たからしげるブログ

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つれづれ思うことどもを不定期で発信しています。

 あと3か月少しで今年が終わります。


 時がたつのは早いといいますが、これは単に、生きている人間の感覚の問題でしょう。


 夜、夢も見ずに眠っていると、時が過ぎていく感覚はどこにもありません。


 熟睡して、気がつくと朝を迎えているというのは、気分のよいものです。


 事故にあったり、手術で全身麻酔をかけられたりして意識を失い、次に目をあけたら翌日の病室のベッドの中だった、という経験を持っている人は少なくないでしょう。


 その瞬間に至るまでの時の経過が、5時間だろうと10時間だろうと、あるいは3日だろうと1週間だろうと、意識がなければあっというまでカウントできません。


 記憶がないから、その外側で進んでいた時の経過も認識できないのでしょう。


 人は死んだら意識を失い、したがって時の経過どころか、あらゆる感覚が無に帰するのだから、その境地に入るのを恐れる必要は何もない、とはよく言われてきました。


 一方で、死後は意識が魂となって肉体を抜け出し、いわゆる「あの世」へ旅立っていくのだから、その先には輪廻転生もあるはずだという考え方も、昨今では科学的に検証されるようになってきています。


 どちらが正しいかは、たとえ完全に死んだところで分からないでしょう。


 あらゆる感覚が無に帰したのでは、分かるわけもありませんし、「あの世」があることを当人が知っても、その事実をまだ生きている人たちに1から10まで完璧に報告することは、まず不可能と思われます。

 

 あるいは、そうした現象はすべて実にうまくできた完全な錯覚かもしれません。


 ただしぼくは、人間が想像できることのすべては、その存在に根拠のあるものばかりだと、微塵の疑いもなく信じているのです。

 

 きょう9月6日に満75歳となり、恐れ多くも後期高齢者の仲間入りを果たしました。


 父は74歳の10月5日に没しています。


 片方の親の寿命を、どうにか超えることができたわけですが、もう片方(母)は95歳まで生きました。


 WHO(世界保健機関)の統計によると、2023年度における日本人男性の平均寿命は世界2位の81・5歳、女性は世界1位の86・9歳だったとのことです。


 日本人って長生きなんですね。


 2023年9月、厚生労働省は、日本全国の100歳以上の高齢者が過去最多の9万2139人になったと発表しています。


 今年の発表(敬老の日以降)はきっと、その人数を上回るかもしれません。


 人の寿命は、どう決まるのでしょうか?


 落語「死神」(三遊亭円朝版)では、死神の家で燃えているロウソクの火が消えると、その人の命も消えることになっています。


 今は亡き長女は、1987年3月14日に、満2歳11か月で早世しました。


 彼女のロウソクの火を吹き消したのは、どこのどいつだったのでしょうか。


 それとも、命が消えたので、それを知らせるために火が消えたのかもしれません。


 神様が人を造ったとしたら、その人の寿命までは介入していないと思います。


 神様は沈黙して、人の世界に何が起きても干渉せず、ただ見ているだけなのでしょう。


 もしぼくが神様だったら、長生きした人も短命だった人も、たった一度の人生で終わらせたいとは思いません。


 同じ魂を、この世で何度も様々な条件下にある肉体に宿らせて、あらゆる体験を積み重ねさせて、磨き上げるのです。


 目的は、理想的に磨き上げられた魂を一つに統合して新しい宇宙に放ち、もうひとりの神様にして、いまは孤独の神様の友人、または伴侶にしたいのではないでしょうか?

