たからしげるブログ

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つれづれ思うことどもを不定期で発信しています。

大阪市生まれ。東京都中野区育ち。千葉県市原市在住。

 1年半ぶりの新刊『どっち? ラスト1行の四字熟語』が2月11日、発売となります。


 装丁・本文デザインは根本綾子さん、挿画はシライシユウコさんと、前作『ラスト1行の四字熟語』(2023年9月刊行)でお力をいただいたお二人と変わりありません。


 版元のPHP研究所児童書出版部の鈴木由季さんには、大変お世話になりました。


 今回の仕事を始めるにあたり、編集の鈴木さんと色々と考えた末にひらめいたのが「読者参加型」というアイデアでした。


 前作は一話を短時間で読み切れて、さまざまな子どもたちが登場し、内容が「不思議、奇妙、不可解」のオーラに包まれていて、物語のラスト1行に四字熟語が使われている、といったパターンの短編集でした。


 売れ行きはおかげさまで好調で、現在は重版が3刷までかかっています。


 今回もほぼ同じパターンの短編集ですが、変更した箇所は、ラスト1行に使われる四字熟語を□□□□と伏せ字にした直後に、AまたはB2つの四字熟語を記載して〈どっち?〉が適正かを読者に選んでもらう、という構成にしたところです。


 前作で使用した短編集の四字熟語(全100個)は、今作で使用した四字熟語(全138個)と重複していません。


 前作と今作の2冊を読めば、合わせて238個の、どれも日常よく知られていて中学高校の受験にも頻繁に登場してくるような四字熟語と出合うことができます。


 一応児童書ということで、読者対象は小中学生のみなさんですが、もちろん保護者、塾や学校の先生がたほか一般読者にも可愛がっていただければ幸甚です。


 前作同様今作も、決してお勉強のための読み物ではなく、各話を心から楽しんでいただくために全霊を込めて創作に励みました。


 全国の書店・ネットなどでご購入いただけますので、どうぞよろしくお願い致します。

 

 

 

 ここにきて、ぼくは毎日、家族(といってもカミさん)以外の人とは、ほとんど顔を合わせなくなってきました。


 娘はとっくの昔に嫁にいって、いまでは神奈川県在住の2児の母で、ご主人とは共働きの毎日を送っています。


 孫たちがわが家にくるのはうれしいのですが、思いのほかにお金を使ってしまうし、元気活発唯我独尊のやつらとのつきあいは体力的、精神的にも厳しいものがあります。


 去年はある夕刊紙のインタビュアーとして、月に一度ほどでしたが、著名作家さんと東京近辺でお会いするのが楽しい仕事でした。


 でも、その夕刊紙は今年になって休刊、というか事実上の廃刊となってしまい、同じような仕事にはもうありつけません。


 作家としての仕事は、この2月に2023年に出した四字熟語をテーマにした児童書の姉妹編が刊行されますが、担当の編集者とは一度、基本的な打ち合わせを千葉市内のケーキ屋で行った後は、ずっとメール交換で済ませてきました。


 じつは新刊本の企画があって、毎日午前中に少しずつ原稿を書き進めているのですが、細かい部分の編集者とのやり取りというか打ち合わせは、とにかくある程度の原稿を書き上げてからの話になっています。


 あまり売れていない作家と多忙な編集者との関係というのは微妙で、作家が苦労して書き上げた原稿も、編集者のほぼ一方的な判断によって、あっといまに反故にされてしまうという悲劇は決して珍しくありません。


 でも、それに屈していたら、いつまでたっても作家として自立はできません。


 厳しい年金生活ですから、本を出して稼がないと、先が見えてこないのです。


 終日わが家から一歩も外出しないまま、だれにもお会いすることなく日が暮れてしまう日々に、ぼくはこの頃、どこか倒錯したような安堵感を抱き始めているんですね。

全23編の短編集のそれぞれ最後の1行に使われる四字熟語を、読者自身が選んで楽しめるという仕掛けが話題になってもらえればと思います。先発の1冊とのあいだに、同じ四字熟語は重なっていません。現在、予約販売中です。

全25編の短編集のそれぞれ最後の1行に使われた四字熟語を、読者はごく自然な感覚で憶えてしまうというマジックが効いています。一般読者だけではなく、中学・高校受験生にも最適の一冊です。3刷り好評重版中。

 

