「一流を見る意味」
「一流の物を見ろ」とは、よく聞く言葉である。それは、映画でも絵画、美術品でも、対象は何でもいい。これによって、物を見る「眼」が培われるのだと言う。その一流の物とは、どのような物であろうか。時の流れ、移ろいに消されず、残っている物である。何故に価値があるのか、どこに価値があるのか、古えの人が判断を下している物である。これは、逆に言えば、現代に至るまでに一流と言う価値が確定してしまい、これを否定し得ない物である。どのような視点で見て、どう評論すればいっかも確定していると言う事である。これさえ言っていれば、見る「眼」を持っていると思わせる術が、完成していると言う事である。こうなってしまうと、学校のテストのために勉強しているのと同じである。正解が決められた問題に対するのと、同じ行動を取っているのに過ぎない。答えと問題がワンセットなのは、行っても高校レベルが精一杯である。つまり、一流の物を見る意味は、物を見る「眼」を培うためではない。その意味とは、今、生み出されている「一流」を見つけるためである。見る「眼」を培う事は、そのための手段に過ぎないのである。
今、生み出されている一流を見つけるためには、過去の一流の物と同じ対し方、見方では、自ずと限界が来る。価値や見方は、時によって変化し、加えられていくものであり、今の一流には、新味(しんあじ)が付加されていて然るべきである。しかし、その新味が見抜かれなければ、「一流」の評価を得られないどころか、低評価のまま製作者の人生が終わってしまう事もある。これは、絵画の分野で聞かれた話である。死後に、その新味、価値を見抜く人が出現し、忽ちに価値、評価が高騰した人もいる。「一流」とは、それを生み出す能力だけでなく、それを見抜く能力を持った人が対になって、初めて完成を見ると言う事である。それに巡り合えた製作者は、その生み出す能力を賦与された以上に、幸運の持ち主なのかもしれない。
しかし、今、生み出されていると言う事は、古えのからとは違って、価値、評価の賛否が分かれていて、不確定な状態に置かれていると言う事である。それを賛に確定するよう持っていくためには、古えの一流を見る事によって、身に着けた見る「眼」と、自分の視点を以って評価しなければならない。賛と確定されるための論立て、加えて弁舌が必要になる。言うなれば、大学学部、学士レベルである。
だが、これは労力の掛かる事である。確定した過去を礼讃し、現代を否定する方が、遥かに楽である。ともすれば、こちらの方が、物の見方の「眼」を持っていると見做される。年を取ってくると、新しい物を取り入れる能力も老衰していく。新しい物は、時々刻々と生み出されている。それを追っていくよりも、過去の偉大な物に依拠、それを笠に着て現代を否定していくのだから、虎の威を借る狐のようであり、本当に楽である。また、賛否の不確定な物を賛とし、後に否、一流ではないとされた時、恥をかいてしまいかねない。だから、不確定は否として、自らを守ろうとするのである。自らの意思(賛)を隠して、否と言う責任を取らなくてもよい位置を確保するのである。賛は常に賛であるかの評価に晒されるが、否とされた物は、それ以上は評価に晒される事は無い。否定文は作者の陳べたい事ではないとは、小学校レベルの国語である。作者の意見は、否定文の後、逆接の接続詞の後ろにくるのは、当然の事である。だから、不確定を否とするだけでは、責任回避論、逃避論、更に言えば、自己敗北論である。
この時の否は、自分の賛とするところ、一流と判断する物があって、それに類しないが故の否でなければならない。辛い物が好きな人に、甘い物を勧めたところで、受け入れられないのは当たり前である。つまり、自分が一流と判断する物を挙げる事によって、その否とする理由付けをしなければならないのだ。これをしない否は、否定のための否定であって、馬鹿の物言いである。
さて、本文中、( )付きで読みを記したけど、「しんみ」と入れると、第一候補に「親身」と出てきて、そのたびに変換するのが面倒だからです。「新味」が第一候補に上がってきても、たまに「親身」が上がってきたりする。でも、もう「新味」が第一候補になっていると思い込んで指を動かすから、その度に苛立つのが嫌だから、一つしか候補の無い「しんあじ」で変換した方が楽。そのため、自分が書いている時のリズムが、「しんみ」ではなく「しんあじ」になっているため、それを示したくて。また、「いにしえ」も「古」の一字で済むけど、「古」の一字だと何となく変な感じに見えるので、「え」を送っています。
