たからしげるブログ

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つれづれ思うことどもを不定期で発信しています。

大阪市生まれ。東京都中野区育ち。千葉県市原市在住。

 217号室のドアの直前で足音がやんだとき、Sはすでに玄関に向かっていた。ノブを回して開けてやると、目の前に五、六歳くらいの男の子が立っていた。Sの顔を見上げて「あそんでよ」と黄色い声を弾ませた。


 Dのたった一人の孫・Yは、Sが高校を卒業した年、Dの一人娘の一人息子として生まれていた。以後、Dの溺愛の対象になった。


 Sが自分よりずっと年下のYと接触があったのは、社会人になってまもなくのころだった。数年たってからは、その成長をDやその娘(Yの母)からきくだけで、顔を合わせる機会は次第に失われていった。だからこそ、Yが成人になって、社会で活躍を始めた矢先に不慮の事故で亡くなったという知らせを耳にしたときのSは、衝撃が大きかった。


「ねえ、おさんぽしようよ」

 

 まだ幼さの残る言葉遣いの幼年Yは、階段室に出てきたSの手を引っぱった。外が不意にほの明るくなった。夜が明けたという感じではなかった。夕暮れとも違う。世界がいきなり簿明に包まれたような不思議さだった。空全体に厚い雲がかかっていた。


 まだ幼児だったころのYしか記憶にないSは、一挙に再び二十代半ばに戻ったような体感を得ていた。ぐいぐいと手を引かれながら外に出て、辺りに人の気配がまるでない団地の全貌を見渡した。静けさが際立った。


 団地の北側には駅のホームと線路が位置していた。線路と並行して走っている車道は、いつも人や車の往来が頻繁だった。ところがいま、その辺りはどこもかしこも無人で、街が立てる喧騒一つ流れてこなかった。

 

 幼年Yと並んでSは、団地の北西にある出入口に近づいていった。そうだ、このまま歩いていって団地の外に出てみよう。街がどうなっているか、Sは強い興味を引かれた。


 不思議が起きた。いくら歩いても鉄道のホームと線路を背景にした団地の出入口まで、二人はたどり着けないのだった。(続く)

 

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 Sの母は何を言おうとしているのか。Dと顔を見合わせているのはなぜだろう。Sはヒントになりそうな、いま母が口にした「お知らせ」の中身を知りたかった。


 言葉に出さなくても、Sの気持ちはすぐに相手の二人に伝わった。


「Sちゃん、それはね」と、Dが切り出すと、Sの母がすぐに言葉を重ねた。


「うん、そうよそうよ。だったら、お知らせがこないのは当たり前だったわ」


 何のことか、Sにはさっぱりわからない。Dが言葉で説明してくれた。


「Sちゃんがこんな世界を創ってくれたなんて、おばちゃんもお母さんもぜんぜん知らなかったわ。だから、もしかしたらSちゃんがわたしたちのお仲間になったのかもと勘違いして、お母さんは慌てちゃったのよ」


「そうなのよ」と、Sの母がDにうなずきかけながら、息子を見て後を続けた。


「ここはあなたが創った世界で、わたしたちはお呼ばれしただけだったのね。お母さん慌て者だから、ここはあなたがまだこなくてもいいはずの世界なのに、と思っていたの」


 すぐにDが「Sちゃんの気にしたお知らせっていうのはね」と説明しようとしたら、Sの母が「それはあなた、まだ知らなくてもいい問題よ。しばらくの間は……」と、お茶を濁すように割って入った。


 Sは理解した。DもSの母も、いまはあの世の住人だった。この世で死ぬまでに重ねてきた老醜はすっかり拭われていた。二人が口にした「お知らせ」とはつまり、あの世における訃報のようなものなのだろう。


 さて、その場に立ったままのSは、Dのたった一人の孫で、子どものころにはこの家で遊んだこともあるYが、社会人になってから事故死したことを思い出した。


 階段室に小さな足音がした。Dが表情を明るくして「きたきた」と言った。Sはもう、だれがきたのかわかっていた。(続く)