 少しばかり時期を逸してしまいましたが、あけましておめでとうございます。


 すでに新春を背景にばりばりと仕事をこなされているみなさんは、ずっこけるかもしれませんが、お赦しください。


 というのも、今年の正月はぼく自身体調を崩してしまい、スタート時期のまる1週間、ほとんど体を動かせませんでした。


 昨年末、カミさんがインフルエンザっぽい発熱に襲われて、その看病をしているうちにぼくのほうにも病が伝わってきて、大晦日になってついに発熱してしまいました。


 カミさんが発熱した原因は、それより数日前に横浜在住の孫娘が発熱して、ふたりで看護に出かけたのが発端かと思います。


 当初は1、2日の往復ですむかと思った看護でしたが、孫娘の体調は一進一退で、気がつけばまる4日間、通い詰めていました。


 娘は、転職したばかりでなかなか休みが取れないご主人との共働きで、7歳の孫娘と3歳の孫息子と暮らしています。


 娘のほうも、それまで何度も子どもたちの発熱に襲われて、年休をたくさん取ってしまっていて、すでに追加の休みが非常に取りずらい立場にありました。


 幸い、孫息子のほうは、幼児保育ができたのですが、昨年小学1年生になったばかりの孫娘には、それが叶いませんでした。


 孫娘の病名がインフルエンザA型と判明したのは、その最終日になってからでした。


 しかし、カミさんは発熱直後に病院で検査したところ、インフルエンザでもコロナでもないと判断されていたので、少しだけ安心はしていたのですけどね。


 結局のところ、カミさんも、続くぼくもインフルエンザそっくりの病状を呈しました。


 初め悪ければ後はよし、と勝手に決め込んで今年もすごしていきたいと思います。


 みなさんのご無事と、世界の平和が少しでも戻る1年になりますように!

本書は2月上旬発売予定です。現在、予約販売中。

上記図書の姉妹版(既刊)です。掲載した四字熟語にダブりはありません。

 

 植物に意識はあるかをパソコンで検索してみたら、AIの回答でこうありました。


 植物には脳や神経、心臓がないため、痛みを感じる能力はないと考えられています。


 また、動物のように鳴いたり言葉を発したりすることはできません。


 しかし、植物は環境の変化を感知し適宜に反応する様子が見られます。


 植物に意識があるという意見を支持する根拠には、次のようなものがあります。


 植物は、土壌や岩、水、バクテリア、近隣の植物との距離などを感知し、生存に必要な環境や資源を探しています。


 植物は、同種の根と他種の根を識別し、他種は排除しようとする動きをします。


 植物は、同種の仲間が弱っていると、栄養分を送って助け合います。


 植物は、近くに競争相手となる植物があると、相手より早く成長しようとして太陽光をより多く吸収します。


 植物に一定の音楽を聴かせると、葉が活性化して健康に育つという結果が出ています。


 一方、植物に意識はないという意見を支持する根拠には、次のようなものがあります。


 植物の行動は常に刺激への反応に基づいており、積極的な行動とは言えません。


 植物の電気生理学的シグナル伝達は、動物の神経系のような統合情報処理とは異なり、即時の生理学的機能を果たしているだけなので、意識を示すものではありません。


 以上、だいぶ長い引用になりましたが、結論としては「わからない」のですね。


 そもそも動物のいや、人間の意識だって、その完全な科学的解明は実際のところ、だれにもできないのが現状のようです。


 しかしもし植物に意識があって、人間と会話できるような知能を持っているとしたら、去年の冬にわが家にやってきたこのポインセチアくんは、1年以上を生き延びたいま、何を思っているか聞いてみたいものですね。

 これは金鎚です。


 どこかで買ってきたものではありません。


 作ったのは中川録次という人です。


 ぼくの母方の祖父です。


 いつごろ、どんなきっかけで手に入ったのか、いまとなっては記憶がありません。


 でも、録次さんが作ったと教えてくれたのは母でしたから、まちがいないでしょう。


 まだ中野の駅前団地に住んでいたころは、何かの工作や修理などで、この金鎚をときどき使った憶えがあります。


 でも、そのうちあまり使わなくなって、道具箱に放り入れたまま、ずいぶん歳月がたってしまいました。


 先日、ひょんなことから、何かを強く叩くものが必要になって、もしかしたら金鎚があったかもしれないぞ、と思い出しました。


 洗面所の扉の奥のほうにしまってあった道具箱の中を改めたら、見つかりました。


 これで叩くのは、肉です。


 例えばトンテキなどを焼く前に、生肉の上にラップをかけて、こいつで全体が平らになるまで叩いてやります。


 熱も通りやすくなるし、焼いた後の食感も柔らかくなっておいしく頂けます。


 それにしても、手で握る木製の柄の部分が理想的なカーブを描いていて、頭部にはめ込まれた鎚の重さと絶妙なバランスを保っているところが優れものです。


 いまは台所の食器棚の近くに、いつでも使えるように置いてあります。


 ぼくはこの金鎚を手にする度に、自分が高校生や大学生だったころ、すでに高齢だった録次さんの顔や姿を思い出します。


 器物には霊が宿るのでしょうか。


 録次さんは九十数歳まで生きました。


 母も九十五歳まで生きました。


 いまや録次さんも母も彼岸に旅立って、かなりの時間がたちましたが、この金鎚のことはどれくらい憶えていることでしょうか。

 15年前の2009年12月に投稿したブログが、いまも心に染み入るので再送します。

 タイトルは「本を出す」でした。

 以下に 新しい写真をつけて流します。

 

