「名前は誰のもの?」
これらを何と呼ぶだろうか。猫、cat、mao、など国により言語により、それぞれの呼び名がある。しかし、それらが全く違っていたとしても、上の画像に写っている存在を指している事に変わりは無い。この存在に名前を付けるにしても、トラであったり、タイガーであったり、果ては、イッパイアッテナであったりするが、どれも、その一個体を指している。ここからすれば、名前とは呼ばれる側のモノではなく、呼ぶ側のモノと言える。
僕が街中を歩いていても、知り合いにでも出くわさない限り、名前を呼ばれる事も、知られる事も無い。その場にいたと言う事も、自分一人の記憶の中にしか残らない。防犯カメラに映っていたとしても、何も起こさなければ、何も起こらなければ、一定の期間が経過すれば、それは消去される。店に入っても、メンバーカードを作ったり、クレジットカードを使用しなければ、個人を特定した形での購入記録は残らない。いつ、どこで、何を買ったかを記録していなければ、当の本人の記憶にも残らないだろう。つまり、日常生活とは、匿名の存在として活動している事とも言える。
では、事あるごとに、匿名の存在と言われるネットは、どうであろうか。どこそこに、いつ、誰がアクセスしたと言う「足跡」が残される。つまり、現実世界のように、誰知られぬように、ぷらぷらする事は出来ないのである。
Blogや掲示板、サイトなどは、実名で行うべきとする人がいる。しかし、ネット上の実名は、イコールで匿名ではない、顕名であると言う事にはならない。ネット上の実名は、実名として登録した名前と言う事に過ぎないからである。登録の時点で、虚偽の登録をしてしまえば、それがネット上の「実名」になってしまう。Blogやサイトであれば、ここでは/takemanma/であるが、これが「実名」になる。また、「たけまんま」が実名になる。当然に、僕にも戸籍にある「何の誰それ」と言う実名があるが、そのいずれもが僕を指している。つまり、「たけまんま」とは匿名ではない。かと言って、「実名」でもない。僕と言う存在の呼び名の一つ、イッパイアッテナの一つである。
人は場面場面で、様々な面を見せる、出す。そして、その場その場において、呼ばれ方も変わってくる。苗字、名前、さん付け、君付け、ニックネーム、仲間内だけで通じる特殊な呼び名。その場で見せている面に応じて、呼ばれる事もある。しかし、ネット上の呼び名は、それぞれが登録するものである。呼び名は、現実社会では受動であるが、ネット上では能動である。一つに統一する人もいれば、そこを運営するに適当なキャラクターを分離して、てきとーな名を付けて、複数をこなす人もいるだろう。どれも、結果として、同一の存在を指すのだから、「実名」としても問題無いだろう。
アカウント名について。「たけまんま」だから「takemamma」としなければならない。どう言う表記理由なのかは分からないけど、これが正解。ただ「まんま」には、まんま、つまりご飯と言う意味と、そのまんまと言う二重の意味を掛けています。「mamma」だと前者しか想起されないから、わざとずらすために、「manma」としたのです。
このように、個人を特定できないアカウント名でも、書いている内容や、添付した画像によって、個人が特定される事もあるのです。現実社会のように、見知らぬ土地に行けば、その土地は見知らぬ人だけで構成されているとは限りません。同じクラスの誰々さんが、実はそこにいるかもしれません。それによって、実際の「実名」が知られてしまう可能性もあるのです。また、Blogにしろ何にしろ、closedの環境を設定できます。しかし、現実社会と同じで、その内部の人間が情報を漏らしたら、どうにもなりません。このような事で問題が起きたとか起きなかったとか。元々、こんな事を書こうとは思っていたのですが、それを今回にしたのは、それが理由の一つだったりします。
出せる情報の限界値は、間違ったら大変です。どんなに名前を変えても、指している人物は、その人一人なんです。
「この国における匿名性の言論について」改
これは、2002年07月09日に書いたものを、一部修正改変したものです。
