たからしげるブログ

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つれづれ思うことどもを不定期で発信しています。

大阪市生まれ。東京都中野区育ち。千葉県市原市在住。

 科学というテクノロジーを身につけた人類はこれまでに、自分たちがこの地上でより便利に安全に快適に暮らしていけるために、さまざまな製品を発明してきました。


 電化製品にしても乗り物にしても、武器にしても薬物にしても、建造物にしてもその他いかなる製品においても、その道の専門家の目から見れば、神秘と思わせるような要素は一つも見つからないでしょう。


 ところが、自分たちにとって最も身近で、つき合ってきた時間が長く、どこもかしこも熟知していると言えそうでいて、じつはすべての部分が細部に至るまで神秘に包まれている製品があるのです。


 それは人間の身体(人体)です。


 もちろん、科学的、医学的観点から人体を細部に至るまで観察、研究すれば、それがどのような仕組みによって成り立っているのかは、よくわかってきているようです。


 しかし、それは人類が設計して製造した、いわゆる人工物ではありません。


 観察はできても、人類は自らと同様の(生きた)人体を、生殖以外の手段でこの世に生み出すことはできないのです。


 人体には、いったいどのような秘密が隠されているのでしょうか?


 子どもたちを読者対象にした「ぐんぐん考える力を育むよみきかせ」シリーズの第8弾として、このほど作家の山下美樹さんが書き下ろした、今回は生理学研究所・監修『じんたいのお話20』(西東社・税込1650円)は、そんな非人工物の不思議がテーマです。


「よみきかせるなら3歳から小学校低学年まで、自分でよむなら6歳から」の本書には、複数の画家さんによる楽しくて親切なイラストが満載で、人体の各部について読者が知りたい「お話」が全20篇収録されています。


 実際に、子どもによみきかせている大人でさえ、うーん、なるほど、と感心させられてしまいそうな「お話しぶり」には脱帽です。

 

 

 10年ほど前に約11万円で買った簡易ドラムセット(シンバルなし)ですが、これまで実際に使ったのは、スネアドラムだけでした。


 なぜって、バンドで音合わせの練習をするときは音楽スタジオを借りるわけで、そこにはドラムセットがあるからです。


 ではなぜ買ったのかというと、家で個人練習するのにパッド(練習台)だけでは、物足りなくて、実際のセットを叩ければもっと上手になれるかも、なんて思ったからです。


 そのセットは、全部で5個ある太鼓のどれもが、演奏用ヘッドと、練習用メッシュヘッドの、両方に張り替えられるのです。


 わが家は5階建て集合住宅の3階なので、太鼓にメッシュを張れば、近隣に迷惑がかからないように叩けると思いました。


 が、購入してすぐ、全太鼓にメッシュを張って組み立てて、バスドラのフットペダルを一度、どん、と踏み込んだとたん、ヤバい、と気がつきました(遅いんだけどね)。


 足もとに伝わった地響きは、3階左右および2階と5階の住人様たちに直下型もしくは突き上げ型の震動を与えるのに十分でした。


 スネアドラムもリムショットを叩くと、同様にして、想像していた以上の全方向筒抜けの高音を発しました。


 当然、演奏用のヘッドでは、その数倍の音量に膨れ上がります。


 仕方がなく、セットをそっくり元に戻し、スネアだけは演奏用のヘッドに張り替えて、スタジオ練習のときに何度か使いました。


 その後、スネアを除いたセットは長ーい間箱に収めたままでしたが、昨年11月にネットのフリーマーケットに「スネア以外ほぼ未使用」として売り出しました。


 現在、入手困難なレアものなので、始めは強気の価格をつけたのですが、約半年に渡って値下げをくり返した末、最終的には5万5000円で買い手がつき、このほど無事にわが家を後にしていきました。

 

 

 

 7月になって、関東地方の梅雨明けはまだ遠く、蒸し暑い日々が続いています。


 最近、日本だけではなく、全世界の各地で大きな地震がいくつも起きています。


 地球温暖化で、雨がたくさん降ると、地下水位が上がったり、永久凍土や氷河が融けて海面が上昇したりします。


 すると、海底地下のマントルが重圧を受けて、火山地帯に向かっての流動が始まり、その影響で地震が増えるといわれています。


 科学的にどこまで証明されているかはわかりませんが、地球温暖化が地震の発生に大きく関与しているのは確かな気がします。


 つまりは、人間の日々の活動が世界各地での地震発生を促している、という構図です。


 地球温暖化を抑止するためには、カーボンニュートラル(脱炭素)といって、二酸化炭素などの温室効果ガスの排出量から、植林や森林管理などによる吸収量を差し引き、実質ゼロにする取り組みが一番です。


