3年半ぶりに再読した。
この作品は海外でも話題になったようだし
日本国内でも影響を受けたひとは多いと思う。
読んだひとにとってこの作品が
産むこと
にかかるさまざまな問題を意識するきっかけになったなら
いま生きているこどもたちにも
これから産まれてくるかもしれないこどもたちにとっても良いことだ。
ぼく自身もこの3年半の間に
産むこと
についていろいろと思いを巡らせてきた。
・いかなる理由や状況でもそもそも産むことはそれを望む者のエゴである
・いかなる場合でも産まれる者の意思は考慮されない
・そもそもいま生きている者の誰一人産まれたときに意志が考慮されていない
こういう前提を押さえたうえで
善百合子寄りの考え方をぼくは持ってきた。
・産むことは誰のための何のための賭けなのか
・産む者は何も賭けていない
・賭けに負けて代償を支払わされるのは産まれさせられた者
・不幸になる可能性が少しでもあるのなら産むべきではない
・産まれてこなければ不幸にならない
それでもやはりこどもがほしいと思う気持ちがあるし
産まれてきたこどもは祝福されるべきだと思うし
産むことを決めた(賭けた)以上はいかなる状況であっても
こどもを幸せにするために全力を注ぐべきだとも思っている。
再読して感じたのは
夏子も巻子も緑子も
遊佐も逢沢さんも
それぞれに苦悩を抱えながらも
光に向かって歩んでいるということ。
そういう姿を見ると
産まれてくることを肯定したい気持ちになるのは仕方がない。
「この世界にいる誰ひとり、望んで産まれてきたひとはいないし、善さんの言うとおり」
「本当に身勝手な、ひどいことをしようとしているのかもしれないと」
「でも、わたしがそう思ったのは」
「それを話してくれたのが、善さんだったからだと思います」
「わたしがしようとしていることは、とりかえしのつかないことなのかもしれません。どうなるのかもわかりません。こんなのは最初から、ぜんぶ間違っていることなのかもしれません。でも、わたしは」
「忘れるよりも、間違うことを選ぼうと思います」
夏子にこう告げられた後に善百合子が話す。
「逢沢は」
「生まれてきたことを、よかったと思っているから」
「わたしは、あなたとも、逢沢とも違うから」
「ただ、弱いだけなのかもしれないけれど」
「生まれてきたことを肯定したら、わたしは一日も、生きてはいけないから」
そのひとがどう生きてきたかが
こどもを産むことに対する意思に大きく影響する。
どちらが正しいということはない。
どちらもそれが自然なのだろう。
このあとの夏子と善百合子のやりとりは愛しいし眩しい。
「あなたの書いた小説を読んだ」
「人が、たくさん死ぬのね」
「はい」
「それでもずっと生きていて」
「はい」
「生きているのか死んでいるのかわからないくらい、でも生きていて」
「はい」
「どうしてあなたが泣くの」
「おかしなことだね」
「うん」
「おかしなことだね」
とにかく
産む行為につながることをしようとするひとは
全員もれなくこの作品で描かれている問題について考えてほしい。
どちらを選択するにしても。
--夏物語--
川上未映子