「一生懸命はカッコ悪い」 第四回
『論語』に次の言葉がある。「知之者不如好之者,好之者不如樂之者」。知られた言葉であり、容易に書き下せるため、敢えて書き下しはしない。中高生では、最初の段階をクリアするのも、まだ早いかもしれない。知って、それを好むようになって、遂には楽しめるようになる。肯定で繋げるとこうなる。知ってるし、好きだし、楽しいし、となれば、その向かう先は困難でも何でもない。遊んでいるのに近い感覚かもしれない。遊んでいる時、一生懸命などと言う堅苦しい概念は存在していない。遊びと比較するとは何たる事か、と思う人もいるだろう。小さい子供は、いつも同じ遊び方をしていない。何かを足そうとしている。また、何か新しい遊びを造り出そうと頭を悩ませて、考えている事がある。しかし、その様子は実に楽しそうである。オトナは遊びはこう言うものと「知」っているため、何故にそれが「楽」しそうなのか理解できない。自分も子供の頃に同じような事をやってきているはずなのだが。「楽」、「好」を失い、ただ増え続ける「知」に縋っている。だから、何故にその人が真剣になれているかが理解できない。ただ聞こえのいい「一生懸命」と言う知っている言葉を使うだけなのである。
「一生懸命はカッコ悪い」 第三回
求めるのが困難を窮める事であればある程、それに向かうのは素晴らしい。だからこそ、一生懸命が重要なのだと説く。一聴すると、確かにそうかもしれない、と思うかもしれない。しかし、これこそが何も意味を有さない言葉である。何故に困難に向かえと言うのか。マゾヒストに近い感性なのだろうか。「いや、偉業を成し遂げた人は、困難に立ち向かった結果である」。確かにそうかもしれないが、中高生に偉業を為せと言うのか。偉業を成し遂げた人と、そこまで言わずとも、他人と自分が同じ感覚だと言うのだろうか。ある人にとって困難と思えることが、ある人にとっては楽しいと思えることだってある。長距離走が得意、不得意の人が分かり易い例だろう。偉業を成し遂げた人の多くは、それが如何に困難であったかを語るよりも、如何に楽しかったかを説く。夢半ばにした人も、やはり楽しさを語る。成功、不成功と言う結果によるものではない。
「一生懸命はカッコ悪い」 第二回
「一生懸命」の対義は何であろうか。その一つとして、「怠惰」が挙げられるか。しかし、この言葉を使う時、多少ながらはその行動をやっているわけである。ただ、力を注いでいないと言うだけである。やる事は一応やっているわけであるから、怠惰を対義とするのは、意味するところにずれがある。意味しようとするところは、楽をしながら効果を上げたい、であろう。であれば、「濡れ手で粟」が適当と考えられる。濡れた手を粟の中に突っ込んで握り上げれば、乾いた手で取る以上に粟を掴めるであろう。ただ大量に取る事だけを目的とするのであれば、これでいいであろう。しかし、粟の掴み取り大会を主催したとして、主催者のあなたは、濡れた手でそれを実行させるだろうか?現象とすれば確かにそうだが、それは実際ではない。主催者の目を盗んで実行したとしても、いつどのタイミングで手を濡らす?その水は、そもそもどこから持ってきて、どこに隠す?よしんば手を突っ込めたとしても、どうやって手に不自然に付いた粟を落とし切る?濡れた粟をどうやって乾かす?くぐり抜けなければならない難関門が、いったいどれだけあるだろうか?とある漫画で、「怠惰を求めて勤勉に行き着く」とあるが、これを言うのであろう。名人は、楽にその事を実行してしまえるが、その 境地に達するには、その事について勤勉であり続けたが故なのである。
