たからしげるブログ

たからしげるブログ

つれづれ思うことどもを不定期で発信しています。

 先日、久しぶりに東京駅八重洲口界隈を訪れて、約40年ぶりに再会した旧友数人と楽しく充実した時間を過ごしました。


 街は生きていて日々生まれ変わっていて、この日の大都会も、各所に真新しい高層ビルが建ち並び、あちらこちらでクレーンが動きまわっている印象でした。


 帰りの電車内では、こんなことを考えていました。


 街が生まれ変わるのは、そこに暮らしている人たちが、絶えず変化を続けているからでしょう。


 いま生きている人たちも、いずれは年老いて故人となり、その人たちの子や孫の世代が街にあふれることになります。


 古いものが消えて、新しいものが生まれてくるのは、だれも逆らうことのできない自然の摂理ですね。


 タイムマシンのようなものに乗って、百年先の未来から現代にやってきた人がいるとしたら、どんな気持ちになるのでしょうか。


 不測の事故によって、奇しくもこの現代に降り立ってしまった若者を想像しました。


 現代に生きるぼくたちが「最新」と思っているものはどれも、取るに足らない古めかしいものと映るのでしょうか。


 建設作業が中途の状態にあるビルの工事現場を見て、どう思うでしょうか?


 百年後、そのビルは建っていた使命を終えて、すでに取り壊されて、その上にまた新しいビルが建っているかもしれません。


 いま生きて暮らしているほとんどの人たちの姿は、どこにもありません。


 そんな未来からやってきた若者は、自分が関わったことのない、若かりし日の祖父母やそのまた両親や、彼らの友人知人らと会ったら、どんな会話を交わすのでしょうか?


 若者同士、新しいつきあいを始めることができるかもしれません。


 年の差なんて、つけようがないのですから。

 

 

 人間、喜寿を越えてしまうと、ある意味達観した人生が送れるのかもしれないと考えていたのは軽率でした。


 とんでもありません。


 高齢に達することは、ひたすら肉体が衰えるだけで、純然たる精神への影響は皆無と言ってもいいでしょう。


 確かに時が過ぎれば過ぎるほど、この世に生を受けた肉体は摩耗が著しくなってきて、そこかしこに不具合が生じてきます。


 しかし、肉体に宿っている魂は、おしゃべり人形に埋め込まれた乾電池の電力が弱まっていくように、日々衰退していくわけではありません。


 よく、記憶力が減退するとか、頭の回転が弱まるとかいいますが、それは魂ではなくて肉体の老化が原因です。


 これを、脳細胞の老朽化、または退化と呼んでもいいかもしれません。


 ぼくはそうした分野の専門家ではありませんが、実感として捉えられるのです。


 長年スポーツなどで体を鍛えてきた人が、しばらく試合や練習と遠ざかり、筋肉の鍛錬をスルーしていると、あるきっかけでいきなり体を動かそうとしても、思い通りにはなかなかいかないものです。


 ここで言う「思い」がすなわち、精神であり、つまりは魂そのものなのです。


 運転手がいくら意固地になっても、ポンコツ車は、新車だったころに比べるとまるでスムースに走らないのと同じです。


 でも、その運転手の運転技術に問題があるわけではありません。


 ところで、人間は肉体と魂によって生きているという構造そのものは、科学的に証明されているのでしょうか。


 太古から、そうは言われてきていますが。


 たとえ肉体が衰えても、魂の輝きは普遍であることを噛みしめたくて、ぼくは児童書の執筆に拘っているのかもしれません。

 

 

 

 

 たとえば、仕事でどこかへ出かけようとする直前、どうでもいいセールスの家電がかかってきて、話をきいてからお断りするまでの応対に一、二分を費やしたとします。


 駅まで急ぎ足で歩いていきましたが、乗るべき電車を一本逃してしまいました。


 さっきの電話さえなかったら、きっと乗れた電車だったのに、と歯がゆい思いをしたことはありませんか?