インターネットの利用者の数が増加し続けている。ここ二、三年で、ネットの接続料金が常時接続と言う形態でも、飛躍的に値下がりしたからである。僕も、これを理由の一つに、ネットを始めた人間である。ネットは多くの情報を、部屋にいながらに得ることが出来る。また、こちらから発信する事も出来る。ただ、ネットには最大の利点にして、最大の弱点がある。自分が望んだ、言い換えれば検索を掛けた、情報以外を、手に入れる事が出来ないと言う事である。直接的にその情報を得たいのであれば、これ程に便利なツールは他に無い。書店や図書館で探すとなると、それなりの労力が必要になる。ただ、それがネット上に無ければ、この手作業になる。直接的に情報を得ようとしてない場合、言い換えれば、何かいいのがないかな?と本を見て回っているような感じで使おうとしたら、大変になってくる。見て回る事が出来る程度の数なら、気合と根性で何とかなるかもしれないが、実際問題として、10件のページを見るのも、内容によっては辛い事がある。その数が、百、千、万ともなれば、発狂してしまうだろう。
こう言う場合に重宝するのが、掲示板であろう。よほど特殊な内容でもない限り、存在するだろう。ここを上手く利用すれば、それなりに情報量を圧縮、軽量化する事が出来る。ただ、掲示板によっては、匿名性の高いものも存在する。また、書き込みの真偽も定かではない。そこに問題が発生する。誰が書き込んだか分からない、内容の正不正が入り混じったものであると言うことを利用して、特定の人物や会社などを、不当に卑しめる書き込みをする人間が出てくると言う問題である。そして、この問題は、その増加を避けられないものとなろう。マスコミは、この問題に対して、警鐘を鳴らしている。「匿名での卑怯な行動」と言うのが、その根底にあるように思える。確かにそうなのだが、この事について、マスコミと日本人の二つの観点から見てみたい。
掲示板に書き込んだり、また、それらを読む事は、殆どの場合で無料である。この世の中でタダほど高いものはない、とはよく聞く言葉である。「情報」と言うものは、その精度を求めれば求めるほど、値段の高くなるものである。およそタダで手に入れられるものではない。それをタダで手に入れようとしているのだから、精度なり真偽なりに対して、そう言うものだと言うリスクを背負わなければいけない。これは大前提である。翻ってマスコミを見てみよう。マスコミから情報を得るには、お金が掛かる。新聞、雑誌は直接的に、テレビはCMを見るなど間接的にお金が掛かっている。つまり、掲示板とは対極に位置していると言える。と言うことは、そこにある情報は、前者と違って、精度の高さ、確からしさの高さを、お金で買っていると言う事である。さて、これは真か。是非を問うまでも無く、偽である。代金を徴収しておきながら、確からしさの低い情報を流していると言う点から見れば、どちらがより低い位置にいるかが分かると思う。
また、匿名性についての問題であるが、掲示板に限らず、ネット上の個人情報など、いくらでも偽れる。存在しない架空の人物を創ったとしても、第三者の名前を騙ったとしても、実際にこの事の裏付けを取るのは、困難を極めるだろう。そうであるからネットは怖い、と言う人がいたとすれば、その人は世間知らずと言わざるを得ない。あなたの隣にいる人が、本当にその人なのか、容易には判別できない。金さえ積めば、殆どのモノが買えてしまうとも言われる世にあって、その個人を証明する一切の書類は、例えそれが戸籍であったとしても、無意味と言えるかもしれない。また、初めて会う人であれば、第三者になりすます事も出来る。人間だけでなく、会社、団体についても同様である。だから社会は怖い、と言う人がいるだろうか。皆無であろう。今までの社会にあった事が、新しく社会の一部となったネットにも現れた、ただそれだけに過ぎないのである。