 

時の彼方の中野住宅|たからしげるブログ


 

 217号室の開いたドアから顔を覗かせたのは、この団地で生前、Sの母と親しく付き合っていた主婦仲間のDだった。


「久しぶりだわね、Sちゃん。お仕事の帰りかしら。いま、お母さんがうちにいらっしゃってるの。ちょっと寄っていらっしゃい」


 Dは、Sが成人して社会人になって結婚して団地を出ていってからも、Sのことをちゃんづけで呼んでいた。SのほうもDのことは少年のころと同様に、Dに「おばちゃん」をつけて呼んでいた。


 Dは、かつて年を重ねてだいぶ高齢の婦人になったときに比べると、ずいぶん溌剌としていて若返って見えた。染めているのか地毛かは不明だが、黒々とした髪もたっぷりあった。ところが、これまでのように相手に合わせて年を蘇らせているはずのSのほうは、あまり時を遡った気がしなかった。


 誘われるままにSは217号室のドアをくぐった。家の構造は、Sが住んでいた226号室とは対照的で、玄関から見て右側が南の六畳間、左側が北の四畳半になっている。最初に目に入ってきたのは、南側のベランダに向かって置いてある16型のテレビだった。


 Dが部屋に戻ると、テレビの近くの食卓の椅子に客人として座っているのがSの母だった。彼女はDと変わらないくらい若々しくてきれいな肌をしていた。髪も黒く肌の色つやもよく、背筋はぴんと伸びていた。


 いまの自分はいったいいくつくらいの年齢に蘇っているのか。Sは自問したが答えは出てこなかった。と、しばらく息子の顔を眺めていた母が「うちに寄るんだったら電話してくれたらよかったのに」と言ってから、はっとしたように「ちょっと待って、あなた、もしかして……」と声を鋭くした。


 Sの母は、不意に息子の姿に何かよくない兆候を見つけたみたいだった。「なかったわよ、お知らせ……」と続けて、その場に立っているDと顔を見合わせた。(続く)

 

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 地上の階段室入口まで降りていって、青白く輝く月光を浴びながら深夜の暗闇の中に溶け込む団地の敷地全体に目を投じたSは、さて、これからどうしたものかと考えた。


 しばらくこの異界に留まって、かつて親しく交際したいまは亡き者たちを思い浮かべるままに呼び出してみようか。あの世がどんなところなのか、複数の死者にきいてみるのも悪くない。われながらグッドアイデアだ。


 とたんにSは、腹の底から不可解な笑いが込み上げてきた。ここはどう考えても異世界には違いない。だが、さっき現れたK嬢によると、創ったのは自分の想念だという。この自分が、いったいどんな知恵だか妖力だかをもってこんな異世界をこしらえたのだろう。


 Sは天井灯が射す明かりをぼうっと受けた階段室を背に、団地の敷地内に数歩踏み出した。そこで背後の左上方を見上げると、226号室のカーテンも明かりもない四畳半の部屋の暗い窓がSを見下ろしていた。


 小学生のころだった。Sは学校から帰ってきて、家が留守だったときのことを思い出した。階段室を上り、一階と二階の間にある踊り場には、ガラス戸のついていない長方形の大きな窓がある。少年Sはそこを乗り越えて外壁に出る。足もとに突き出している階段室のコンクリートの屋根の上に立つ。端までいって226号室のミニベランダの手すりに腕を伸ばす。そこからは猿のような素早さでベランダによじ登り、鍵がかかっていないガラス戸を引き開けて家の中に侵入した。


 ある日、少年Sがまたそれをしていると、下の道から呼ぶ声がした。「Sちゃん、お家がお留守ならおばちゃんちにおいでよ」


 一階の217号室の住人Dだった。普段からDおばちゃんと呼んで慣れ親しんでいた少年Sは、ベランダのガラス戸を引き開けながら「大丈夫でーす」と答えたものだった。


 と、階段室の一階左手にある217号室のドアがいま、音もなく開いた。(続く)

 