下書きの段階では、物だけでなく、者、つまり、人についても書いたんですが、そちらは本文としては採用しませんでした。そのため、表題も変えています。当初の表題は「一流のもの(物、者)を見る意味」でした。書かずにおいても問題無いけど、書かないままにしても、これ以上の利用法が無いので、以下に示します。書かない事にした理由は、意味不明になってしまったからに他なりません。
ここまで物を見てきたが、者、つまり、人ではどうであろうか。物は製造されてしまえば、それ以上の変化が生じないが、人は時によって変わり、場所や情況によって変えるもので、その人そのもの、総合評価としての判断を下す事は出来ない。だから、ある点について焦点を当てて、その点においてのみの評価と言う事になる。結果を出している人、つまり、出し続けている人が、その焦点における一流と言う事になる。となれば、結果を出し始めた人、結果に繋がる何かを見い出した人は、未だ一流ならざる者、未一流と言える。
しかし、結果が二、三で止まったり、見い出した物事を成功と言う結果に繋げられなければ、未一流からも外れてしまう。その前段階で、その人を未一流と判断していた人がいたとすれば、その人は見る「眼」が無いと言う事になる。当然だが、続いている、成功したとなれば、見る「眼」があると言う事になる。だろうか?スポーツのように、数字で結果が出てきて、それが単年でリセットされるものであれば、結果を出し続けている事は、誰の眼にも分かる事である。一つの事でのものだから、他者との比較も容易である。つまり、誰が見ても、一流と言えるのである。しかし、スポーツ以外では判断が難しい。役職が上がって、直接に関われなくなる場合もある。普通の人であれば、定年と言う限界があるが、結果、成功を出す人となれば、定年後も継続してその位置が用意されていたり、フリーランスともなれば、それこそ死ぬまで続けられもしよう。つまり、ここまで続ける事が出来て、ようやく一流と呼んでもいい存在になるのではないだろうか。ここに至らなければ、未一流かそれ以下にとどまっていると言う事になろうか。
若くして大きい結果を挙げても、それが終焉に向かって続けていけなければ、それは一流とは呼べない。これでは、歌手で言うところの一発屋や、まぐれ当たりでしかない。一流のスポーツ選手が、一流としての結果を出せなくなれば、引退となる。これと同じように、一流とは結果の大きさだけでなく、その継続性が重要になる。当然に大きさも重要で、小さいのを継続して言っても、それは未一流には到達できても、一流とは呼べない。継続性の結果となれば、その判断が下されるのは晩期になってからの事となり、意味合いに違いはあるが、「一流」の呼称は大器晩成に似ている。
これでも、意味不明が過ぎる部分は削除したり、少しは手直しをしていますが、これがその限界です。いずれの日にか、手直しを加えて、「者」の部分を読める程度にまでしたいとは思っています。ただ、予定は未定。
「会議は煮詰まる」
「煮詰まる」は、少し前の話題ではあるが、誤用の代表例として挙げられた語の一つである。誤用を生んだ原因は、「詰」にあると思われる。「詰」は「塞がる」、「つかえる」と言った概念を含んでいる。そのため、話や会議が行き詰まってしまう、と言う認識を生じさせたのであろう。しかし、これが誤用ではなく、ちゃんとした、通じる後である事を陳べていく。
「煮詰まる」の辞書の意味を見ていく
・よく煮えて水分が無くなる。
・意見など十分に検討され、問題が解決の段階に近づく。
前者の派生義が後者であり、誤用義とは全く逆である事が分かる。辞書にもよるだろうが、この前項目が「煮詰める」である。こちらの意味も見てみる。
・水分が無くなるまで十分に煮る。
・物事を十分検討しあって、結論が出せる段階にする。
両語の水分の対し方から、「煮詰める」は能動的であり、「煮詰まる」は受動的と見做せる。つまり、煮詰めた結果、煮詰まるのである。当たり前であるが、これが重要な見方である。
料理をしていて、あまり起こる事ではないが、火に掛けっ放しで、意せずして煮詰まってしまう事がある。意せざる部分を、いくつか挙げてみる。
・具材にまだ火が通っていない、固い。
・味付けがまだ終わっていない。(調味料を入れ終えていない。味が中まで染みていない)
・水を蒸発させてしまう。
