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高をくくる

 

ワンチャンだか、卍だか知らないが

若者言葉を大学生はよくノリのように言ってくる。

大概の会話ではノリでしかないので、

流して成立する。

 

そんな中でこれもまた若者言葉だった。

しかもわかりやすい部類だといえるだろう。

 

ガチれば。

 

つまり本気になればということだ。

 

ガチればいけますよ。

 

後輩がそう言う。

ガチればいけるならなぜ最初からそうしないのか。

そんな疑問は多分自分に返ってきてしまうから、

僕はその時口を閉ざしてしまったのだろう。

 

ガチれば、ワンチャン。

 

今できないことやら、少ない可能性を

妙な言葉でまるめて誤魔化しているような言葉だった。

たぶん、僕はこういう言葉が嫌いだから言わないわけではなく、

言ってしまえばそれにかこつけて何でも丸め込んでしまいそうだから

自制しているんだろう。

 

昔「なんでもいい」「どうでもいい」

を口癖にしていたことを思い出してしまった。




企業が求める力トップなんたら、で10年連続1位か何かを獲得している力、それがコミュニケーション力。

これは鈍感であればあるほど高いのではないかと考えていたりする。もしくは、心を強くして上げているかである。

コミュニケーション力がなんであるかを義務教育では学ばない。ここまで重要だと言われているにも関わらずだ。何故だろう。

僕もコミュニケーションのための言語を学ぶ側面でコミュニケーションについても考えてきた。

「相手の立場にたつ」
「目を見る」
「相手に応じて言葉を変える」

綺麗そうで無難な言葉を身につけた。しかし、適している人間や、適していない人間が居るものだ。

僕は努力したほうだが、あんまり適してはいないのだろう。だが、だからといって諦めるわけにはいかない。

僕はなんら興味のなかった【コミュニケーションスキルアップセミナー】に応募した。全3回。

教えられるものではなかったコミュニケーションを、教えてくれるというのだ。しかと焼き付けて、ここにも載せたいと思う。

 

 

僕の家の敷地は広い。

100坪あるらしい。

 

しかしながら、

この数字から僕の家が大きいという事実は生まれてこない。

あくまでそれは敷地の話だった。

この敷地にはなんと4つの家が立っている。

 

元々は僕の祖父が受け継いた土地である。

よって、この土地は僕の血族直径が管理していることになるし、

実際に土地の税金を払っているのが母だった。

 

なのに、なぜ、この土地には4つの家があるのか。

 

・家その1

 これは祖父祖母の家である。

・家その2

 これは僕の家である。母……祖父の娘の家でもある。

・家その3

 祖父の兄弟の家である。手作り感がある。

・家その4

 祖父の兄弟の家である。一番でかい。

 

その3に住んでいるのがまたよく分からない方で、

結婚もしておらず、手作りのような家に住んでいる。

彼は会えば挨拶もしてくれる。

正直どう生活をしているのか心配な人だった。

 

しかしながら、その4に住んでいる方は違う。

仕事もしており、結婚もしており、家族を作っている。

なぜ、この土地で税金も払わずにいつまでも暮らしているのか。

挨拶もせず、こちらを一瞥していつも去るのみである。

 

親戚の付き合いというのが、かすかな記憶の片隅にあった。

祖父の家で集まる親戚一同。

鳴るオーディオ、カラオケ大会、野球観戦、遊ぶ子どもたち。

それはなんとも良い、雰囲気の、親戚付き合いだったように思う。

僕は野球観戦に興味はなかったが、それをする祖父たちを

じっと眺めていた。

 

いつしかそれは無くなり、

祖父は酒しか飲まず、酔って狂って亡くなった。

 

祖父を失った祖母は狂い、

幻視と幻聴を訴えて遂には狂乱になり、精神病院に送られた。

 

そんな時でも殆ど祖母と祖父を、彼らは助けなかった。

声をかけただけだ。

なぜ、そんな風にしてこの土地に居られる。

なぜ、無視をする。

 

僕の血の半分は、彼らの血統だ。

母方は確かにおかしい人が多いが、

ここまで来ると呆れるような、唇を噛み切りたいような

気持ちになってくる。

 

親戚なんてものは、居ても助けてくれなさそうだ。

そんな気持ちで「ぼくのなつやすみ4」をプレイすると

きっと泣きそうになるのではないだろうか。

圧倒的成長。

 

