「知りて言わざるは不忠、素より知らざるは術無し」 その六
○は表示できない字です。最後に画像で示します。
神○二年(429、元嘉六年)の四月、世祖は蠕蠕を討伐すべく、その可否を議させた。蠕蠕とは、前述に出ているが、柔然の蠕蠕での呼称である。『資治通鑑』の注に、「杜佑曰:柔然,後魏太武以其無知,状類於蟲,故改其號曰蠕蠕。」とある。つまり、蔑称である。世祖の意する所は、当然に賛成を得る事にあったが、朝臣は乗り気ではなかった。ただ一人、賛成を表明したのが崔浩であった。そんな中にあって、保太后が強く反対した。保太后とは、世祖の乳母である。世祖の母である密后の杜氏は、世祖がまだ幼かった時に亡くなっており、竇氏が養育するよう命じられたのであった。その時の恩に報いるべく、始光二年(425、元嘉二年)の三月、世祖は竇氏に太后の尊号を加えたのである。保太后の「保」は、「保母」から取られたのではなかろうか。しかし、その保太后に反対されたからと言って、世祖は考えを変える気は無かった。反対派は、太史の張淵と徐辯に、世祖の翻意を試みさせた。この二人、元は北魏が滅ぼした夏の臣で、天文を司る太史に任じられていた。夏の國都であった統萬が陥落した時、この二人は捕えられたが、そのまま引き入れられ、そのまま同じく太史に任じられていた。専門の官職は得がたいものであり、生きて捕らえる事が出来たらば、強制的にでも自勢力に組み入れるであろう。文官のため、叛乱を起こしたり、暗殺を企てたりと言う心配も、ほぼ無い。また、専門官、文官であれば、自分の職務を保証してくれるのであれば、誰が主であるかを問わない者も多いであろう。一番嫌がるのは、研究の対象から外される、奪われる事である。さて、この二人は、その本職である天文の運行から、反対を論じていく。
今年は己巳(日本で言う「つちのと・み」)で、三陰の歳である。
歳星(木星)が月に掛かり、太白(金星)が西方にあるため、兵を挙げるべきではない。
北伐しても失敗する可能性が高く、勝ったとしても、上(皇帝)には利は無い。
と言うのであった。三陰を『資治通鑑』の注から説明する。干支の干、十干の内、甲、丙、戊、庚、壬を陽とし、乙、丁、己、辛、癸を陰とする。分かりやすく言うと、紀元後の西暦の末尾が、偶数なら陽、奇数なら陰である。甲が4、乙が5である。これを知っておくと、干支付きの歴史事象の末尾の年だけは分かる。それはさて置き、干支の支、十二支の内、支以子、寅、辰、午、申、戌が陽であり、丑、卯、巳、未、酉、亥が陰である。この十干十二支の組み合わせが干支(かんし)である。干が陰、支が陰、その組み合わせが陰である事から、三陰と言うのである。三陰の歳が、軍を挙げるべきではない理由は陳べられていない。これを聞いていた群臣は、この説得力を感じる言に勢いづき、その説得力を増させるために、張淵の過去の言の実績を挙げた。
張淵が若かりし頃、前秦の苻堅が南伐を起こそうとしたため、東晉の太元八年(383)の事であるが、これに反対した。しかし、苻堅はこれに従わなかったばかりに敗れてしまった。
と言い、「言するところ中(当)たらざる無く、違うべからず」と繋げ、「今、天意も群臣も反対しており、動くべきではない」と結んでいる。こうなると、さしもの世祖も迷いが生じてきた。重要度の増した天文を読み解き、また、前秦が滅亡へと転換していった南伐の失敗を見抜いていたと言う過去を提示されては、さもありなんと言うところである。しかし、世祖の意するところは蠕蠕討伐であり、ただ一人だけ賛成していた崔浩に、我が意を得るためにも、張淵らと議させた。
○は以下の字です。
神○二年(429、元嘉六年)の四月、世祖は蠕蠕を討伐すべく、その可否を議させた。蠕蠕とは、前述に出ているが、柔然の蠕蠕での呼称である。『資治通鑑』の注に、「杜佑曰:柔然,後魏太武以其無知,状類於蟲,故改其號曰蠕蠕。」とある。つまり、蔑称である。世祖の意する所は、当然に賛成を得る事にあったが、朝臣は乗り気ではなかった。ただ一人、賛成を表明したのが崔浩であった。そんな中にあって、保太后が強く反対した。保太后とは、世祖の乳母である。世祖の母である密后の杜氏は、世祖がまだ幼かった時に亡くなっており、竇氏が養育するよう命じられたのであった。その時の恩に報いるべく、始光二年(425、元嘉二年)の三月、世祖は竇氏に太后の尊号を加えたのである。保太后の「保」は、「保母」から取られたのではなかろうか。しかし、その保太后に反対されたからと言って、世祖は考えを変える気は無かった。反対派は、太史の張淵と徐辯に、世祖の翻意を試みさせた。この二人、元は北魏が滅ぼした夏の臣で、天文を司る太史に任じられていた。夏の國都であった統萬が陥落した時、この二人は捕えられたが、そのまま引き入れられ、そのまま同じく太史に任じられていた。専門の官職は得がたいものであり、生きて捕らえる事が出来たらば、強制的にでも自勢力に組み入れるであろう。文官のため、叛乱を起こしたり、暗殺を企てたりと言う心配も、ほぼ無い。また、専門官、文官であれば、自分の職務を保証してくれるのであれば、誰が主であるかを問わない者も多いであろう。一番嫌がるのは、研究の対象から外される、奪われる事である。さて、この二人は、その本職である天文の運行から、反対を論じていく。
今年は己巳(日本で言う「つちのと・み」)で、三陰の歳である。
歳星(木星)が月に掛かり、太白(金星)が西方にあるため、兵を挙げるべきではない。
北伐しても失敗する可能性が高く、勝ったとしても、上(皇帝)には利は無い。
と言うのであった。三陰を『資治通鑑』の注から説明する。干支の干、十干の内、甲、丙、戊、庚、壬を陽とし、乙、丁、己、辛、癸を陰とする。分かりやすく言うと、紀元後の西暦の末尾が、偶数なら陽、奇数なら陰である。甲が4、乙が5である。これを知っておくと、干支付きの歴史事象の末尾の年だけは分かる。それはさて置き、干支の支、十二支の内、支以子、寅、辰、午、申、戌が陽であり、丑、卯、巳、未、酉、亥が陰である。この十干十二支の組み合わせが干支(かんし)である。干が陰、支が陰、その組み合わせが陰である事から、三陰と言うのである。三陰の歳が、軍を挙げるべきではない理由は陳べられていない。これを聞いていた群臣は、この説得力を感じる言に勢いづき、その説得力を増させるために、張淵の過去の言の実績を挙げた。
張淵が若かりし頃、前秦の苻堅が南伐を起こそうとしたため、東晉の太元八年(383)の事であるが、これに反対した。しかし、苻堅はこれに従わなかったばかりに敗れてしまった。
と言い、「言するところ中(当)たらざる無く、違うべからず」と繋げ、「今、天意も群臣も反対しており、動くべきではない」と結んでいる。こうなると、さしもの世祖も迷いが生じてきた。重要度の増した天文を読み解き、また、前秦が滅亡へと転換していった南伐の失敗を見抜いていたと言う過去を提示されては、さもありなんと言うところである。しかし、世祖の意するところは蠕蠕討伐であり、ただ一人だけ賛成していた崔浩に、我が意を得るためにも、張淵らと議させた。
○は以下の字です。