うべきであると言うのである。しかし、これでは、蠕蠕討伐の間に、劉宋が北伐してくる事に対する回答になっていない。その北伐を起こし得ない事を、劉宋の立場から説いていく。


國家(北魏)が西國(夏)を併呑して以来、南人(劉宋)は、いつ南侵してくるかと恐懼している。だから、南進すると揚言すれば、淮北の守りを固めるであろう。彼方は歩による移動のため、その移動で疲弊する。その疲弊している兵を以っての守備になる。しかし、我々は馬による移動のため、疲れ知らずの鋭気十分の兵となる。その勢い、士気の差は歴然である。また、彼方は水戦を得意としており、我々は不慣れである。しかし、彼方は陸戦を得意としておらず、我々は得意中の得意である。だから、積極的に戦う事を選択せず、渡河させないよう、対岸の守りを固めるだけで、それ以上の北進はして来ないであろう。それは、蠕蠕討伐からの往還の間、この情況に変化は無い。


と。劉宋の現在の軍事情況を読んだ上での、返答である。しかし、これだけでは、言の保証たり得ない。そこで、直近の南朝の軍事行動から、南朝に植えつけられた心理を説いていく。


劉宋の建國者、雄傑として知られた劉裕が、後秦を滅ぼして關中を掌握したが、結局、保つ事は出来なかった。自分の息子だけでなく、名だたる良將と精兵数万を配していたにも関わらず、守り切る事が出来なかったのである。それどころか、潰滅状態に追い込まれたと言う過去がある。その悲しみは、十年経った今でも癒えていない。


と。これが、劉宋の心理の根っこにあると言うのだ。また、劉裕が北伐したこの時は、時代は東晉であったが、士馬強盛の時であった。それでも守り切れなかったのだから、今も無理であろう、と結んだ。これを踏まえた上での、蠕蠕討伐の戦略が陳べられる。


蠕蠕がは絶遠の地である事を恃みにしており、我らが進軍してこないと高を括って安穏としている。だから、夏には銘銘に放畜に向かい、秋になって戻ってくる生活が出来ている。そして、収穫を終えた我らに侵攻してくるのだ。今は放畜に向かう前であり、その準備に掛かっているであろう。ここを急襲すれば、その不備を突く事が出来る。大軍の急襲を受ければ、言うように四散遠遁するだろうが、放畜前の馬では体力に乏しく、水と草を得る場所も季節的に限られており、数日もせずして戻ってくる事になろう。その時には疲弊しており、一挙に滅する事が出来る。少しの労で以って、長期の安定が得られるのだ。この時を失してはならない。今、上(世祖)も決断され、曠世の謀が発せられたのだ。


と。『魏書』と『資治通鑑』を合わせて、意訳を加えたものである。この議が起こされたのは、四月の事である。四月は夏の初めであるが、漠北の地にあっては名ばかりの夏で、晩冬の終わりに差し掛かったくらいであろうか。まだ、周辺には十分な牧草を得られる場所を、確保できる時期ではないであろう。かと言って、まだ、放畜には向かっていない時期でもある。これによって、遠遁されて骨折り損になる事も無いと説いたのである。






「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その九

  この張淵と徐辯は、前述の通り、先見の明がある、数術(術数)に通じた人物として紹介され、蠕蠕征伐反対の論者として推された。その事を引き合いに出して、更に追い詰めていく。


問う。その西國(夏)が未滅の前に、何かしらの亡徴はあったか?であるならば、『知而不言,是其不忠;若實不知,是其無術.』であろう。


と。ここで表題の語が出てくる。『』はこちらで附した。前秦の南征を失敗すると説いたのだから、この時も当然に言っていたであろう。前述したが、崔浩は夏征伐を賛成するに当たって、天文の運行を以って説いている。その運行は、張淵らも、太史と言う職務上、観ていたはずである。しかし、張淵も徐辯も、恥じ入って顔を赤らめて答えられなかった。当時からいる北魏陣営には、張淵が言ったかどうかを知っている者は、当然にいない。だから、言ったが聞き入れてもらえなかったなど、何とでも言えたはずである。それが出来なかった理由は、張淵らが北魏に引き入れられたのと同じ所以で、北魏に身を置く事となった人物が、この議の座中にいたからである。元の主であった、つまり、夏の皇帝であった赫連昌がいたのである。ここで張淵が先言したとでも言おうものなら、そのような事は聞いていないと、赫連昌によって即座に否定されてしまうだろう。こうなってしまっては、「難與遠圖」として遠ざけられるだけでは済まない。皇帝の前で、また、先主の前で、臆面も無く嘘をついたとなれば、その場で首を刎ねられても仕方が無い。かと言って、先言していないと自ら告白すれば、それは自ら無術であったと告白する事である。そうなってしまえば、この先に何を言っても信用されないばかりか、やはり、太史から外され左遷されるか、最悪は朝廷から放逐されるであろう。だから、無言になってしまったのである。しかし、無言である事が、先言しなかった事を雄弁に語ってしまっている。最後の表題とした語が、世祖を大いに悦ばせ、意を決断させるに至った。「亡國の師と謀事を共に出来るか」と断じている。保太后がなお食い下がったが、世祖は崔浩に再び説かせている。





「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その八

  言い返せない程の理詰めの論を展開され、しかも、それに気づけなかったのは能力が無いからだと言われ、これを否定しようものなら皇帝をも否定するような罠を張られては、張淵は慙じ入るしかなかった。もう天文では反対論を展開できない。そこで、攻める事自体に意味が無いと言う論に摩り替えようとした。