前者は水(湯)を注ぎ足せばいいだけである。中者は少々面倒である。煮物や煮詰め物は、分量にそこまでの厳密さが求められないので、水や出汁を注ぎ足していけば済む事には済むが、その足す分は、これまでの調味分がどれくらいになっているかの判断が難しいところである。後者は、煮詰める料理じゃないのに水分を飛ばしてしまったなど、初心者でもなかなかやらないような失敗である。
このような意せざる部分が、話や会議でも起こり得る。会議とは、料理で言えば、火に掛けているのと同じ工程である。水分を煮詰める間に、結論に至らせなければならない。ここで言う水分は、時間であったり集中力であったり、である。しかし、いつもそうなるとは限らない。不活発な議論、展開で、時間だけがいたずらに流れ、流動性、円滑性が失われてしまう事だってある。これは、水分が無くなった、煮詰まった状態と見做せるのではないか。つまり、煮詰まる事が、「話が行き詰まった」としてもいいのではないか。「煮詰まる」が「意見が集約されつつある」と言う派生義となるには、煮詰めた結果の煮詰まりと言う展開でなければならない。水分が無くなるまで煮たからと言っても、それがイコールで完成とは限らない。つまり、「煮詰まる」と言う語だけから、その意味を判断する事は出来ないと言う事である。
煮詰まりの改善方法を考えてみる。料理の味付けは、答え、ゴールが決まっているのだから、そこに近づけていけばいい。と言っても、煮物の場合は、調味料の順番があるから、所謂さしすせそ、後足しが難しくはある。話や会議は、ゴールの見えない議題のものや、正にそのゴールを決めるためのものがあり、どうしても行き詰まる事がある。ではどうしたらいいのか?と考える。本文で、水分を時間や集中力に喩えたが、とりあえずでこれを回復させる事が第一になると思われる。ただ、時間を延ばしても、それまでと同じ事が繰り返されるだけ。だから、集中力を回復させる事が求められる。となると、単純に休憩を入れる、と言う結論に達する。この中断を入れる時の言葉が、「話が煮詰まってきたので」である。煮詰めていないのに、意せずして煮詰まってしまった、と言う状態。
誤用が生まれた原因を考えるのは、そこそこ楽しい。そして、、それが本当に派生義にならないのか、また、援用できないのかを考えると、通りそうなのがそこそこ出てくる。今、辞書に載っている意味と違うから誤用である、由来から外れているので誤用である、と言うけれど、辞書に載っている派生義がおかしいのではないか?と言う疑問を覚える語もある。「先ず隗より始めよ」は、その典故を知れば、とても「言い出した人間が始める」の意味で取る事は出来ないと分かる。この語の話者が、誰あろうその隗、つまり、郭隗だから。話の流れをさらっと書くと、王に求賢の方法を問われた郭隗が、「ならばこの隗を手始めに採用されませ」と答えた。これが「先從隗始」の典故。「言い出した人間が始める」とはまったく別義である事が分かる。これは『戰國策』「燕一」に載っている話で、以下にその原文を引用します。
昭王曰:「寡人將誰朝而可?」郭隗先生曰:「臣聞古之君人,有以千金求千里馬者,三年不能得.涓人言於君曰:『請求之.』君遣之.三月得千里馬,馬已死,買其首五百金,反以報君.君大怒曰:『所求者生馬,安事死馬而捐五百金?』涓人對曰:『死馬且買之五百金,況生馬乎?天下必以王為能市馬,馬今至矣.』於是不能期年,千里之馬至者三.今王誠欲致士,先從隗始;隗且見事,況賢於隗者乎?豈遠千里哉?」
誰もが目にした事のある部分だと分かりますね。「死馬且買之五百金,況生馬乎?」の部分です。況や構文の用例として、これが用いられるのが一般的だと思います。ここで見られる二つの郭隗の説くところは、求めるものがあれば、その一段下をしっかりと対処しなさい、と言う組織論に他なりません。
「前例に従え、伝統を捨てよ」
前例主義とは、常に批難されるものである。つまり、前例に無い事はしないから、と言うのがお決まりの文句である。しかし、これは全くのでたらめである。企業、組織における、最も古い前例を考えれば分かる。最も古い前例とは、創業理念である。どこの創業理念にも、殆ど変わらない条項がある。
・今までに無い~。
・新たな価値の創造。
・変わる事を恐れるな。
企業、組織において、これ以外に前例は存在しないと言える。前述の「前例に無い事はしない」とは、企業、組織において、「何もしない」と言う事に他ならない。