圧倒的成長は僕が就職活動中に

たまに目にした言葉だった。

なにかとブラック企業的なところが謳っていた。

 

「社会人としての圧倒的成長」

 

僕はそれが嫌いではなかった。

確かにその謳い文句を言う人は大体が高圧的で

正直話の内容は曖昧で精神論的で顔も怖かったが、

その話し方には圧倒的な何かがあった。

 

ああ、こんな話し方が出来たらな……

 

就職活動中に学生の目の前に出て来るような人達は

大体「圧倒的成長」を遂げている人間が多い気がした。

確かにそうでもない人をわざわざ学生の前に出してもしょうがない気もするが

故に、だからこそ、僕は圧倒的成長に若干惹かれたのだろう。

ブラックという環境だからこそ、

そこを生き抜いた強い力があるのも確かなのではなかろうか。
 

 

ところで、今日の僕は圧倒的怠惰だった。

食欲が久しぶりに疼いて、ポッキーを食べてしまった。

 

明日は2分間スピーチの日だ。

絶対に明日の日記のテーマは

2分間スピーチのことになるだろう。

 

今日は晴れていた。

気持ちの良い空、気持ちの良い夕日だった。

誰かとまたこんな景色を見たい。

 



ヒュームディルタイ超ひも理論バークリ倫理観念論理哲学論考ヴィトゲンシュタイン

飛ぶ単語の端々に聞き覚えがありながらも、正確にその意味を頭の中から探すことはかなわず、盛り上がるゼミの部屋を笑って過ごすしかない。

やばい全然分からない。

僕のゼミは3人だが、哲学に積極的、あまりに積極的な2人のおかけで僕は帰るタイミングさえ見つけられず、虫眼鏡に焼かれる蟻のようにいたぶれる。

「まるでフランス学会への文句だよ」
「ははは」

謎の笑いが起きて、それに無理やり合わせる自分。つらい。フランス学会ってなんだよ。

大教室ではパソコンでメモを取ることにした4回生。こうすると頭に入ってくるくる。字よりも情報量も多く、やろうと思えばイラストだってのせられる。

それが終わればサークルだった。
なんだか、五限目を終えていくこの感覚が懐かしい。

僕は変わった? 変わっていない。
変わっていてほしい。
願望。

後輩たちは、居残って練習を重ねる。
3回生は居ない。
どうか、彼らにとってこの学園祭練習が、
楽しいものでありますように。

 

 

何を持って社会人とするか、

もっと言えば何をもって大人とするのか、

言葉としての定義は辞書にのっているのかもしれないが

それが言葉として自分の中でマッチングするかは

全く別の問題だった。

 

雨の降った1日。

このブログがやたらと更新されたように見えるが

実際には時間指定で投稿されていたはずの

記事が一気に公開されてしまっただけだ。

 

同期の何人かはこの日に内定式を迎えていたようだ。

実際に東京に足を運んで大きな内定式を迎えた人もいれば

Web内定式を迎えた人も居たという。

僕は内定式がなかったし、あったとしたら一昨日のイベントを

欠席しなくてはいけない事態になっていたので

かなり危ない状況だった。

 

ゼミの卒論目次を作成した。

団体の過去のデータをまとめた。

きっとなにかの役に立つと思った。

 

同時に人とLINEで会話して心が安んだ。

 

10月が始動した。

きっとこれからどんどん寒くなっていくはずだ。

 

今年の僕の体は、自分でも驚くほど

発熱しているような気がした。

なんでだろう。

   

 

このブログを始めた理由についてはよく覚えていない。

それは今からおよそ7年前になるのか。

7年前……そう思うと恐ろしい気がした。

7年あれば小学生は一気に大学生になる。

 

そんな年月がもう流れていたのだ。

確か中学生の時にブログじみたものを作ったのは覚えている。

恐らく今もどこかネットの海の中に転がっているのだろうが、

タイトルも分からず、その時の名前も分からない。

まぁあったとしてもあんまり見たくもないので、それで良いのかもしれないが。

 

そして現在のブログ形態に切り替わって

2016年にこれを再開してからタイトルそのものは変えていないが

意味合いが大きく変わっていた。

 

これは現実の愚痴の部分をひたすら書くという意味合いを帯びている。

つまりこれは自分の半分なのだ。

 

昔どこかのブログかなにかで妙な話を目にした。

かなりのうろ覚えだが、以下のような話である。

 