本題である、匿名性の言論についてである。マスコミは匿名性の言論について、どうこう言える立場に無い。なぜなら、マスコミこそが、匿名性の言論そのものだからである。新聞の記事で署名入りのものが、どれほどあろうか。署名を目にするのは、外部の人間の文章や、文化欄くらいである。社説や、一面のコラムでは、ペンネームまがいの記号はあるが、署名入りのものなど、ほぼ目にする事は無い。社会に対して、しかも金間で取って、意見を述べようと言うからには、自分の名前を明記するのは、当たり前すぎるほど当たり前のことである。個人に過大な責任を背負わせる事によって萎縮してしまい、書きたい事が書けなくなるのを、会社側が考慮しての配慮なのだろうか。だとしたら、お笑いである。言論の自由やジャーナリズムを謳っているなら、「責任を負う」と言う事は、大前提である。この大前提を諒解できないのであれば、即刻辞めるべきである。また、社説や一面コラムなどは、新人や若手が書いているわけではない。論説員など長年のキャリアを積んだ人間である。そんな人間が、責任も取らずに、のうのうとしていられるだろうか。個人に過大な責任を負わせたくないと言うのであれば、会社が責任を負うのかと言えば、そんな事は無い。マスコミが自らの非、明らかかな間違いについて、謝罪する事はおろか、公式に認める事すら稀有である。仮に認めたとしても、謝罪訂正文は、ベタ記事並みかそれ以下の、紙面の隅々まで読む人以外には目の触れない扱い方をしている。他社、異業種で間違いが発生すれば、それこそ鬼の首でも取ったように扱い、そのあおりを受けて、その会社が倒産してでもやり抜くのに、自らの事となるとこれである。今まで新聞を見てきたが、テレビについても然りである。新聞同様、発言者の責任の所在が、不明確なのである。そして、その結果、誰も責任を負わなくてもいいと言う、まっこと好都合なシステムが構築されているのである。ネットの掲示板と同様か、それ以上に無責任な体質と言えまいか。
続いて第二の観点である。匿名性の言論と日本人の性質に移る。日本人は、権威主義が強い傾向にあると言う。だから、権威のある人間の発言を、無批判に受け入れてしまいがちである。この事から言えるのは、つまり、内容を有り難がっているのではなく、発言者そのものを有り難がっているのである。だから、前職が何々だったからと言うだけで、紙面や画面に出てこられるのである。内容を聞けば、陳腐な内容の事もあるのだが、どうにもその事に気付けていない。もし、権威者が、国家謀略を目論む人間であったり、軍事拡大を極度に望む人間であった場合、簡単にこの国の人間は流されそうで、一抹の不安を感じずにはいられない。この権威主義への盲目に歯止めを掛けるには、匿名性の言論が最良である。ここにおいては、発言者は当然に分からない。判断材料は、その内容しかない。権威と言うめくらましが通用しなくなる。こうなった時に、果たして内容だけで生き残れる権威者は、どれくらいいるであろうか。現実的には無理と思われるが、想像してみるとけっこう楽しい。
匿名性の言論について長々と書いてきたが、「匿名での卑怯な言論」を批難していたマスコミが、一番匿名性が高く、かつ無責任な体質である事は、陳べられたかもしれない。だからと言って、ネットおよび掲示板を持ち上げるつもりはない。ただ、有料か無料かと言う視点から見れば、どちらがより低い位置にいるかと言うだけである。
この後で書こうとしている内容のため、稚拙ながらも、この点について触れておいた方がいいかな、と思って、これを書いてみた。匿名だから大丈夫なんてことは無い。書いた時の前後に、ネットカフェからの書き込みでも、逮捕者が出たと言うニュースが流れていたと思う。そんなことを交えながら、書こうと思っているネタがある。
それにしても、かなり内容が稚拙。それはしょうがないにして、ネットにおける情報が、この頃は少なかったんだなあ、と思い出した。いまなら、もっと簡単に情報を収集できる情況にはある。でも、ネットにそれが上がっていなければ、結局、図書館にでも行かないといけない。中国古典を下敷きにして何回か書いているけど、それはネット上に公開されているから。そう言う意味では、日本における古典や文献の集約と、その公開が遅い。地震やらの災害の情報も、文献などに見い出されるが、大学などの研究者以外は触れられない情況にあっては、どうなんだろう?と思う。二段目は、本文と関係ない後記。
「稼ぐと儲けるの違い」
「貝」を意符として、金銭・財貨や、それらに関わる行為、状態などに関する文字が出来ている。