 この取り組みを遅らせている大きな要因は経済構造、技術的限界、政治政策、化石燃料依存などが絡み合う複合的な問題です。


 しかし、カーボンニュートラルと真摯に取り組もうとすると、とにかく莫大なコストがかかり、既存の発電方法(火力発電)からの移行が難しく、増税などによる個々人の経済的負担もぐんと増していきます。


 そんなのやっても意味がないという意見もあるようですが、実際はだれもが現在の生活に手いっぱいで、地球の未来など考えているひまがない、というのが現実のようです。


 それでいいわけがなく、地球温暖化は日に日に増大していって、ついには人類を滅亡の底に叩き落とすのは時間の問題になります。


 未来のために現在を犠牲にできないと手をこまぬいているのなら、問題の解決はあり得ません。


 未来とは現在そのもので、そこに解決のメスを入れられるのは、現在に生きる自分たちの他にはないと、強く自覚するべきではないでしょうか。


 

 1907年、アメリカのダンカン・マクドゥーガル医師は、人の死の前後の体重を精密に測定した結果、「体重が21グラム減少している事実を見つけた」と発表して、当時の大きな話題になりました。


 これを「魂の重さ」としたのですが、そもそも、生きている人の体に魂なるものが存在しているのかいないのかを、この実験で証明することはできませんでした。


 マクドゥーガル医師の実験には、合わせて6人の被験者がいたといいますが、そのうち死後の体重減少が21グラムだった者は一人だけで、その他の人たちの実験結果にはずいぶんバラつきがあったみたいです。


 魂の重さには個人差があって、死後の体重減少そのものが証明になる、との主張も出てきそうですが、被験者の中には体重が減った後に増えた者もいたのを同医師は公表せず、その後の批判を浴びたともされています。


 人の体には魂が宿っている、という考えは大昔から、世界各地で信じられてきました。


 いまでも、魂とはすなわち意識のことで、意識は肉体が滅んでも永遠不滅であるとの見解は、ほとんどの宗教界およびスピリチュアルの世界では常識になっています。


 ぼくの場合、作家の松谷みよ子さんが著した『現代民話考』シリーズ(全12巻)の第4巻「夢の知らせ・火の玉・ぬけ出した魂」や、第5巻「あの世へ行った話・死の話・生まれかわり」を読んで、魂なるものの存在にはまったく疑いの口がきけなくなりました。


 ただし、このシリーズはすでに絶版となっており、その後文庫にもなっていますが、こちらもいまでは入手困難のため、興味のある方は図書館の利用をお薦めします。


 まあ、幽霊、夢枕、臨死体験、生まれ変わり、といった類の話を耳にしたり読んだりするだけでも、魂はある、と言えそうですね。


 果たしてその考えが科学的に証明される日は、いつやってくるのでしょうか?

 

 

 宇宙や他の星から(ある使命を持って)地球にやってきたとされる、特殊な魂や能力を持った(前世は宇宙人、現世は地球人の)子どもたちを、スピリチュアルの世界では「スターチャイルド」と呼ぶそうです。


 ドロレス・キャノン(1931~2014年)は、アメリカの催眠療法士で、独学で身に着けた前世療法によって、生涯に数千人ともいわれる被験者に(前世をのぞき見る)退行催眠を施してきました。


 そんな彼女があるとき偶然か必然かでめぐり合ったのが、スターチャイルドとしてこの世に生を受けたアメリカ人男性でした。


 彼の名前はフィルといって、既に成人に達していましたが、ドロレスの退行催眠によって、自分がスターチャイルドとして地球に生まれ変わってきたことを知ったというのです。


 本国では1993年に刊行されて、わが国では2010年に翻訳出版されたドロレス・キャノン著『この星の守り手たち』(ナチュラルスピリッツ・パブリッシング80、ワタナベアキコ訳)は、退行催眠中に浮かび上がってきたフィルの前世体験を、主にドロレスとの対話形式で記録した一冊です。


 今年になって興味を持ったときは、既に入手困難になっていた本書ですが、幸いいつも利用している図書館に蔵書があったので、さっそく借りてきて読んでみました。


 一言でまとめるなら「人は不死であり、不死の魂は無限の経験をし、その地平線は際限なく広がっている」(本書より)そうです。


 いまや人間世界に多数、紛れ込んで生活しているとされるスターチャイルドの使命は、地球文明の進展につれて、自らを滅亡へと追いやり始めた人類と地球を救うためでした。


 その人、あるいは自分自身が生粋の地球人なのかスターチャイルドなのかを見分けるのは難しいそうですが、いま、人類を滅亡に追い込んでいるものの正体は、よく考えれば、だれだっていくつも指摘できそうですね。