 逃した電車に乗っていれば、その後のいつか降りかかってきただろう災いがあったことに、あなたはいつまでも気がつきません。


 あるいは、車で駐車場を出ようとしたら、目の前に知り合いの家族が現れて、久しぶりの会話に五分ほどをかけてしまいました。


 それじゃ、と手を振り合って車を出しますが、出発がだいぶ遅れました。


 知り合いの家族に出遭わなければ、途中のとんでもない場所で、とんでもない災厄に遭遇していただろう運命だったことなど、あなたはつゆほども知らないのです。


 その逆もありです。


 初対面の相手と、指定された場所で正午に待ち合わせをしているのですが、このときに限ってなぜか道に迷い続けて、渡りたい横断歩道の信号も赤ばかりです。


 それでも遅れちゃまずいと思い、場合によっては走りに走り汗みずくになりながら、どうにかぎりぎりで到着しました。


 ところが、相手はなかなか現れません。


 その場で二十分近くも待ちぼうけを食らって、相手の携帯に連絡すると、約束の時間が一時間もちがっていたのです。


 以上は、日々刻々あなたの身の安全や生活の細部に留意してくれている、目に見えない時の精霊のなせる業といっていいでしょう。


 守護霊と呼ぶ人もいるようです。


 何ごとにつけても、正常に流れている時間が不意に乱されたときは慌てないことです。


 時の流れに身を任せることは大切です。

 

 

 秋が深まると、北東寄りにある仕事部屋の気温が日ごとに下がってきました。


 今年は暖冬になると言われていますが、それでも冬は寒くないと冬らしくありません。


 暖房設備のないこの部屋では、窓にプラ段をかけて二重にして、厚着をして、ひざには毛布をかけてパソコンに向かったり、ネットの映画を観賞したりします。


 それでも堪えきれないくらい寒くなってきたら、パソコンごと部屋を脱出して、暖房の効いた居間に避難する予定です。


 BGMはスピーカーから直接ではなくて、イヤホーンに頼ることになるでしょう。


 家人が「親友」と呼んでいるテレビをみることは、ほとんどありません。


 先月、足かけ2年をかけて仕上げた短編集『ラスト1行の四字熟語』(PHP研究所)ですが、地元紙の「千葉日報」と、全国紙の「東京(中日)新聞」に取材していただき、他にもいくつかの媒体やSNSを通じて本の紹介をしてもらいました。


 おかげさまで、これまで出してきた本に比べると、出足は好調のような気がします。


 子どもたちが勉強としてではなく、娯楽として楽しむものの一つに読書があります。


 だれだって「おもしろそうな話」は、聞いてみたいし、読んでみたいと思うはず。


 2年前には同じ版元から『ナイトメアのフカシギクラブ』を出して、これも子どもたちには興味のありそうな「こわい話」「不可思議な話」の短編集を出しました。


 今回は、そうしたテイストを取り入れながら、さらに「奇妙な」「怪しい」「楽しい」短編作品の、いずれもラスト1行を四字熟語の導入で終わらせています。


 帯には「中学受験頻出」とありますが、決して勉強の本ではなくて、娯楽の本であることを強調しておきたいです。


 自然に多くの四字熟語の使い方が身に着くのは、嬉しい副産物かもしれませんね。

 

 

 

 

 アファメーション(affirmation)という言葉をご存じでしょうか。


「肯定」「確信」という意味です。


 人生には迷いがつきものですが、どんな迷いも、どうにかなるさ、なるようになるさと放っておくのは、あまりよくありません。


 なぜなら、迷いとは自分が進んでいる人生の分かれ道であって、右にいくか左にいくかを選択するのはどうあがいても、最終的には自分でしかないからです。


 例えば一緒に歩いている者、あるいは大多数が右にいくと決めたから、自分もそれにならおう、という行動も、選択の一つかもしれません。


 ただし、それは非常に消極的な選択であって、将来に禍根を残す恐れがあります。


 本当は左にいきたい、という思いがちらりとでもあれば、そう思った時点で、たとえひとりになっても左にいくのが正解でしょう。


 直感(心の声)に従う、というやつです。


 直感を与えてくれる存在があるとしたら、それは、自分の無意識の底に潜んでいる、もうひとりの(本当の)自分であり、それを守護霊と呼ぶ人もいるみたいです。


 話をアファメーションに戻すと、これは「自分の無意識に向かって自ら呼びかける人生の指針」とでも言えるでしょうか。


 広大な宇宙の一辺に浮かぶ、生命にあふれた地球という惑星の、しかも人類という貴重な知的高等生命体(なのかどうかは若干の疑問が残りますが)の一員としていま、この世に生きている奇跡を一度、じっくりと噛みしめてみてください。


 その上で、自分が今後、どのように人生を切り拓いていきたいかを考えたとき、アファメーションは強力な味方になります。


 あしたの自分はこうありたい、という願望を自らの潜在意識に「直感」として送り込んで「思念」に変えるのが、アファメーションの働きです。

 