時の彼方の中野住宅|たからしげるブログ

 Sは首を傾げた。先刻までこの異界に姿を見せるのは、あの世にいる死者だけだと思っていた。生きてこの世にいるMは呼び出せなかった。呼び出そうとした瞬間、それまで呼び出していた死者・K嬢の姿が消えていた。Mは現れなかった。家はカーテンも家具も消え去ったがらんどうに戻っていた。


 ところが、出てこないと思っていたMがいきなり団地の敷地に現れた。その姿は五十数年前の、この団地に住んでいた十歳くらいの少年になっていた。少年Mは、当時の少年Sと日常呼び合っていた三拍子の合図の口笛を吹いて、226号室の窓の下に立っていた。


 が、それはあまりにも刹那のまぼろしだった。次の瞬間、少年Mの姿はたちまち闇の奥にゆらりと溶けて消えてしまった。満月がそっくり雲間に隠れたわけではなかった。Sは呆気にとられた。戸惑うしかなかった。


 それとも少年Mはまだ、団地内のどこかを彷徨っているのだろうか。Sはがらんどうの家の中を玄関まで走った。ドアを押し開けて外に出ようとしてはっとした。ドアノブを回した自分の手には、青い血管がいくつも浮かび上がっていた。見慣れた老人の手だった。


 Sは玄関の壁にかけてある鏡を覗き見た。映っているのは、二十代後半の活力に満ちた男の顔ではなかった。遠からずくる古希を前にして人生に疲弊した高齢者の、老醜を帯びた顔だった。


 現在の自分の偽りない容貌を見つめて、Sは息を吐いた。こう考えた。子ども時代の懐かしい三拍子の口笛を吹いて自分を誘いにきた少年Mは、存命中のMの現在の姿ではなかった。Sの想念は過去の、子ども時代の想い出を元に、現在のMの身代わりのまぼろしを創り出していたのではないか、と。


 この異界では死者も生者も、Sが当時付き合っていた最良の時代を舞台に蘇ってくる。が、あの世からやってくる死者の滞在時間に比べて、この世の生者のそれは極端に短いのだ。Sは家を出て階下に向かった。(続く)

 

時の彼方の中野住宅|たからしげるブログ


 

 Sが目を閉じて「出てこいよ」と念じたMは、がらんどうになった室内のどこにも現れなかった。ドアにノックもきこえなかった。


 やっぱりな。Sは少しほっとする一方で、微妙に落胆もした。突然、わけのわからない異界に迷い込み、しかもそれは自分が創った想念の世界だなどと指摘されたのだった。自分の体験を客観的に共有して、一緒に考えてくれる相手がほしかった。幼なじみでいまも付き合いのあるMは最適だった。


 しかしSは、だれもいなくなったがらんどうの226号室で、かつて親しかった死者に対して僅かでも思念を抱けば、相手はたちどころに自分の前に現れるとわかった。どういう仕組みになっているかは不明だが、おそらく「あの世」からやってくるのだろう。


 この世に六十年以上も生きてきたSには、もう一度逢いたいと願う故人が何人もいた。一度に逢える人の数は限られているのかもしれない。Sの発している思念が弱まったり、新たに逢いたい人が出てきたりすると、いま逢っている相手は消える。226号室が無人になると、中もがらんどうになるのだった。


 窓の外は、相変わらずの真夜中だった。天空の雲間に顔を出している満月が照らす団地の敷地内に動くものはなかった。それどころか、敷地の外縁部にあるはずの別の敷地のマンションや駅前の建物類の影さえ、どこか薄ぼんやりとして闇に溶け込んでいた。


 そのとき、窓の外で、だれかが口笛を吹いた。子どものころにきき覚えた「レ」「ド」「レ」の三拍子だった。吹いたのはMに違いなかった。他にそんな者はいない。Sの名前を三音に託して○○○と呼ぶ子ども時代の懐かしい合図だった。Sの胸が高鳴った。