 

 

 運転中にヒヤリとして、危なかった、と振り返ったことは、だれにでもあるはずです。


 先日、家の近くで急用のために車を走らせたときは、最初に差しかかった丁字路の信号の辺りで、これが起きました。


 ぼくは急いでいたのでかなりのスピードを出していましたが、信号は青でした。


 直進中に、すれちがうはずの対向車がいきなりこちらに車体を向けてきたのです。


 反射的にこちらが避けなければ、衝突していたかもしれません。


 数秒後、対向車は視界から消えていましたが、ぼくの車は一度切ったハンドルを戻す余裕がなく、そのまま前方に立っている横断歩道前の黄色いポールへ向かっていました。


 ぶつかって前部が凹むか、大破するかもと思ったとき、車は止まっていました。


 衝撃はなかったのですが、ぼくは走り去っていく車を呼び止めるために、その場で警笛を長く、何度か鳴らしました。


 それから降車して見ると、バンパーと黄色いポールは隙間なくくっついていました。


 相手の車は丁字路を右折した道路の先で、ハザードランプをつけて止まっていました。


 通行中の車を警戒しながら、ぼくは車をバックさせて、相手の車の後ろに着けました。

 

 そこで改めて降車して、車から降りてきた若い女性の運転手さんと一緒に、ぼくの車の前部をじっくりと確かめました。


 バンパーは少しも凹んでいないのに、黄色いペンキがうっすらとついていました。


 運転手さんが泣きそうな顔をして何度も謝るので、こちらも少しスピードを出し過ぎていたようだと反省し、お互いに安全運転を誓い合って別れたのです。


 車同士も、黄色いポールへの激突も避けられたのは、むしろ幸運だったのでしょう。


 この幸運をもたらしてくれた「目に見えない何か」への感謝と、うながしてくれた反省の心を、決して忘れてはいけませんね。

 

 

 

 

 先日、お世話になっている出版社から、電子書籍の出版契約書が送られてきました。


 だいぶ前に、所属していた児童書関係の協会が出版した「怖いお話」のオムニバス・シリーズにぼくの作品も収録されていて、それが電子書籍になるのです。


 ここ数年、コロナ禍(2020年)以降ですが、多くの出版社は紙の本に加えて電子書籍を同時出版するようになってきました。


 児童書のほうも、絵本、図鑑などは別にして、創作読み物の紙の本と電子書籍との同時出版化が進んできているみたいです。


 ぼくの場合、ここ数年で出した4冊はすべて、電子書籍と同時出版になっています。


 紙の本がどんどん売れなくなってきて、漫画や小説は電子書籍のほうに売り上げの比重が傾いてきているのでしょう。


 そんな背景も意識しながら、ぼく自身、Amazonの著者セントラルというところから、ここ数年で数冊の電子書籍を出しました。


 執筆はもちろん、原稿整理、編集、レイアウト、校閲、カバー装丁等、すべての作業を自分だけで行うのは、当初はおそろしく大変でしたが、経費はパソコンの電気代だけというところが経済的に魅力でした。


 最初に出したのは、かつて某社から第3巻まで刊行した「絶品らーめん魔神亭」シリーズの、その後原稿は仕上がっていたものの版元の都合で長く未完になっていた第4巻『幸せをよぶ黄金チャーハン』でした。


 続いて、亡き母をモデルに商魂抜きで書き下ろした私小説『団地の笛吹き』と、紙の本として一度世に出たものの、既に絶版になっていた児童ホラー小説『闇王の街』、版元の倒産で販売不能になった少年草野球小説『ラッキーパールズ』があります。


 昨年末には、江戸時代の文化文政期に、生まれ変わりの実例として江戸を騒がせた人物の生涯を描いた『水底の記憶 程久保小僧勝五郎の数奇な生涯』を出版しました。

 

 

 

 

 

 

 

 SNSの怖いところは、流されている情報が事実とは限らないのに、視界に入ってくる「活字」や「画像」などによって、事実として受け取られてしまうところです。


 XについてもFBについてもYOUTUBEについても、その他すべてのSNSは発信者の裁量だけで情報がもたらされます。


 新聞やテレビ・ラジオのニュースのように一次情報を吟味精査して、不確かな伝聞はきっちりと裏を取ってから報道する、といった姿勢はほとんど見られません。


 事実なのか誤報なのか、あるいは意図されたフェイクなのかが判然としないのです。


 特に、世間を騒がしている事件や事故、犯罪に関してのSNSは、発信者がいかにも自分の目で見て、耳で聞いてきたような振りを装っていながら、実際は根も葉もないデマや作り話というケースが多いみたいです。


