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(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

日本人の必読書

みたいな感じだとは思っていたが

機会がなくて読めていなかったところ

去年ようやく読んだ。

 

これも最近の

新しい作品よりも昔の作品を求めるぼくの気分

が反映しているのだろう。

 

100年ちょっと前の岩手のことだけど

おそらくまだまだわからないことが多かった時代だろう。

 

作中に出てくる異界人めいたひとたちは

かつてロシアや現在の北海道方面からやってきたひとたちの末裔のような気がする

(地名にはアイヌ語の名残が多く残っている)し

雪女や河童などは

現在では何らかの精神的な疾患と分類されるような特性の持ち主だったような気がする。

 

神秘めいた風習や信仰は

ファンタジーではなく

ひとびとのリアルな生活にフィットしていたと思う。

 

別に100年前のむかしのことっていうわけじゃなくて

いまでも自然にこういう発想は残っているだろう。

 

それをスピリチュアルと呼ぶひともいるかもしれないけど

スピリチュアルは変な商売と結びつかなければ

けっしておかしいことではない。

 

怪異なもの

不慣れなもの

畏怖の対象

を排斥していった先に現在の荒涼とした人間社会がある。

 

いや

水木しげるしかり

小泉八雲しかり

漫画やアニメなどの創作物には

現在も連綿と遠野物語とおなじ精神は引き継がれている。

 

日常にある異界との接点の感覚はすごくだいじ。

 

ところで

三島由紀夫がこの作品の

「裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なればくるくるとまはりたり」

という件りに

「あ、ここに小説があった」

と三嘆これひさしうしたのは

なるほどたしかに描写のちからではあるが

はたしてこの表現は

柳田国男のものなのか

あるいはこれを語った者のものなのか。

 

 

 

 

--遠野物語--

柳田国男

3年半ぶりに再読した。

 

この作品は海外でも話題になったようだし

日本国内でも影響を受けたひとは多いと思う。

 

読んだひとにとってこの作品が

産むこと

にかかるさまざまな問題を意識するきっかけになったなら

いま生きているこどもたちにも

これから産まれてくるかもしれないこどもたちにとっても良いことだ。

 

ぼく自身もこの3年半の間に

産むこと

についていろいろと思いを巡らせてきた。

 

・いかなる理由や状況でもそもそも産むことはそれを望む者のエゴである

・いかなる場合でも産まれる者の意思は考慮されない

・そもそもいま生きている者の誰一人産まれたときに意志が考慮されていない

 

こういう前提を押さえたうえで

善百合子寄りの考え方をぼくは持ってきた。

 

・産むことは誰のための何のための賭けなのか

・産む者は何も賭けていない

・賭けに負けて代償を支払わされるのは産まれさせられた者

・不幸になる可能性が少しでもあるのなら産むべきではない

・産まれてこなければ不幸にならない

 

それでもやはりこどもがほしいと思う気持ちがあるし

産まれてきたこどもは祝福されるべきだと思うし

産むことを決めた(賭けた)以上はいかなる状況であっても

こどもを幸せにするために全力を注ぐべきだとも思っている。

 

再読して感じたのは

夏子も巻子も緑子も

遊佐も逢沢さんも

それぞれに苦悩を抱えながらも

光に向かって歩んでいるということ。

 

そういう姿を見ると

産まれてくることを肯定したい気持ちになるのは仕方がない。

 

「この世界にいる誰ひとり、望んで産まれてきたひとはいないし、善さんの言うとおり」

「本当に身勝手な、ひどいことをしようとしているのかもしれないと」

「でも、わたしがそう思ったのは」

「それを話してくれたのが、善さんだったからだと思います」

「わたしがしようとしていることは、とりかえしのつかないことなのかもしれません。どうなるのかもわかりません。こんなのは最初から、ぜんぶ間違っていることなのかもしれません。でも、わたしは」

「忘れるよりも、間違うことを選ぼうと思います」

 

夏子にこう告げられた後に善百合子が話す。

 

「逢沢は」

「生まれてきたことを、よかったと思っているから」

「わたしは、あなたとも、逢沢とも違うから」

「ただ、弱いだけなのかもしれないけれど」

「生まれてきたことを肯定したら、わたしは一日も、生きてはいけないから」

 

そのひとがどう生きてきたかが

こどもを産むことに対する意思に大きく影響する。

どちらが正しいということはない。

どちらもそれが自然なのだろう。

 

このあとの夏子と善百合子のやりとりは愛しいし眩しい。

 

「あなたの書いた小説を読んだ」

「人が、たくさん死ぬのね」

「はい」

「それでもずっと生きていて」

「はい」

「生きているのか死んでいるのかわからないくらい、でも生きていて」

「はい」

「どうしてあなたが泣くの」

「おかしなことだね」

「うん」

「おかしなことだね」

 

とにかく

産む行為につながることをしようとするひとは

全員もれなくこの作品で描かれている問題について考えてほしい。

 

どちらを選択するにしても。

 

 

 

 

 

--夏物語--

川上未映子

選んで読んだわけじゃなくて

たまたま文庫で順番に読んでいたら

この短編だった。

 

--最初の児(こ)が死んだので、私たちには妙に臆病が浸込んだ。

 

次に授かった左枝子をかなり慎重に丁寧に扱う両親。

特に過敏なのは父。

 

女中の娘を2人雇っているからそれなりの人物なのだろう。

 

感冒が流行するなか

町の青年会が旅役者を呼んで芝居興行をする。

なんでこんな時期にやるのかなと腹立たしく思う夫。

 

女中たちにも決して芝居を観に行かぬよう告げるが

そのひとりが嘘をついて芝居に行く。

 

それを詰めていくシーンが生々しい。

女中は決して行っていないと明言するので

信じないながらも葛藤してそれ以上責めないことにした矢先

やはり行っていたことが判明する。

 

これでは左枝子を任せられないと不安になる両親の心。

嘘に対する考え方の違い。

 

紆余曲折あって

その後夫が風邪をひき

それが家庭に広がって

そのときの女中の献身的な働きぶり。

 

--普段は余りよく働く性(たち)とは云えない方だが、その時はよく続くと思う程に働いた。その気持は明瞭(はっきり)とは云えないが、想うに、前に失策をしている、その取り返しをつけよう、そう云う気持からではないらしかった。もっと直接的な気持かららしかった。私には総てが善意に解されるのであった。私達が困っている、だから石は出来るだけ働いたのだ。それに過ぎないと云う風に解(と)れた。長いこと楽しみにしていた芝居がある、どうしてもそれが見たい、嘘をついて出掛けた、その嘘が段々仕舞には念入りになって来たが、嘘をつく初めの単純な気持は、困っているから出来るだけ働こうと云う気持と石ではそう別々な所から出たものではない気がした。--

 

心情描写が実に素朴でリアル。

現実の生活で似たようなやりとりはよくあるのではないか。

 

結局その後

この女中と主人たちはものすごくいい関係になるのだが

そういうことも含めて感情の機微というか

人間関係ってどこでどうなるか理屈だけじゃわからない

というあたりまえのことがシンプルに伝わってきて

いいものを読んだという気持ちになった。

 

 

 

 

--流行感冒--

志賀直哉