 窓から顔を出したSは、真下の舗道を窺った。少年時代のMが立って、見上げていた。「遊ぼうぜ」と手を振っている。Sは手を振り返した。とたんに少年Mの姿がゆらりと揺れて、闇の奥に消えてしまった。(続く)

 

時の彼方の中野住宅|たからしげるブログ

 SはK嬢に招かれるままに、ソファに腰を下ろした。二人で並ぶと、付き合っていた当時の気持ちが懐かしく蘇った。


 Sの母が台所で動いている気配が伝わってきた。Sが無視していると、二人のところまでやってこないうちに、母の気配は消えた。台所が静かになった。K嬢がささやいた。


「あなたがこの世界を創って、わたしのことを思い出してくれたから、ここにこうしてまた二人、この素敵な部屋で顔を合わせることができたのね」


「ああ。どうやらそうらしいけど……」


 答えながらSは、いまの自分が六十歳も半ばを迎えたじいさまではなく、若くして死んだK嬢に負けないくらいの溌剌とした青年に戻っていることをありがたく思った。


「それはあなたの想念が、わたしとお付き合いしていたころに合わせて、自分の体を蘇らせているからでしょう」


「そんなことができるんだ」


 K嬢は快活に笑って、前髪を揺すらせた。


「できるって、それはあなたがしていることだから、できるもできないもないでしょ」


 ということは、とSは考えた。この世界では自分が逢いたいと思う相手なら、だれにでも逢えるのだろうか……。


「だれにでもかどうかは、試してみないとわからないわね」


 Sは気がついた。逢えるのはきっと、死者に限られるんだ。いくら想念の世界だからといっても、いま地上で生を営んでいる相手を呼び出すことなんてできっこない。


「いろいろと条件がありそうね」


 試してみよう。Sは目を閉じた。生きていても呼び出してみたくなる相手は数人いた。中野住宅で育った幼なじみで、いまも達者に付き合っているMはどうだろう。


 Sは目を閉じてMを思った。一瞬にしてK嬢が消えていた。226号室はすっかり、夜のがらんどうになっていた。(続く)

 

■ 時の彼方の中野住宅|たからしげるブログ


 

 

 

 

 現実には地上からすっかり姿を消しているはずの中野住宅は、Sの考えるような「あの世」すなわち死後の世界なのだろうか。確かに、Sがこの世界の226号室で顔を合わせた人たちは、いずれも死者だった。


 この推測が正しければ、Sもまた死者の仲間ということになる。しかし、Sはどう振り返っても、自分が死んだ記憶を思い起こせなかった。いつ、どこで、どうやって自分は死んだのか……さっぱりだった。


 ソファに背を預けて自分のほうを見ているK嬢に再び目を戻しながら、Sは訊いた。


「君はその、いつ亡くなったのかな」


 何か言葉を返しているような顔になったK嬢の心を、Sは読めなかった。テレパシーは一方通行だった。すぐにK嬢は口を開いた。


「あなたと別れて三年後の秋でした。十二月には結婚する予定だったんですよ。でも、病気には勝てませんでした」


 言われてSは思い出した。K嬢は付き合っているときから病弱だった。インフルエンザから肺炎になって死んだと明かされた。


 Sがしばらく黙っていると、K嬢が手招きして、自分の隣りにくるように示した。


「あなたの心はわたしに読めるのに、わたしの心はあなたには読めない。それがどういうことか、教えてあげましょう」


「どういうことかな」


「あなたはまだ死んじゃいないわ。ここは、あなたが考えたような死後の世界でもなければ、夢の中でもパラレルワールドでもなく、あなたが創った想念の世界なの」


「想念の世界……」


 それを自分が創ったと言われて、Sは驚くしかなかった。また、そんな世界をなぜ、いつ、どうやって創ったのかと記憶をたぐっても、思い当たるふしがなかった。


「この部屋、わたし大好きだったわ」


 K嬢がつぶやいた。Sは自分の置かれている立場がまるでわからなくなった。(続く)

 

