手話に関する団体の合宿がもうすぐある。
合宿というイメージは体育会系か・文化系かでだいぶ変わるものだが、
こちらの合宿は大人しいものだ。
あえていうなら3日間、
声無しという環境なので語学系学習に近いのだろうか。
普段行わない機会としてディスカッションを設けている。
テーマは3つだった。
「自分と違う聞こえの人々に対する疑問」
「壁を感じた状況」
「それを下げる方法」
事前にこの企画に関するアンケートを集計した結果、
健聴者からの意見は大体「手話が出来ずに申し訳ない」ということだった。
さて、自分はどうだろうか。
参加者に出す以上、僕が何も考えなしでいるわけにはいかない。
何を批判する訳でも、教唆する訳でもないが、
幅広く議論する為に、先立って考えておくことは必要かもしれない。
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テーマ1「自分と違う聞こえの人々に対する疑問」
この場合、
健聴者はろう・難聴者に対しての疑問をディスカッションする。
ろう・難聴者は健聴者に対しても疑問をディスカッションする。
ディスカッションというよりは、案出し、所謂ブレインストーミングに近いのだろうか。
ブレインストーミングなんてカッコつけた言い方だが、
要するに疑問を次々と打ち出していけば良い。
●ろう・難聴の区別は何なのか?
数字上の区別としては100db以上の障害があると「ろう」という。
しかし、実際のところは本人のアイデンティティによるところも多く、
「ろう」には「ろう文化」「伝統的手話」などの特色があるとの主張も多い。
ということで、疑問というならば、なぜ自分がどっちであるのか、というのを判断している、その判断基準が疑問である。おそらく人それぞれ、そのそれぞれの部分を聞いてみたくなる。
●ろう学校か、普通学校か
自分の周りの学生を見ても、ろう学校卒業者、幼稚部だけろう学校、全て普通学校などなど、環境は様々だった。それは誰が判断していくのか? 親か? 自分か?
因みに聞こえとは全く関係ない話だが、僕は自分の学校を選ぶ基準は何一つ持っていなかった。ただ近くて、周囲が反対しないならそれでいいと考えていた。それがなんと大学まで続いてしまったのは、幸か不幸か……。
普通学校で健聴者と共に学ぶことをインテグレーションというそうだ。
ろう学校でろう文化なりを身に着けた学生は、慣れるのに困難だと聞くが……実際に体験者は居るのだろうか?
●学生団体に参加したいと思うか? なぜ?
ろう・難聴学生団体として大きなものに全日本ろう学生懇談会などがある。残念ながら、僕はこの団体に関してあまり大した知識はないので、何とも言えない。
周囲にはこの団体に関わる学生が多い。反面、「高校までで聴覚障害者と共に過ごしてきたから、大学生になってまで、そこで固まるよりは健聴者とも関わってみたい」という理由で入らない学生もいた。
これに関する考え方とは何だろうか?
●理想の手話サークルとは?
現時点、自分の大学において代表を務め、また、他の団体も6・7以上は見てきた。しかし、実際手話サークルというのは欠点のようなものが多いと、個人的には感じている。
例を挙げれば、
・健聴者同士になると声だけで会話、たまにしか手話が出ない。
・手話コーラス/手話劇の練習と発表
・手話学習者に向けた活動の繰り返し
・運営にかかりきり
……などなど
手話サークルが聴覚障害者のためのものであるべきだ、とは言わない。
言うならば手話学習者・聴覚障害者のためのものであるべきだ、くらいだろうと考えている。
よって、その気持ちを知ってみたいのだ。
とはいっても聴覚障害学生が一括りになるわけではない。
ある一定の共通点があったとしても、彼らの意見はバラバラであるし、
考えずに話していると僕には聴者学生との区別もつかないこともある。
●習得するのはどちらの手話か
手話は日本語文法に合わせたものと、
手話独自の文法に合わせたものとがある……。
まぁハッキリと分かれているわけでもないのだが。
近年手話独自の文法を保っている日本手話が消えつつあるという。
さて、どっちを扱っているのだろうか?
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テーマ2「壁を感じた状況」
健聴者とろう・難聴者との壁を感じた状況ということである。
因みに収集したアンケートの中には「同情で一緒にいるなら止めて欲しい、と言われた」
そういう意見もあった。
●集団としての壁
先程挙げたようにろう・難聴学生のみで構成された団体がある、ということが僕にとっては壁のように感じてしまう。
しかし、運営的な目線でも、組織的な目線でもその垣根を壊すことは+には働かないと思う。「同じ悩み・同じ立場」だからこそ、力を振るえるし、守りたいこともあるのではないか。そこに健聴者がなだれ込めば手話サークルと何ら変わらないものが出来上がるのかも知れない。
しかし、だからとって壁を感じない訳ではない。
言うなれば、聞こえで分けている時点で、これはもう壁なのだろう。
……残念ながらあまり思い浮かばなかった。
そもそも壁というのは難しい。壁ということは現在ぶち当たっているということか?
僕自身手話を学んではいるものの、福祉的精神もないので、そこまで聴覚障害者と積極的に接しているわけではない。かといって、普通の聴者と接しているわけでもない。元々、人との関わりが少ない人間なのだ。残念。
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下げる方法については壁が、壁として機能しなくなって起こる弊害を考えると
提案する気にもならなかった。
さて、本番ではどんな意見が聞けるだろうか。