 

 

 ある日、夢の中に、どこかで見たことがあるようなないような、ぼくと同じくらいの年恰好の男が出てきて、言います。


「ぼくは、あなたが夢の中で血縁の歴史の迷宮に足を踏み込ませないように、あの世から言い付かってきた、言わば夢先案内人です」


 戸惑いながらも、どうせ夢だと思って、いっしょに道を歩いていくと、男がいきなり立ち止まって、叫びます。


「おっと、ここで一時ストップだ!」


 闇から不意に巨大な正体不明の黒い塊がとびだしてきて、眼前を通過していきます。


 危ないところを助かったのか? どうせ夢だと思ってまた歩いていくと、今度は行く手にいかにも荘厳で美しい洋館が現れます。


「きょうの日付は?」


 男がきくので、ぼくは「たしか9月6日ではなかったでしょうか」と答えます。


「そうですね。あなたの誕生日です。では、栄えある誕生日のお祝いをしましょう」


 二人が館に入ると、どこまでも天井が高く広いホールには無数の人々が集まって、ハッピーバースデイの歌を声高に合唱しています。


 歌に合わせて歩き、主賓のテーブルについたぼくは、盛大な拍手で迎えられます。


 多くの来場者は、ぼくがこの世に生まれてくるためになくてはならなかった両親、それぞれの祖父母、また曾祖父母、そのまた肉親たちすなわち、ひとりでも欠けたら、いまのぼくはこの世にいなかったであろう、過去すべての世に実在した血縁者たちです。


 夢先案内人が明かします。


「あなたはこの世に、ぼくの代わりに生まれました。ぼくはあなたに機会を奪われて、惜しくもこの世に生まれてくることができなかった、その他大勢の、かつてあの世に無数に存在した、あなたになれそうでなれなかった者たちの代表です。きょうはあなたの誕生日だから、こんなにたくさんのご先祖様と一緒に、ここに集まっているのですよ……」

 

 

 大型台風が関東を直撃することになった前日の15日は、79回目の終戦記念日でした。


 その4日ほど前からわが家を訪れていた孫の7歳女児と、3歳男児は、祖父母にとって掌中の珠の珠たちと呼んでもいい存在ではあります。


 普段はとても仲がよくて、良好なきょうだい関係を維持しているようです。


 ところが、いったん争いごとが生じると、それは際限なくエスカレートしていきます。


 新しいオモチャの取り合い、親への甘えの奪い合い、相手に対する不満を表明する手出し足だしなど、火種は様々です。


 体力に負けて泣くのはほとんど弟ばかりですが、ときに姉も「お姉ちゃんでしょ」という理由で親に叱責されて泣きます。


 その泣き声は、どちらも部屋の天井を揺るがし、窓ガラスにひびが入るのではないかと危惧されるほどの激しさです。


 子どものけんかと国家同士の争いは、共通する部分がいくつもありますね。


 始まりはたいてい、お互いの利益損失、見解の相違などで、それが罵り合いになり、やがて暴力沙汰へと発展します。


 しかし、どんな姉弟げんかも、国家同士のような悲惨な結末にはなりません。


 大人になると、人を殺傷する武器を手にして、敵兵(という肩書を被せた同じ人間)を駆逐するための殺人行為が奨励されます。


 奨励するのは、国家権力を手にして、自らの権威や身分、地位などの保全や向上を画策する、わずかな数の権力者たちです。


 彼らは決して、戦場には出向きません。


 戦争は、それがいかなる大義を掲げた戦いであっても、国家権力に縛られて暮らしている一般市民にとっては百害あって一利なしの愚かな行為でした。


 終戦記念日、わが家で激しい戦闘の日々をくり返した二人は、またくるね、とそろって手を振り、荒れ果てた戦場を後にしました。

 

 

 

 

 森絵都さんのロングセラー『カラフル』を26年ぶりに再読しました。


 この作品が単行本となって理論社から刊行されたのは1998年7月でした。


 当時、ぼくは新聞社の文化部で編集委員をしており、読書欄を担当していました。


 読書欄の中でも、児童書を中心に動きまわっていたのは、娘が小学生から中学生になるころだったので、その年代の子どもたちが読む本に関心があったからかもしれません。


 また、余談ですが、前年7月に日本児童文学者協会と偕成社が共催で、一般公募して入選した短編をまとめて単行本にする「みんなこわい話」というシリーズの第4巻『図工室・うわさのミステリー』に、初めて自分の作品「墓地でひろった携帯電話」が掲載されたよろこびを引きずっていたころでもあります。


 1990年に講談社児童文学新人賞を受賞して作家デビューした森さんは、その後も椋鳩十児童文学賞や野間児童文芸賞など、児童書界の大賞を次々と射止めて、二度目の産経児童出版文化賞に輝いた『カラフル』を出したときは、すっかり第一線で活躍する売れっ子作家になっていました。


