さっきまで母が座っていた食卓の椅子に、いまはOが座っていた。社会人になって数年後、Sが銀座の音楽教室に通っていたころに知り合った年上の人妻は、当時と少しも変わらない容貌をしていた。
Sの気持ちは複雑だった。あれから半世紀近く、お互いにずっと音信不通だったOに、当時のままの姿で再会できたのは懐かしさと喜びあふれるものだった。
一方で、この異世界にOが訪ねてきた背景を考えると、手放しで喜んではいられなかった。Oは既に物故したことになる。いつ、どこで、なぜ、という疑問が頭をかすめた。
神戸の出張から帰って数日後、Sが音楽教室にいくと、受付にOはいなかった。「変わったばかりです」と答えた女性にOの所在を訊くと、彼女は受付デスクの下から小さな封筒を取り出した。「辞めたOさんから頼まれました」と言って、Sに差し出した。
封筒に入っていた手紙には、こうあった。
〈S様。一夜限りでしたが、夢のような幸せをありがとうございました。貴方のことは一生忘れません。愛しています。でも、ごめんなさい。家に帰ってから初めて、私は夫が泣くのを見ました。あの人を独りに追い込むなんて、できないと知りました。約束した相手ですから連れ添います。貴方との関係は、先日限りにしなければなりません。どうぞ私を探さないでください。貴方の幸せを、いつまでも願っています。さようなら。O〉
その後、Sは手紙を燃やしてOに別れを告げた。読んだ内容は、ずっと忘れなかった。
あの日の幸せを思い出したOが最初に発した言葉は、しかしSの予想を裏切った。
「ああ、Sさんね。ここはどこなの。どうしてSさんがここにいらっしゃるの」
Sは返事に詰まった。
Oは226号室の居間の周囲を見回してから、首を傾げつつ言葉を続けた。
「ここは天国かと思ったわ……」(続く)