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 出版界に吹き荒れる不況の嵐は、ますます尋常ではないようだ。

 ここのところ、顔を合わせる出版関係者、特に編集者が口にする言葉には、共通するものがいくつかあるように思われる。

「本、売れませんねえ」

「編集だけの力では、なかなか企画がとおらないんですよ」

「冒険がね、前みたいにできなくて」

 どういうことかというと、本は売れてなんぼのものであって、編集者がいくらいい本を作っても、売れなければ意味がない。

 その傾向が、ここにきてぐんぐん強まってきているのである。

 この思想を一言で表すと、こうなる。

 売れなければ、本じゃない。

 わあ、すごい危険思想だ。

 さらにつき進めると、こうなる。

 売れる本が書けなきゃ、作家じゃない。

 つまり、この世にもはや「売れない作家」は存在しなくなる。

 さあ、どうしよう。

「すっきりして、いいんじゃない」

 だれかがいった。

 書店には(売れる作家の)売れる本ばかりが、どかどかと平積みになる。

 売れない本はすっかり排除されるから、店頭に並ぶ点数はぐーんとしぼられる。

 書店員だって、扱う点数が少なくなれば、どの本がどこにあるか、それがまたどんな内容かも、しっかり頭に入る。

 先日、P社のクリスマスパーティーにいったときも、そんな話題がとびかった。

「でも、暗いことばかりいってちゃだめよ」

 そのとき、ひさびさにお会いした作家のMさんが、いっていた。

「本になるっていうことは、だれかが認めてくれたってことなんだから。自分の作品に自信をもたなくちゃ」

 いつもいいこといってくれる。

 

 

 

 

 

 

 来年初頭に刊行予定の新刊の表紙が出来上がったので、ご紹介します。


 現在、PHP研究所から刊行中の『ラスト1行の四字熟語』(2023年10月刊、シライシユウコ装画、1320円税込)が、おかげさまでそこそこの売れ行きだったので、その続編となる本書を書き下ろしました。


 本文の最終的なゲラチェックはまだこれからですが、ラスト1行を四字熟語で終わらせるショートショート全23編(前回は25編)を確定させるまでの道のりは多難でした。


 まず、使用する四字熟語を前回で使用したものと重ねないようにしました。


 さらに、前回は100本だった四字熟語の数を、今回は138本に増やしました。


 また、これはというものが書けても、姿は乙女で心は鬼の編集者Sさんの(部分または一作品全部)ダメ出しが、容赦ありませんでした。


 作品の1編は7枚ほどですが、ひらめきがあれば一日で書けてしまうときもあれば、書き出してもなかなか展開できずに1週間ほどを費やして、結局途中で断念せざるを得なかったものもいくつかありました。


 まあ、書き換えや書き直し、放置期間などを挟んで、1年近くはかかったでしょうか。


 茨の道を駆け抜けて全編納得のいく自信作になったのは、一にも二にも編集者Sさんのおかげです(ありがとうございました)。


 前回は、時々チェックするAmazonのこども用短編集売れ行きランキングで相応の順位を上下していたのですが、9月末に初めての評価がいきなりついて、それが★2個(最高は★5個)のグローバル評価でした。


 コメントがついてないので、何が星の数を下げたのか、よくわかりません。


 まあ、好評不評で一喜一憂していても仕方がないので、前に進みましょう。


 今回は前回と異なり、各編「最後の1行」に読者参加の楽しいおまけ(四字熟語の二者択一問題)がついていますよー。

 

 

 

 いま、玄関のドアを少しあけて、外に広がる景色を眺めてみます。


 マンションの3階から視線を投げると、前方には二段構造の駐車場があって、何台かの車が並んでいるのが望めます。


 自分の目の網膜に映った光景を、脳が認識している、といっていいかもしれません。


 でも、厳密な意味では違うのではないでしょうか。


 網膜に映った光景を脳がとらえて、そこはどこか、あれは何か、これを自分はどう思うか、といった気持ちを生じさせるのは、脳ではなく意識そのものによる働きではないでしょうか。


 つまり、こういうことです。


 前方の駐車場の上段に並んでいる車のうちの一台(薄いブルーの軽自動車としますか)に焦点を合わせて、この車はマンション4階に住んでいる鈴木さんの家の車だな、と感じるのは脳ではなくて意識の働きです。


 その車の左隣に停まっている、ちょっと古めのえんじ色のハードトップは、さて、どこの家の車だっけ?


