西東雑論 -3ページ目

「女は見られても綺麗にならない」 第四回

  このような語がある。「士為知己者用,女為説己者容」である。書き下せば、「士は己を知る者の為に用い、女は己を説(悦)ぶ者の為に容(かたち)づくる」である。出典は『戰國策』、『史記』、『文選』がある。この前半部は、よく聞くところの語である。出典の前二つは、ほぼ同じ内容であり、春秋・晉の豫讓の言である。豫讓は晉の重臣に仕えようとしたが重用されず、最終的に智氏に認められて、重用される事となった。その智氏が殺されると、その復讐に乗り出した。しかし、結局、遂げられなかった。捕らわれる時のやり取りとして、仇討ちの理由を問われている。その答えは、「國士として遇してくれたのだから、國士としてそれに報いようとしたのだ」と言うものであった。これを「女」に当てはめるのであれば、自分がいる事を悦んでくれる人の為に、その人がもっと悦ぶように、外見を良くすると言う事である。「容」とは、「化粧する」の意である。ここから言えるのは、「士(男)」にしても「女」にしても、己のプライドとするところを満たしてくれる対象に対しての動きである。何故にそれが言えるのか。それは、ここで出典としたのが、前者二つではなく、『文選』だからである。『文選』に収録されている「報任少卿書」が、それである。書いたのは司馬子長。つまり、司馬遷(子長は字)である。この時の司馬遷は、当然に「女」ではなく、また、「士」でもなくなっていた。腐刑に処された後である。如何に自分がプライドとする事を成し得たとしても、その身体では、永久に認められる事は無くなってしまっている。





「女は見られても綺麗にならない」 第三回

  「女性は見られると綺麗になる」と言う、真しやかな言葉がある。これが、一般としては偽である事は、前二回で陳べたところである。では、特殊ではどうだろうか。見られる対象が不特定多数ではなく、特定の一人と言う特殊である。恋人と言う関係、その手前の片想いの段階が、これに当たる。対象が一人であれば、その人から、見られている、と意識するのは、大変な事では無い。何故なら、その関係性にあっては、見られたい、からである。出来るのであれば、その視線を自分にだけ向けさせたい、と言う独占欲も生じる。その独占欲を満たすために、あれやこれやをして、その視線が別に移らないようにするであろう。ここには、モデルなどの職業として見られる立場の維持、管理、向上と同じような、自分の外見に対する働き掛けが生じる。しかし、やはり、「見られる事で綺麗になる」と言う説は、偽とするものである。




「女は見られても綺麗にならない」 第二回

  また、反証として、女子校生が挙げられよう。スカート丈が短い。悲しいとまでは言わないが、男の性として、目が行ってしまう。それもあって、太ももが視線に晒される事となり、これによって緊張が生じて、引き締め効果が生まれる、などと言っている人がいた。しかし、これが否定されるものであると言う事は、街中を見れば分かる事である。確かに細い人もいるだろう。しかし、それは文字通り細いと言うだけである。ここでの論点は、引き締まっているか否かである。引き締まって見える人と言えば、運動部に所属している子が多い。運動部か否かは、持っているバッグなどの持ち物から容易に判断できる。それ以外はと言えば、正にそれが反証である。その短さにしたての頃は、確かに視線に晒されていると言う意識があったろうが、それが日常となってしまえば、そんな意識が働く事は無くなってしまう。もし働かせ続けようとしたら、精神力が持ちはしないだろう。