ある賢者だか、聖人だかがいた。

誰にでも優しく、いつ何時でも態度を崩さないような

絵に描いたような聖人だった。

しかし、ある期間だけ、ある部屋に篭って、誰も近寄らせない。

ある日、気になった家来のものが、その部屋を覗いてみると

半狂乱になった聖人が、ありとあらゆる方法でストレスを解消していたという。

 

ストレスを発散することで、僕はある程度日常の自分を保つ事ができる。

あることないこと書いたとしても匿名なので、

まぁ、なんとかなるだろう。

そんな思いだ。

 

しかし、いつまでこの習慣も続くのやら

これを見返したことはあまりないが、見返すと目も当てられないことになっていることは間違いないだろう。僕は今までも自意識過剰な中二病じみていて、そしてそれはこれからも変わらないだろうと、感じている。

 

 

【春なのに】は1983年に発売された

柏原芳恵という方の曲らしい。

作詞・作曲には中島みゆきが

関わっていたことを初めて知った。

 

卒業だけが理由でしょうか

会えなくなるねと

右手を出して さみしくなるよ

それだけですか

むこうで友だち 呼んでますね

流れる季節たちを 微笑みで送りたいけれど

春なのに お別れですか

春なのに 涙がこぼれます

春なのに 春なのにため息 またひとつ

 

上のような歌詞で、これは立派な卒業歌である。

桜咲く卒業式の日に、

涙を零して別れを惜しむ人の情景が浮かばれる。

なんだか曲調も物悲しげで、ため息またひとつ、

という歌詞で終わるこの曲はなんとも言えない感覚で消えていく。

 

これは僕が幼稚園を卒園する時に合唱した曲だった。

【旅立ちの日に】を超える寂しさを持つこの曲を

なぜ僕は幼稚園で歌ったのか、非常に不思議である。

 

幼稚園時代を思い返すことは殆どない。

原初の記憶はあの幼稚園の滑り台で、

好きな女の子を追い回す友達に文句をつけにいくというものだった。

 

そういえば声の大きさを買われて、

舞台挨拶を任されたことが

一度だけあったな。

あれはどうなったのだろう。

 

それでも幼稚園のころから、妙な絵を描いたりして

先生方に心配されていたようである。

 

幼稚園の頃、そんな子供の頃の記憶が

まだ僕にあるところを見ると、

僕はどうやらしつこい人間だったようだ。

 

春なのに。

出会いの季節であるはずだが、

別れがまず先にやってくるあの季節。

 

今は秋。

しかし、もうじき長袖に腕を通し、

少ない雪模様を見た後は、春を迎える。

 

その時僕はスッキリと新生活を送れるのだろうか。

ため息をひとつもらして、そして去っていくような、

そんなことのないようにしたいと、思うばかりである。

   

 

学生生活も残すところ僅か5ヶ月。

色んなイベントもあったが、関わっているものとしては

ちょっとした規模の学園祭発表が2日ほどあるのみであり、

恐らくなんの感傷もないかもしれない。

あるいは後輩のかんばりに僅かに胸が高鳴るかもしれないな。

 

大学に入ってから少しではあるけれど人間関係と言うものが生まれた。

「友達」「仲間」という単語をどうしても上手く当てはめられないでいたけれど、

そんな自分でも「友達」だと言える人や

「大切」だと言える人が何人か出来た……瞬間があった。

 

しかし、関係という言葉の残酷さは

自分一人では決して完結しないところにある。

自分が大切に思うだけではなく、相互にそう思わなければ意味などないのだから。

 

彼氏彼女も、夫婦も、友達も、

近づいては離れていくものだろう。

 

そんな関係という言葉にもう絶望していた。

特に絶望すべきなのは、こういう環境ではなくて、

その環境を招いてしまった自分に対してだった。



今日は団体の方で学生44人を集めての交流会があった。

僕も代表として……なにもしなかったが。役割としてあったのは時計を確認して、時間を知らせることくらいであった。

僕の団体の都合上、学生の中から未来のスタッフを選ばなくてはならない。

一体だれがなるのだろう。
僕とは恐らく1、2ヵ月ほどしか被ることはないのだろうが……。

後輩がどんどん積極的になっている。僕も負けじと何かを与えたい。さて、それでも迷惑ではないかと考え込んでしまったりする。

イベントの日のほうが、会議の日より早く帰ることが出来るのだから、なんだか、不思議だった。

でも、頭がいたい。
ゼミの課題はしなくてはいけない。