作家・土居豊の批評 その他の文章 -461ページ目
<< 前のページへ最新 | 457 | 458 | 459 | 460 | 461

ロンドン

今日、私の親しい友がロンドンに旅立った。その昔、漱石が住んだ街。敬愛する作家、アーサー・ランサムがボヘミアン生活を堪能した街。
前に行ったときは、真夏で、かなり暑かったのだが、めずらしく雨が少なく、散策には好都合だった。
以来、この街にしばらく住んでみたいと思っている。できれば冬、オペラやコンサート、ミュージカルを毎日楽しめるシーズンがいい。
けれど、ロンドンの冬は寒く、陰鬱で、漱石がノイローゼになるのもわかる気がする。だからこそ、劇場が発展したのだろう。
夏のロンドンも、しかし捨てがたい。毎日公演を散歩して、夜はプロムスの音楽会に行く。飽きてきたら、ちょっと電車に飛び乗って、一週間ほど湖水地方へ。
そんな生活を送れたらよいのだが。
それにしても、わが友は、ちゃんと英語を話せるようになったのだろうか。
5月13日

女性指揮者・西本智実のチャイコフスキー

文句あるか! という演奏会だった。有名な女性指揮者・西本智実のコンサートに初めて行った。チャイコフスキーの悲愴。これがほんとに関西フィル?といったら失礼だが、そのくらいエキサイトして、しかも緻密な仕上がり。3楽章が終わって、客席から一斉に拍手が巻き起こった。クラシックを聴きなれた聴衆の多いザ・シンフォニーホールにはあるまじき現象だが、これは納得の拍手。思わずうなった。
日本の音楽批評や報道は、この人をまるでタカラヅカのトップスターのように扱うが、間違っている。これは第一級の実力とカリスマ性の持ち主であり、純粋に演奏だけを聴いても大いに感動するはずだ。彼女をシェフに選んだロシア人を甘くみてはいけない。むしろ、先見の明のなかった自分たちを恥じるべきだ。
5月10日

矢野沙織ライブ(大阪ブルーノート)

18歳のサックスの女の子・矢野沙織を聴きに、新しくなった大阪ブルーノートへ行く。たしかに、広くきれいになっている。その分、ステージとの一体感という点では距離が出来たかもしれない。その女の子はなかなかよくがんばっていたが、お客の多くが、デートのためか、お食事のため、といったノリだったのは、花金ゆえ、しょうがないか。しかし、全国ツアーをこの夜、締めくくったというその子が、アンコールのときに感極まって泣いたときには、客席を埋めた大人たちの温かな拍手を浴びていた。願わくば、この上質のエンターテイメントの場所に、さらにホットなグルーブ感が加わってほしい。ついこのあいだ、ロイヤルホースで北村英治を聴いたばかりだったので、なおさらそう思った。

茨木市という町

生まれ育った町に行くと、ついあれこれ考えている。道すがら、「いばらき心斎橋」という商店街がある。もちろん、大阪の心斎橋を勝手に借りて名乗っているのだ。「なんとか銀座」というのと同じだ。こういうベタなことを平気でやれるのが、大阪人の性質だとしたら、この町も立派な大阪の一部だ。
もう一つ、最近、この町の大切な文化遺産ともいえる川端康成ゆかりの古い書店がなくなった。T書店という老舗で、本通りに面した明治からありそうな木造の本屋だった。旧制茨木中学に通っていた川端がよく利用したという。ところが、この本屋が、なんとディスカウントスーパーに変わっていた。
まあ、京都だったらそんなことありえないだろう。平気でそういうことをしてしまうのが、大阪の性格というものだ。あの美しい中ノ島のいくつもの石造りの橋の上に覆いかぶさるようなおそるべき不粋な阪神高速の姿。これが大阪の品性を現している。誰かが鴨川の三条大橋の上に高速道路を作るなんて言い出したら、どんな騒ぎになるだろうか。
つい、故郷の愚痴をこぼしているが、同じことを東京人に言われたら、むかつくに違いない。そういうものだ。
5月5日

作家・土居豊がエッセイを連載開始

さしあたり、これは「パブロの魔法劇場」に連載したエッセイの続きだ。けれど、あれは浦澄彬が書いていたもので、今度は改めて作家・土居豊のエッセイだ。別に大した違いはない。
そうはいっても、浦澄には『トリオ・ソナタ』のような小説は書けなかったのだ。土居豊にしか、あれは書けない作だった。これからも、浦澄にはもっぱら評論でも書いていてもらって、土居は小説に専念する。
そんなことを言いながら、さっそくエッセイを試みたりして、我ながら手を広げすぎる癖は直らない。もっと、一つに集中するようにしなければ、大作を完成するのはおぼつかない。
しかし、シャッフルしたカードが少しずつ一つの塊にまとまっていくように、私の書くものも、徐々にではあるが、形をみせてくるだろう。
しばしのご猶予を。
2005、4、30
<< 前のページへ最新 | 457 | 458 | 459 | 460 | 461