 

 9月22日に全国の書店に並び、アマゾンなどウェブストアでも発売となった拙著『ラスト1行の四字熟語』(PHP研究所・1320円税込)ですが、一喜一憂が続きます。


 どうしてもっとどっしりと、沈着冷静でいられないのでしょうか。


 発売の翌日でしたが、アマゾンの児童書短編集というジャンルでの売れ行きランキングで、たまさか4位という売り上げを目にしてしまい、平常心が保てなくなりました。


 このランキングは、同じジャンルで競い合っている同種の本の注文数(売れ行き)が作用し合って、数時間のうちに何度も忙しなく順位が上がったり下がったりするのです。


 思うに、この日はそれまで本書をウェブ予約してくれていた方々の数が一挙にカウントされて、売れ行きがぐんと上がったのではないかと思われます。


 というのも、その後、時間がたつにつれてランキングの順位は、徐々に下降を続け、数日後には95位まで後退したのですから。


 ところが10月4日になって、千葉県の地元紙「千葉日報」にインタビューしていただいた記事がアップされると、アマゾンのランキングは再び13位まで上昇しました。


 こうなるともう、ばかですね。


 数時間ごとに現在のランキングをチェックするようになって、競争と比較という鬼の呪縛に囚われてしまいました。


 そんな折に読んだのが、中村文則氏の新作『列』(講談社・1540円税込)でした。


〈あらゆるところに、ただ列が溢れているだけだ。何かの競争や比較から離れれば、今度はゆとりや心の平安の、競争や比較が始まることになる。私達はそうやって、互いを常に苦しめ続ける(本文より)〉


 どんぴしゃで、心を射抜かれました。


 天の声が言います。


 おまえなあ、本が出たんだから、それだけでよしとしてジタバタしなさんな。

 

 

 

 昔から中学・高校入試の国語問題には、四字熟語が頻繁に出題されてきました。


 受験生の多くは、ぎりぎりになって脳みそに詰め込むケースが多いようですが、付け焼刃の暗記は蒸発するのも早いようです。


 新聞記者時代に児童書作家となり、定年後は学習塾のバイト講師を数年間体験した著者は、もっと血となり肉となる学習方法はないものだろうか、と考えました。


 そこでひらめいたのが、一話を4、5分で読めるショートショート(創作短編)のラスト1行を四字熟語で終わらせたらどうだろう、というアイデアでした。


 本書をぱらぱらとめくってみると、例えば「孤立無援」という一話があります。


 もちろん児童書ですから、小学生に難解な漢字にはすべてルビが振ってあります。


 あらすじはネタバレになってしまうので控えますが、ラスト1行は〈男の子の顔がさっと青くなり、孤立無援の表情が浮かび上がった。〉で終わっています。


 それまでの興味深い展開と意外な結末に心揺さぶられれば、「孤立無援」の漢字も、読みも、意味も、すんなりと自然体で読者の脳みその一部になっていくでしょう。


 そんな四字熟語でラスト1行を締めくくった、すべて書き下ろしの「世にも奇妙な(と編集者さんは書いてくれました)」ショートショート全25話を収録しています。


 さらに、それぞれの物語で使った四字熟語と、その類義語、対義語、関連語を例文付きで、各物語の末尾に紹介しています。


 ということで本書には計100本の四字熟語が詰まっている計算になります。


 著者は、本書について「四字熟語のお堅い勉強本ではなく、あくまでも読んで愉しめる短編集です」と話しています。


 装丁・本文デザインは根本綾子さん、装画はシライシユウコさんの腕によりかけです。


 拙書『ラスト1行の四字熟語』きょう22日、PHP研究所より発売となりました。

 

 


 