前例と同じ語感でありながら、ありがたがられているのが、「伝統」である。伝統に含まれる概念には、「昔からの風俗、習慣、思想などを受け継ぐ」である。つまり、しきたり、つまりは、慣例である。慣例とは、「例に慣れる、慣らう」である。ここで言う「例」とは、「いつも行われていること」である。それが、前例を踏襲されたものであればいいが、そうでなかったらば、前例が断絶されてしまう事になる。また、伝統には、厄介な言葉が付きまとう。それは、「守らなければいけないもの、変えてはいけないもの」である。
つまり、前例と伝統は、相反する概念と言う事である。しかし、年月が経つにつれ、前例がいわゆる前例に摩り替えられてしまい、そして、更に年月が経つと、これが伝統に祭り上げられるのである。ここに至るまで、三世代しか掛からない。第一世代は、創業集団である。理念を掲げ、そこに向かっていく世代である。第二世代は、この創業集団に憧れを抱いて入ってくる世代である。しかし、第三世代は、全くの別種である。あまたある企業の中から、その一つとして選んでいるに過ぎないのである。面接が進んで、第一世代、第二世代の重役と相対した時、「理念に憧れて」などを口にするであろうが、それは言う側も言われる側も、はいはいそうですね、と言う定型文でしかない。このように、一企業として入ってきているのであるから、前例をそこまで重視せず、当たり障りの無いようにと、伝統を重視する。
しかし、この世代に、前例を継承していかなければならない第一世代は、現場にいる人もいるであろうが、その役職、立場からして、直に教える事は難しい。教えるのは、第二世代と言う事になる。この世代は、前述の通り、憧れて、望んで、求めて入ってきた世代である。だから、自ら取り込もう、学ぼうとするのは、当たり前である。だものだから、勘違いを起こし、前例を継承させられずに、断絶させてしまう可能性のある世代でもある。その原因は、温度差にある。憧れて入った人と、選択肢の一つして入った人では、差があって当然である。しかし、世代論において、下の世代は、常にいちゃもんを付けられる立場に置かれる。そして、上の世代は、自分らがどうであったかを検証される恐れが無いから、いくらでも自分を偽れるのである。曰く、俺は昔悪かった、の類からも見えてくる。だが、温度差があったとしても、そのスタートの時点では、大して変わりは無いのである。
また、第一世代は、企業を発展させるためにも、存続させるためにも、育てなければと言う使命感に駆られ、実は、細かく指導しているのである。しかし、何も知らない段階の第二世代は、それに気づく由も無いままに、育っていくのである。強く教えようと言う立場と、強く教わりたいと言う立場の組み合わせであるから、その効果は大なるものとなる。しかし、第三世代は、強く教わりたいと言う立場に無い。また、教える立場の第二世代としても、教わったからと言って、教えられるようになっているわけではない。教えられない人間と、第三世代の組み合わせでは、効果は期待できない。だが、しかし、効果が無かった場合、喧嘩のように両成敗される事は無い。一方的に、下の世代が成敗される。この関係を、学校に置き換えてみる。成績が上がらなかった場合、批難されるのは教師の側である。教える側と教わる側で、成果が得られなければ、教える側に問題があると言うのは、当然である。では、何故、企業においては、逆になるのであろうか。学校は、お金を払っている側と貰っている側であり、企業はどちらも貰っている側だから、と言う答えが一般的なものであろう。これも全くの間違いである。その貰っている金額に多寡があろう。多の分は何か。下の世代の教育に対する手当ても、当然に含まれている。つまり、成敗されるのは、教える側と分かるであろう。教えられないのであれば、その多の分を返納、放棄して、また、下の世代に教える立場に当たってはいけないのである。
話が逸れてしまったが、第三世代に前例を伝えなければ、それが伝統に乗っ取られてしまい、いわゆる前例が継承される事になってしまう。人を育てるのは、自分が育てた人間が、次の世代を育てられるようになって、初めて完成を見るのである。
人類の歴史を見てもそうです。人類の文化的、文明的発展は、常に例に無い事をやってきた、その積み重ねによって築かれた結果です。しかし、いったん伝統が幅を利かせるようになると、それは止まる、ないし停滞しています。それが繰り返されてきていますが、果たして、今はどちらでしょう?
さて、生活としての伝統について述べたのではない事を、最後に付記します。