西東雑論 -43ページ目

「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 後記

  いつもは本文に続けて後記を書いているけど、今回は一つが長いので、別に分けて書く事に。この言葉は、言を以って商売を為す人に向けたい言葉。現在における諸問題は、決して今になって問題になったわけでなく、もっともっと前に、生まれている。それを萌芽の時点で摘み取ってしまえば、対処も楽。病気で考えれば分かりやすい。癌を例に取ってみよう。その初期の初期で発見できてしまえば、長期に渡る療養はおろか、手術の必要も無くて済むかもしれない。しかし、言を以って商売を為す人は、この時点では言わない。事実、言った試しなど一件も無い。問題が手を付けられなくなって、初めて言い始める。問題が初期に解決してしまっては、それで商売をする事が出来ない。商売をするには、そして、長続きさせるには、重症化するのを待つのである。あたかも、今分かったような騒ぎ方をして。誰が誰が隠していた、どこそこが隠蔽していた、とでも言っておけば、言の受けては調べようも無い事だから、ああそうなんだ、と受け取るしかない。医者がこれをやったらどうなる?癌が全身を蝕み、本人ですら末期を悟る情況になってから、「あたなの病名は癌です」なんて言われた時、その医者を医者と呼ぶだろうか。言を以って商売を為す人は、これを平気でやってのけている。「忠」の対象を、裏切りたくない対象としたけど、こうなっては、この情報によって有益を得る人がその対象でないばかりか、その職務ですら対象としていない事が分かる。


  ネットによって情報の得られる量が莫大になった今とは言え、それが発信されなければ、得る事はできない。今回、取り扱った崔浩の事だって、そんな簡単には情報を集められない。面倒でも、自分でやるしかない。と言うか、やった物を持ってきてやっている。一からやるにはちょっと長いし、そもそも、この語を知ったのも、その時。やらなかったらば、この語に出会う事は無かったと思う。しかし、これが出来たのも、『魏書』、『北史』、『資治通鑑』がネット上に公開されているからに他ならない。


  問題が問題として顕在してから、それを問題と言うのであれば、それは小学生だって出来ること。それで以って商売をし、大金を得るなどは、その小学生にそれを与えるのと同じで、素っ頓狂なことだ。今、年金が問題となっている。これは、前世紀末の時点で、既に顕在していた問題であった。これに対する対処として、消費税を上げて、その分を当てると言う方法が考えられた。誰でも負担増は嫌。でも、負担もせずに利益を享受するなんて事は、出来はしない。これが争点になった選挙で、当時の選挙権保有者は、反対を示した。年代別投票率と言うのは、時代によってその構成はほぼ変わらない。若い人は、いつの時代にも行っていないものだ。僕は当時に選挙権を有していない。だけど、これが否とされた事に愕然とした。


こいつら今さえ良ければそれでいいんだな?
後で大変になったら、どっかに泣き付けば済むと思ってるな?


と。事実、そうなった。当時の自分らが、その年になった時の判断を任され、それを否定したのだから、その結果も甘んじて受けるべきである。払った分以上の金額は貰わない。これが当時に自分らが出した答えのはずである。しかし、国はそれを言えない。国民の生活を保証しなければならないのは、どこの普通国家でも憲法が陳べるところだから。でも、今更、消費税増税と言う手段は取れない。十数年前であれば、まだ経済的余力も十分にあったが、今からでは無理である。今、年金を大いに圧迫している、そして、これからも圧迫していく世代が、物の見事に、没落させたからである。バブルが崩壊して二十年、その後、一度も自力で経済を瞬間的にも浮揚させた事が無い世代である。その時に生まれた子供が、成人式を向かえる。これを以って、好景気を知らない世代と言うが、僕だってそうである。既に生まれていたが、景気がどうのこうのと言う年齢には、程遠い歳だった。この時の好景気に浴した年だというのは、当時の大学生くらいまでであろう。それ以下は、好景気を感じられた人は、一握りと思われる。となれば、二十年を下って、今の四十より下の人間は、好景気に浴していなかったと言える。つまり、その好景気を知らない世代が、男であれば、平均寿命の半分を過ぎた年齢にまで達してしまったのである。これは何と言う事であろうか!それはさて置き、増税は言ったら負ける。そうなるように、何十年も掛けて、言を以って商売を為す人が作り上げてきたのである。何のため?延々とこれをネタにして食っていくため。今の主流は、国会議員や公務員の数を減らして自らを削ってからだ、と言ったところ。聞きたい。その余剰金で、問題が解決しなかったら、どうする?と。いや、100%解決しないよ。だから、前以って聞きたいのだ。言を以って商売を為す人が、目の前でリンチを喰らって死に瀕しているとしても、僕はそれに加わりはしないが、助けもしないだろう。この時の情況に合わせて換えるのであれば、「見而不為,是其不忠」となるであろうが、それで構わない。それは「忠」とする対象ではないから。