蠕蠕は荒外にいる無用の物であり、その土地を得たとしても、耕作に不向きのため、食料を得られない。また、その人民は臣従させる事は出来ない。


と、その土地の不毛さと、民族性の難点を挙げた。また、続けて、攻めるに当たっての難点を挙げた。


機動性が高く、行動範囲が広い。加えて一定の拠点を持たない。また、攻守に際して離合集散を手段としている。


と。これらの理由から、「急を要する事でもなければ、士馬を労苦させてまでする価値は無い」と結論付けた。これに崔浩は、開口一番に「張淵は形勢を論じたが、それは彼の知る所ではない」と切り捨てた。張淵が天文では敵わないと見て、論点をずらそうとしている事を、世祖を始めとした周りの人に、はっきりと分からせようとしたのである。張淵が天文を元にして陳べるのは、その太史と言う職務から「淵言天時,是其所職(淵の天時を言いしは、是れ其れ職する所なり)」と言って問題の無い事を言う。しかし、人事(人民の性質)や形勢(土地の情況)については、門外漢であると断じている。天文を学ぶ上で、過去の史書に書かれた内容を触れるのは当然であり、その寄り道として、他の部分にも目を通していた事は、想像に難くない。ただ、現在はどうなっているのか、と言う事に目を向ける事は無い。言うなれば、自国史を勉強したと言うだけである。そのため、張淵が陳べた人事形勢は、「漢世舊説常談」であった。詳しく見れば、その内容は、『史記』の前漢の主父偃(主父が姓)、韓安國の列傳に見えるものである。共に前漢の武帝の時代の人物である。これを引き合いに出してきたと言う事は、はやり、現在の実情を理解していない現れであった。そのため崔浩は、蠕蠕の実情を陳べていく。


蠕蠕は、古くは國家(北魏)の北辺で叛乱を起こしたが、今はその主謀者は誅殺されている。これによって、良民を入れて旧役に復帰させたところ、それに努めている。用を無さない存在ではない。


と、三十年前の事件からの現状を陳べている。張淵が陳べたのは、『史記』の成立から見ても、五百年近くも前の話しで、崔浩が「施之於今,不合事宜也(之れを今に施すは、事宜に合わざるなり)」と言うのも当然である。ここで崔浩が陳べた事件は、蠕蠕の可汗であった社崙が、登國九年(394、東晉の太元十九年)の十月、北魏の北辺で叛乱を起こした事である。世祖の祖父である拓跋珪が、まだ魏王時代の話である。世祖はまだ生まれていない。その主謀者たる社崙が誅殺されたのは、永興二年(410、義煕六年)の事であるが、世祖はまだ幼少で、記憶には無いであろう。しかし、これは父の拓跋嗣(太宗)の治世の話であり、簡単に知る事が出来る事であろう。続いて形勢について陳べる。


その居住地である漠北は高地で涼しい気候であり、この条件のため蚊蚋が発生しない。水も草も清浄である。我々が夏に北へ移動し、その地で田牧を行う事も可能である。耕作に不向きだとか、食料を得られないだとか言うは、全く当たらない。


と。これによって、張淵が陳べた人事や形勢が、事実と全く違うものであると分かる。ただ、人事にしても形勢にしても、世祖はそれを自分の目で確かめたわけではない。形勢については、実際に行ってもらわないと確かめようが無いが、人事については、確かめる事が出来た。それを陳べている。


蠕蠕の子弟で帰順してきている者がいる。その貴なる者には公主が降嫁され、賤なる者でも將軍、大夫として朝列に並び満たしている。


と。これは、皇帝である世祖であれば、分かっている事である。本職の天文の時にも言われた言葉、「淵等俗生,志意淺近,牽於小數,不達大體,難與遠圖」を、またしても証明してしまった形になった。偉大なる書とは言え、五百年も前のままに、人民の性質が留まっているわけが無い。土地に関しても、苦難の遠征先で得た情報と言うのが主であって、そこから五百年の間に得られた情報と相違が生じるのは当たり前である。それを臆面も無く言えたのは、正に読み齧っただけの門外漢だったからに他ならない。そして、『史記』と北魏における情況の最大の違いは、その構成民族にある。『史記』の内容は、当然に漢人のものであり、つまり、張淵が示した「輕疾無常,難得而制」とは、漢人が取る戦術の場合であり、騎兵に対して歩兵で戦ったが故の話である。しかし、北魏は鮮卑拓跋部で構成されており、元は同じ北方異民族である。騎兵戦はお手のものであり、つまり、機動力に悩まされる事も無い。


南人(漢人)が蠕蠕を追うから、その輕疾に患わされるのであって、國兵には当てはまらない。彼方が遠走し得るように、我方も遠逐し得るのであり、その進退を合わせさえすれば、制せられない事があろうか。


と。戦術面でも、全く問題が無い事を論じた。しかし、だからと言って、張淵が結論付けた「何汲汲而苦勞士馬也(何ぞ汲汲として士馬を苦勞させんや)?」への反駁にはなっていない。それに対しては、現在の話を以って、崔浩は反駁していく。


蠕蠕は何年にも渡って侵入してきては荒らし回っているため、人民も官吏も震驚しているのが現状である。今夏、虚に突いて急襲を仕掛け、その國を破滅させられなければ、秋に再び侵入される事となる。これでは、安臥する事は出来ない。太宗の治世より今日に至るまで、警戒せずに済んだ年は無かった。


と言い、最後は「豈不汲汲乎哉(豈に汲汲せざるや)」と結んでいる。つまり、急を要する事であると断じている。これによって、張淵の反対論は、完全に論破されたのであった。