Sは自分がこの異世界、中野住宅にやってきた時の状況を思い返した。いまからどれくらい前だったろうか。数十分前か、数時間前か、あるいは数日前だったかもしれない。時間の感覚がまるで掴めなかった。
その日、Sは夜遅くまで新宿にいた。学生時代に演劇研究部で仲のよかったWが、北海道から久しぶりに上京してきた。数人に声がかかった。宿泊先のホテルに集まったのは、W夫妻を含めて五人だった。夫妻を除く三人は男だった。二人は都内在住だった。Sだけが、千葉県の内房にある自宅から数時間かけて参加していた。
ホテル近くの居酒屋で、Wは三十数年ぶりに顔を合わせたSに開口一番、言った。
「そうか。Sはもう中野に住んでいなかったんだね。結婚して千葉県に引っ越したことをすっかり忘れていたよ。あのころはおれ、ちょくちょく中野に遊びにいってたからな」
「ここまでくるのに二時間かかったぞ」
全員が笑って、酒宴が始まった。
酔いが回るにつれて、昔話に花が咲いた。そのうちSも酔ってきた。居酒屋からはしごでカラオケ店に入った。午後十時を過ぎて、Sはそろそろ帰らないと電車がなくなってしまうと思った。そのうち頭の片隅に浮かんできたのが、中野住宅の226号室だった。
カラオケ店がお開きになるころ、Sは酩酊からくる眠気で頭がぼうっとしていた。スマホの時刻は午後十時半になっていた。
W夫妻はホテルに戻った。男三人で新宿駅まで歩いた。二人は山手線に向かった。残るSはふらつく頭と足で考えた。中野にいって母の世話になれば、あしたが楽になるぞ。
母も団地も、いまはもうこの世から消えていた。にもかかわらず、なぜそんな気持ちになったのか、Sは憶えていなかった。
こうして迷い込んだ謎の異世界から地上に戻るか、もう少し留まるか。Sはいま、その方法もわからずに躊躇していた。(続く)