「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その十五

  長々と崔浩の列傳に沿って陳べてきたが、表題とした語は、言によっては崔浩を我が世の春に導きもしたが、書によっては崔浩を死に導きもした。だが、知った事を言わなければ不忠であるように、知った事を記さなければ、やはり、それも不忠なのである。言であれば、採用されるか否か、その場で終わってしまう事だが、書は残ってしまう。その場にいなかった人も、後から見る事が出来てしまう。その差が、栄達と死とを分けたと言える。それを考慮せずに行えたのは、第一段で記された崔浩の性質が、その根底にある。「其砥直任時,不為窮通改節」である。職務にあっては、己の節を曲げない、そんな性質である。確かに素晴らしい態度ではあるが、その節がどのようであったかが問題となる。問題のある節を有した人物が、その節を曲げないとなれば、周りから見れば危うい人になる。そして、崔浩はその危うい節の持ち主であった。「その十四」で述べた高允の言に見える。崔浩は、公明正大な性質ではなかった。そして、皇帝の寵を一身に受けている事も分かっており、そのため、自らに災厄が降り掛かってくる事は無いと、高を括っていたのも事実である。『資治通鑑』に、崔浩の処刑直前の様子が記されている。「於是召浩前,臨死之。浩惶惑不能對」と。確たる信念の下に記し、それによって処される人の態度ではない。


  それはともかく、崔浩のこの言葉、「知而不言,是其不忠」とは、いかなる職務にある人であっても、有していなければならないものと言える。「忠」とは、この時代であれば、君主に対してのものであるが、今の世にあって、それが何に対してであるかは、人それぞれであっていい。裏切れない、裏切りたくないと言う対象とでも言い換えようか。また「若實不知,是其無術」とあり、これで逃げ場を失わせている。言わなければ不忠であって、知らなければ能力が無い、と言うのであるから。不忠の烙印と無能の烙印、どっちがいいか。どちらもいいわけが無い。ならば、言うしかないよな?と言う論法である。


  しかし、知ったからと言って、誰でも彼でも言い得るわけではない。その理由は、それを知った人の能力にある。この言を向けた人物、張淵は、長年に渡って太史と言う職務を預かっており、また、周りから能力を有していると評されていた人物であった。それは皇帝に進言できる立場にある人物であり、だからこそ否定するのに「不忠」と言う語が用いられたのである。その張淵の言を、崔浩は「志意淺近,牽於小數,不達大體」によるものであったと言った。つまり、いわゆる「口先」によるものであると言っているのである。「知而不言」を肯定文に変換すれば「知而言」となるが、「知而言」するためには「達大體」でなければならないのである。そして、「知而言」の動機が「不為窮通(窮通の為にせず)」でなければならない。己の立身出世のためであれば、「忠」の対象が自分と言う事になってしまいかねない。また、そのためには、都合の悪い事は「不言」とする事は、当たり前の手段である。