■第1回 時の彼方の中野住宅(1) | たからしげるブログ

 K嬢の顔を真正面から見ながら、Sは「こんなところで会うなんて思ってもいなかったよ」と懐かしさ半分、不意に襲ってきた疑念半分の声を震わせて言った。


 懐かしさは、別れてから四十年近くの歳月を年賀状一つやり取りせず、お互いにまったくの他人として生きてきたためだった。疑念のほうは、なぜという気持ちがSの胸に緊張をもたらした。K嬢はいま、何を伝えるために、どこからここへきたのか。別れを告げたあの日とまるで変わらない容貌を伴って。


 確かにS自身、先刻E嬢に指摘されて鏡を覗いたときは、別人に思われる青年がそこに映っていたので驚いた。その後にやってきたNも、台所から現れたSの母親も、学生時代のSの年齢に合わせたように、それぞれの時代の若さを蘇らせていた。


 いまここに姿を現したK嬢が、中野住宅の226号室で同様にして若さを蘇らせているのなら、ここはそうした法則のようなものに支配されている異界だと思えばいい。肉体が時間には左右されない世界なのだ。


 Sは思い返した。E嬢は若くして死んだのだから当然だが、Nは六十代まで生きて死んだ。Sの母親の享年は九十五歳だった。そんな二人の若返りに合わせて、K嬢もまた実際はやがて古希を迎える年齢に達しているはずなのに、見事に当時の若さを蘇らせている。


 待てよ。Sは仮定の中身を改めた。もしかしたら、状況はまるで異なっているのかもしれない。であれば、すべてに納得がいく。K嬢は、そしてS自身もまた、すでにこの世の人ではなくなっているのかもしれない。


 Sはソファに座っているK嬢の前まで歩いていくと、いまの自分がいくつに見えるか訊こうとした。とたんに返答がもたらされた。


「あなたはわたしより六つ年上だったわ」


「だった……。君はもう死んだのか」


 K嬢は首を横に振らなかった。一つ大きな息を吐いて、「はい」と答えた。(続く)

 

時の彼方の中野住宅(1) | たからしげるブログ

 Sはがらんどうの室内を歩いて、北側の四畳半の窓に近づいていった。ガラス戸を開けて顔を突き出した。頭上に青白く輝く満月を仰ぎ見ながら考えた。E嬢と死別後、三十二歳になって結婚するまでに、自分はいった何人の相手と恋に落ちてきただろう。


 そこでSは気がついた。恋愛関係の解消を自分のほうから相手に伝えたことは、これまで一度もなかった。どの恋愛も順風満帆に推移しているさなかに、必ず先方から嵐の発生と航海の断念が告げられた。


 雲間に顔を出した満月に照らされて、深夜の団地の集合棟は、闇にひっそりと沈んでいた。明かりはどこにもついていなかった。住民が寝静まっているからではない。この団地にはもう、だれも住んでいなかった。


 Sは思い返した。失恋する度に、自分のどこがいけなかったのかと自省したが、答えは見つからなかった。恋に落ちてしばらくしてから、Sはよく相手をこの家、226号室に連れてきて、母と面会させた。だれもが「いいお母さんね」と口をそろえた。


 ある女性は「お母さんみたいな人と一緒に料理がしたいわ」とまで言ってくれた。


 玄関のドアにノックが響いた。今度はだれがきたのだろう。予感があった。天井に明かりが灯った。窓はカーテンで塞がり、それまですっかり忘れていた家具類が、Sの記憶どおりの配置に並んで現れた。


 六畳間との仕切りを背に二人掛けのソファがあった。いま、そこにK嬢が座っていた。Sと目が合うと、きれいに切りそろえた前髪を揺すらせて、懐かしい声で言った。


「ずいぶんびっくりしているみたいね」


 Sはすぐに返事ができなかった。K嬢とはSが新聞社に入る前年、約一年間の就職浪人中に、バイト先の出版社で知り合っていた。まる三年ほどつき合って、別れた。


 その後のK嬢の消息を、Sはまったく掴めないまま現在に至っていた。(続く)

 

■第1回 時の彼方の中野住宅(1) | たからしげるブログ