 そんなニセ情報を頭から信じてしまうほうがいけないのだ、と言われてしまえばそれまでですが、人は「はっとするような」情報ほど信じてしまいがちなものです。


 特にYOUTUBEなどは、閲覧回数が多いほど情報提供者の懐が潤う、といった構造になっているので、思わず興味を引くようなうそ情報や物語をいくつも創作しては垂れ流してくる輩が絶えません。


 そこに「これは創作です」と断りを入れると、「なんだー、うそか」と思われて、だれも見てくれなくなるからでしょうね。


 自己利益だけのためにやっているのだとすれば、詐欺と断じてもおかしくありません。


 うそ情報は、特に悪口やパッシングによって、扱われた関係者だけではなく、それを信じた多くの人たちの心をも傷つけます。


 この情報、本当だろうか? と思ったら、例えばAIに照会してもいいでしょう。


 情報をうのみにするのではなく、それが事実かどうかを一度疑い、さまざまな方面から裏を確かめる習慣をつけたいものです。

 

 

 

 もうだいぶ前から家電が鳴っても、慌てて受話器を取りにいくことがなくなりました。


 電話機には、かけてきた相手の電話番号または(登録している)名前が出てきます。


 しかし、ここ数年は、正体のよくわからない営業または詐欺目的と思われるような電話ばかりがかかってきます。


 家電は終日、留守録対応にしていますが、メッセージをお願いするテープが流れると、声を残していく相手は皆無です。


 昔は、仕事関係の原稿やゲラのやり取りを家電のファックスで行っていましたが、いまではパソコンがあればOKですね。


 電話のやりとりはスマホに変わって、家電はすっかり不要の時代になりました。


 SFの巨匠、リチャード・マシスン(1926~2013)の短編に「遠い電話(Long Distance)」という作品があります。


 暴風が窓外の立木をなぎ倒していったある夜、ひとり暮らしの老女の家の寝室にある電話が鳴り出します。


 受話器を取って耳にあてても、微かに怪しい音がするだけで、人の声は聞こえません。


 暴風で電話線が切れたための故障だろうと思ったのですが、それがたびたびとなって、ついにはだれとも知れない相手のささやき声が「もしもし」と返ってきます。


 ラストは、つぶやくような男の声が「すぐそちらへ行きます」と告げた先で、暴風で切れた電話線が共同墓地の地面に垂れていた、という怖ろしいオチにつながるのです。


 大好きなこの作品のアイデアをもとに、ぼくも『ナイトメアのフカシギクラブ』という短編集に「かかってきたイエデン」という一本を書きました(登場人物も展開もオチも別物の、いわばオマージュです)。


 いまはスマホになりそうですが、だれがかけてきたのかわからない、実は意外な相手、という「怪しい電話もの」物語の展開やオチは、何通りも考えられそうで楽しいですね。

 

 

 

 2025年9月10日、稲垣真澄さんが享年77歳で亡くなりました。

 

 誤嚥性肺炎だったそうです。


 稲垣さんは、ぼくが新聞社に勤めていた頃の職場の先輩です。


 東京・大手町にある新聞社が発行していた週刊誌の編集部で、知り合いました。


 週刊誌の記者と言えば、生き馬の目を抜くような仕事、と思われがちですが、稲垣さんはまったく逆のタイプでした。


 辺りがいくら熱気に包まれて、騒がしく、ばたばたしていても、本人はいつも落ち着き払っており、冷静に自らの心と対話を続けている、みたいな人柄に見えました。


 実家が愛知県にある寺だったので、幼少の頃から諸行無常ではありませんが、執着に囚われ難い僧侶のような精神を身にまとっていたのかもしれません。


 新聞社では月刊誌の各編集部を経た後、記者として文化部の編集委員を務めていた2006年に退社されました。


 還暦、つまり60歳定年を前にしての退社には、将来に向けての新たな人生設計があったのでしょうが、詳しい内容をぼくは知らされていませんでした。


 退社翌年の春、生涯に1冊となった著作『場所の心 時のすがた―文化部記者の見た日本』を、現代思潮新社から上梓されました。


 文化部記者として活躍していた約10年間のうちに新聞に掲載した署名記事の中から、風景・心・文化の3視点に分けて(恐らく)自選した短文集になっています。


 本書に収録した一篇「闇の中の繰り返し」では、こう書いています。


〈思えば命こそ〝繰り返し〟によって成り立っているのではあるまいか。(中略)つまりリズムを刻んでいるのが生命である。〉


 ぼくの解釈を重ねると、稲垣さんの魂もまた繰り返しによって、この世にいつか再び転生してくるものと信じています、合掌。