 そうだよな、おれは管理人でもないし、ここに並んでいる車の一台一台がどこの家の車だなんて、わかるわけないじゃん。


 それより、きょうはけっこう天気がいいから、久しぶりに墓参りにでもいこうか。


 そうした思考を浮かび上がらせるのが、意識なるものの働きでした。


 で、その意識は脳から発せられるのは確かだと思いますが、しかし、脳が意識と同一かというと、そうではありません。


 脳が肉体の一部なら、意識はその肉体を操る何かに他ならないからです。


 何かの答えは一つしか考えられません。


 意識とは、肉体に宿る魂です。


 この事実を明確に理解すると、意識(魂)とは自分だけではなく同胞である他人の肉体も同様に、リスペクトを持って大切に扱わなければならない存在だ、という宇宙の真実が見えてくるのではないかと思うのです。

 自分とは「ぼく」「わたし」のことです。


 ぼくやわたしが、自分のことを自分と感じているのは、意識があるからです。


 いま、そんな自分がここにこうして存在している現実を、五感を持って観察し、確認できている、この自分の意識が、脳と密接につながっているのは確かだと思います。


 しかし、脳=意識ではなく、脳は意識を自分にもたらせるための肉体=媒体に過ぎないのではないでしょうか。


 脳は自分がこの世に生まれてから現在にいたるまでに体験してきたすべての事象を逐一おぼえているわけではありません。


 これまで自分が過ごしてきた人生の大概の記憶は、風に吹かれて飛散して消えていった灰のように、いまや跡形も残っていません。


 それでもある日突然、脳ではなくて意識によって、これまで過ごしてきた人生の全記憶がよみがえるときがある、とききました。


 臨死体験でライフレビュー(人生回顧)をするのは、脳ではなくて意識のようです。


 記憶喪失などで自分がどこのだれなのか、なぜいまここにいるのかがわからなくても、自分が自分であることは確かです。


 いま、仕事部屋の机の前で、椅子にすわって周囲を見るともなしに見ているのですが、ここで感じているのは、自分は自分以外の何者でもないといった認識です。


 この認識だけは、決して他人に譲れない感覚であり、すなわち自分の意識は自分の肉体に宿っている魂と同等のものにちがいない、といった確証が得られます。


 人は死後、意識が魂となってどこかへ飛んでいくと言われますが、その魂が過去・前世のすべての記憶を忘れ去っても、自分が自分であることは動かせない事実でしょう。


 生まれ変わりがあって、いまの自分の意識が、記憶だけをなくしたまま来世を迎えるのだとしたら、その自分といまの自分とでは、どこがどうちがうのでしょうか?


 

 だれだって、自分を大切にしなければいけないのは当然のことです。


 自分という存在は、自分だけの力でこの世に生まれてきたわけではありません。


 両親がいて、それぞれにそのまた両親がいて、そのまたそれぞれに両親がいて、過去にさかのぼればさかのぼるほど、いまの自分をこの世に送り出してくれた人たちの数は天文学的数値になっていきます。


 そのうちのひとりでも親が違っていたら、いまの自分と生物学的に(DNAが)まったく同一の存在は、この地上に現れていなかったといってもいいでしょう。


 これほど驚くべきわずかな確率でこの世に生まれてきた自分ですから、もし自分で自分のことを貶しめているような人がいたら、いますぐ心を入れ替えましょうね。


 一方、自分以外の他人は、自分にとってどんな存在なのでしょうか?


 自分に関係のある家族や友人知人、広い意味での近親者であっても、愛せる人と愛せない人、中には憎しみしか抱けない相手がいるかもしれません。


 まるで交流のない赤の他人ともなれば、自分には関係ない、とだれもが思いがちです。


 しかし、生まれ変わりを信じると、話は別になってきます。


 自分がこの世で出会う人たちの多くは、遠い過去からこの世に存在していたかつての自分と血縁関係だっただけではなく、さまざまな形で交わりを持った友人、知人、愛人、同胞だったのかもしれません。


 中には特定の時代で憎しみ合っていたとしても、それ以外の時代では愛や友情を分かち合った相手だとわかれば、赤の他人として無視することはできないはずです。


 その関係はただ、見えていないだけです。


 自分を大切にするのと同様に、どんな相手でもリスペクトする姿勢を貫けばきっと、世界はずっと平和になるはずです。


 その道のりは遠いのでしょうか。