「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その十四

  以下は、『資治通鑑』からのものである。




  崔浩が収監されると、太子の拓跋晃が、入朝の前日に高允を呼び寄せ、その翌日、共に世祖の下へと赴いている。入室する前、何があっても自分と同じ事を言うよう、拓跋晃は高允に言い含めている。拓跋晃は、何とかして、高允の助命しようとしたのである。拓跋晃は、崔浩に全ての罪を引っ被ってもらうよう、言をなした。しかし、世祖がその真偽を高允に問うと、高允はこれと全く反対の事を言い始めた。


太祖の記述は、前著作郎であった鄧淵が作した。先帝と今上の記述は、私と崔浩が共に作した。しかし、崔浩はやらなければならない事が多かったため、総裁しただけである。実際の著述は、私が殆どやった。


と、拓跋晃の取り成しを無にする発言をした。この言葉に世祖は、「高允の罪は崔浩より酷いではないか。どうして生かしておれようか」と死刑にしようとした。そのため拓跋晃が、「高允は気が動転してしまって、変な事を言っているだけだ」と弁解したが、これも高允は否定している。この態度に感じ入った世祖は、「臨死不易辭,信也。為臣不欺君,貞也」と評価して、高允を赦す事にした。結果として、高允は命が助かったが、それは望んだ事ではなかった。望んだのは、崔浩の刑が死から一等でも減じられるようにしたかったのである。


  しかし、これは功を奏しなかった。世祖は崔浩の処刑を前に、その旨の詔を高允に書かせようとした。しかし、高允はこれに応じようとせず、世祖と面会した後に書くと申し出た。これが果たされると、ここでも高允は直言を止めなかった。「連座する者が多すぎる」と切り出した。『資治通鑑』にある所では、崔浩と僚属の宗欽、段承根に始まり、下は僮吏に至るまでの百二十八人に関して、その五族を誅殺しようとしたのでる。また、崔浩の助命である。「確かに觸犯したかもしれないが、それの罪は死に至らない」と言った。ここで言う触犯とは、崔浩の『國記』の編集方針であった、「務從實録」「備而不典」を指す。再びの直言に、世祖は激怒して、高允を捕らえさせた。ここでも拓跋晃の取り成しによって、助けられた。「この人がいなかったら、数千口を死に追いやるところだった」と言っている。『魏書』には、誅殺された一族が記されている。清河の崔氏は遠近によらず、范陽の盧氏、太原の郭氏、河東の柳氏である。いずれも崔浩と姻親関係にある。高允によって、その一族だけに留められたとも言える。


  処刑場である城南に送られる際、その檻の上に衛士数十人が上がって、上から放尿した。また、道からは止む事無く罵声が浴びせかけられたと言う。


  二度も世祖の怒りを買うような言を為した高允を、太子の拓跋晃は責めた。しかし、高允はこれにも反論する。


そも史官の使命とは、人主の善惡を記して、將来の勸戒とするためである。これによって、人主はこれによってその振る舞いを慎むようになるのだ。


と。これは、崔浩が進言するに当たって經史から引用したが、これが正に歴史書の意味である事が分かる。続いて、話は崔浩個人について移る。


崔浩は聖恩を一身に受けていたのをいい事に、私欲のままに廉潔を失い、愛憎によって公正さを失ってしまった。これに関しては、崔浩は責められるべきである。


と。崔浩の朝廷でのあり方に、問題があった事が分かる。しかし、それはそれで裁かれるべきであるが、これは個人の問題である。その職務における問題ではない。そして、そこに話を向ける。


朝廷の起居を書すに当たって、國家の得失について述べたが、これは史官の本文であって、これを大罪としてはならない。


と。今で言えば、言論の自由と言ったところであろうか。更に言を継いで、崔浩が罪されるのであれば、自分も罪されるべきであると結んでいる。処刑が実行された同月、世祖はその事を悔んでいる。『魏書』を編纂した史臣も、崔浩の列傳の最後、史臣曰の中で「何斯人而遭斯酷,悲夫!」と述べている。