 不思議な夢を見ました。


 空を飛んでいるのです。


 眼下には、地上の風景が広がって、少しずつ移動しています。


 飛行機に乗っているのではありません。


 飛んでいるのは自分自身なのですが、肉体の感触がどこにもないのです。


 風になった気分です。


 どこへ向かっているかというと、それが、だれかを探しているのです。


 ぼくの知らない人です。


 知らない人なのに、どうやって探せばいいかというと、見つけたときに、あ、この人だとわかるはずなのです。


 眼下に住宅街が迫ってきました。


 ぼくはその人を見つけて、急降下しているみたいです。


 その人の顔と姿がよく見えてきました。


 若い女の人です。


 もちろん、女の人でなければいけなかったことに、いま、気がつきました。


 名前は、知りません。


 彼女はいま、犬の散歩を終えて、家に帰ってきたところです。


 一戸建ての二階家で、茶色い屋根瓦が日を浴びて輝いています。


 犬を、庭にある犬小屋に戻した彼女は、玄関のドアをあけて、家の中に入ります。


 すでに地上に降り立ったぼくは、彼女の後を追いかけていきます。


 ドアが閉まっているのに、ぼくはもう、家の中に入っています。


 彼女は、そんなぼくの存在にまるで気がついていないようです。


 だれもいない居間にいった彼女は、大きなソファによっこらしょ、と座ります。


 視界が優しく暗くなって、揺らぎました。


 ぼくはどっぷりとした幸せに浸かります。


 譬えようもなく満ち足りた気分です。


 そこで、目が醒めたのです。

 

※本書の予定日は9月22日です。

 不思議な夢を見ました。


 コッペパンみたいな形をしたUFOが、目の前にある広場に落ちてきます。


 大きな音がして、落ちたUFOからは、赤い炎と黒い煙が上がっています。


 これは着陸ではなくて墜落にちがいないと考えたぼくは、現場に走っていきます。


 地べたとの衝突で完全にひしゃげてしまったUFOの正体は宇宙船のようで、大きく割れた窓らしいところから、怪しい形状をした生物が、飛び出してきます。


 どんな形状かというと、異様に大きな頭を持っていて、手足は二本ずつあるのですが、その細長さが尋常ではありません。


 しかも、鎧のような服をまとっています。


 宇宙人、すなわちET(エクストラ・テレストリアル=地球外生命体)です。


 ぼくは近づいていって、声をかけます。


 大丈夫ですか?


 ヤバイコトニナッチマッタ。


 はっきりと、そう言ったのです。


 ぼくは、そいつがいま、何をしたいのかきくと、こんな答えが返ってきます。


 ジカンヲモドシテ、コノジコノ、オオモトヲ、タトウトオモウノダガ、イマ、ナンジ?


 ぼくはスマホを手に、時刻を教えます。


 夕方の七時ちょうどです。


 デハ、コノワクセイノ、ゼンタイヲ、イマカラジュウニジカンマエニ、モドシチャエ。


 異様な音が鳴り響いたかと思うと、景色が一変します。


 朝の七時の目覚まし時計が鳴っています。


 変な夢を見ちゃったな……。


 ぼくは寝床から起き上がります。


 いつもと変わらない朝なのに、どこかで一度味わったような感触が、一つひとつの動作や視界にまとわりついてきます。


 デジャヴかよ。


 なら、ぼくにもやり直したいことがある。


 そこで、目が醒めたのです。

 

 

 不思議な夢を見ました。


 何を目的にしているのかよくわからないのですが、ぼくは列に並んでいます。


 辺りには、並んでいるととてもよいものを手に入れることができる、という緊張を伴った雰囲気が漂っています。


 それは先着順であって、あまり後ろのほうに並ぶと、その何かを手にするチャンスを失うことになるかもしれません。


 でも、いまのところは前から十数人目なので、余裕の順番待ちに思えます。


 一人、また一人と徐々に、ぼくの後ろにも列ができていきます。


 いきなり横合いから、ぼくの前に男性が一人割り込んできました。


 顔に見覚えはないのですが、この人はぼくの知り合いにちがいないという奇妙な感覚を覚えます。


 その証拠に、男性はぼくを見て、うれしそうに笑いながらうなずいてみせます。


 後ろに並んでいる人が、ぼくの背中をとんとん、とたたきました。


 振り返ると、言われました。


 あなたのお知り合いかもしれませんが、わたしにとっては順番が一つ後ろになったので、困りますね。


 その通りなので、ぼくは列を離れて、十人ほどを行き過ぎて最後尾へ移動します。


 しばらくたつと、知らない顔の女性が、ぼくの前に割り込んできて、言いました。


 ありがとう、助かったわ。


 その女性は、どうやらぼくの知り合いのような気がしてきます。


 後ろの人が背中を小突いて、言います。


 おれの順番が一人分、長くなったぞ。


 ぼくは列を離れて、最後尾に移ります。


 そのとき、鋭い笛の音とともに、命令口調の大きな声が天に響きます。


 全員、まわれ右!


 そこで、目が醒めたのです。