上記は『漢語林』における「貝」の部首の解説である。これは、辞典に当たるまでも無い、一般的な知識である。しかし、「かせぐ」、「もうける」の意味に該当する感じは見当たらない。日本ではそれぞれに「稼」、「儲」が当てられている。それぞれを、『漢語林』で調べてみる。
「稼」-「禾+家(音)」
音符の「家」は「嫁」に通じ、うつし植えるを意味する。稲をうつし植える農事の意味。また、農作業の結果、実った稲の意味。
・うえる(植)。穀物をうえる。また、うえつけ、耕作、農事。
・みのり、実った稲の穂。
「儲」-「人+諸(音)」
音符の「諸」は「貯」に通じ、たくわえておくの意味。「人」を付し、あとつぎとして備えておく人。太子の意味。
・そなえる、たくわえる。また、備え、蓄え。
・そえ(副)、控え。
・もうけのきみ。皇太子。世継ぎの君。
上記からも分かるように、「稼」には「かせぐ」の意味が、「儲」には「もうける」の意味が無い。どちらも、日本で意味が付与された、国訓なのである。それぞれに漢字を当てるに当たって、その意味が連想される意味、語感が含まれているものが選ばれたのであろう。その一例を挙げてみる。「咲」と言う感じがあるが、この感じの音読みを知っている人は、どれだけいるであろうか。「しょう」と読む。これは、いずれの漢和辞典を調べてもらっても、同様の内容が書かれていると思うが、「咲」とは「笑」の古字なのである。つまり、「咲」は「わらう」の意味なのでる。確かにそちら方面を意味する事は、部首の「口」から窺える。「咲」には、つまり、「笑」には、現代中国語にも「さく」と言う意味は無く、日本で付与された意味である事が分かる。しかし、何故に「咲」が当てられたのであろうか。花ないし木に関わる事象なのだから、草冠や木扁の漢字が当てられるのではと考えるのが、普通ではなかろうか。この漢字を当てようと考えた人は、「花がさく」と言う現象を、「花が笑っている」とイメージしたのかもしれない。または、「花がさく」と言う事を、「花がほころぶ」とも言う事からの連想かもしれない。「ほころぶ」は漢字で書けば「綻」であり、現古ともに「つぼみが開きかける」と言う意味を有している。「ほころぶ」には、日本語では「ほほえむ、わらう」の意味がある。ここから、「わらう」と「さく」が繋がって、しかし、「笑」を当てると、いろいろと面倒になるとして、異体字である「咲」が当てられたのかもしれない。「わらう」と「さく」が繋がって事により、一見すると全く読めない「咲」一字の女優の読みが、あのように読めるのであろう。
国訓を与えるに当たっての漢字は、このように連想ゲームのような場合もあると思われる。では何故、「かせぐ」に「稼」、「もうける」に「儲」が当てられたのかを考えてみる。部首が「禾」と「人」と全く違う事から、お金に関する事ながら、全く違う概念であると考えられる。まず「稼」から考えてみる事にする。元々意味するところは、前述している。部首の「禾」は、「収穫」の概念が含まれている。「実った稲を収穫する」ことを、日本人は「かせぐ」としたのであろう。農事であるから、季節が巡れば、また繰り返される。つまり「かせぐ」とは、連続性、継続性のある行為を指すと言う事である。では「儲」はどうであろうか。前述では「皇太子」としかないが、日本では「子供をもうける」と言う時、意味を拡張して、この漢字を当てている。「子供をもうける」と言う事は、連続性も継続性も無い。確かに、子供を生んで少し経てば、また子供を生める状態に女性はなるが、それを毎年のように繰り返すのは、有り得ない話である。元々が子供ではなく「皇太子」なのだから、極論すれば、一人の男子が生まれた時点で、それ以上の子は必要無いのである。どちらにしろ、一人が生まれた時点で、それは流れが一度断絶されるものである。「もうける」は、「皇太子」を得るような大きい利益を得る事であり、一回こっきりの行為であると考えたのではないだろうか。しかも、生まれたのが女子であれば皇太子になれないわけであり、また、流産や死産であれば、何も得られない。つまり、「all or nothing」の博打的要素をその概念に含ませようとして、「儲」が見い出されたのかもしれない。