 今回、この作品を再読したのは、累計120万部突破の同作品が今月、文庫版を出していた文藝春秋から装いも新たにジュニア版として刊行されたのを機に、某夕刊紙から森さんのインタビューを依頼されたからです。


 魂、前世、自殺、生まれ変わり、人生、修行、家族、友人、青春……。


 物語を彩どるいくつものテーマが、それこそカラフルに塗り分けられて全体の創作世界を構築している本作品は、長い歳月を経て再読しても、初めて読んだ時と少しも変わらない感慨をもたらしてくれました。


 これまでに本作品を原作としたアニメや実写映画が数本作られていますが、本書未読の人たちは、まず原作を読んでから観るべし、と願う気持ちが一層強くなりました。

 

 

 高校時代、エレキバンドを組んだばかりの頃ですが、ある休日、学校の近くに住んでいたメンバーのひとり、上田益義の家に全員が集まって音出しの練習をしました。


 小さなギター用アンプに3人分のギターを突っ込んで、ぼくは買ったばかりのスネアドラムとハイハット(どちらもスタンド付きの新品)を持参しました。


 庭に面した縁側を演奏のステージに見立てて、アンプやドラム類をセットすると、かっこよく音をかき鳴らしたのです。


 今思うに、休日の閑静な住宅街に突然、エレキギターと太鼓を打ち鳴らす騒音隊が降り立ったかのようなご近所迷惑の所業でした。


 何曲目だったか忘れましたが、覚え始めている〈ブルドッグ〉のイントロ部分で、ぼくが叩こうとしたスネアドラムがスタンドから外れると、縁側から落ちてそのまま庭の向こうまでころころ転がっていったのです。


 日を浴びて銀色のフレームをきらめかせながら遠ざかっていったスネアドラムは、何と優雅でスリリングだったことでしょう。


 それから半世紀近くがたって、バンドを再結成する日がやってくるなんて、当時のだれひとり思ってはいなかったはずです。


 オリジナルメンバーだった4人のうち、古川光二は2015年4月3日、上田益義は2020年5月31日、それぞれ次の人生に備えるためにあの世へ戻っていきました。


 2019年7月13日、アローファイブの8回目の荻窪ライブが行われました。


 メンバーはリードギター・菅沼雅明、ベースギター・志村徳幸、リズムギター・吉良友孝、サイドギター・香川雅俊(やはり同級生で、このライブからの新登場です)、ドラムス・宝田茂樹と、MC・猪俣寛でした。


 編集者・森彩子、作家・みずのまい、同級生・天野輝夫らが熱唱、〈キャラバン〉では、画家・池田あきこ、みずのまいが、圧巻の華麗なる乱舞を披露してくれました。(敬称略・了)

 

CARAVAN by THE ARROW FIVE (youtube.com)

 

写真:上段左から、天野、猪俣、宝田、菅沼、吉良、下段左から、香川、みずの、森、志村、の各氏。

撮影:益永葉

 

▼このほど、おかげさまで3刷重版が決まりました▼

 

 

▼このほど、おかげさまで5刷重版が決まりました▼

 

 一つのライブが無事に終わると、しばらくは放心状態に陥るものの、やがてメンバーのだれかがだれかに連絡を入れて、次の練習はどうしようか? という話になります。


 練習とは、メンバー全員がスタジオに集まって音を合わせることです。


 それまでは、メンバー各自が自宅でCDやユーチューブなどで聴ける課題曲に合わせて個人練習に精を出す日々です。


 それが最近、自分も含めてどんどんサボり勝ちになってきているようでした。


 2017年7月2日、久々に晴海のスタジオに集合したメンバーは、菅沼雅明、志村徳幸、吉良友孝、宝田茂樹の4人でした。


 上田益義は参加しないというか、体力的に相当きつくなってきていました。


 その日、4人でどんな曲を練習したかは忘れましたが、最後に〈Wipe Out〉を叩いたことを憶えています。


 その後も上田は、練習に参加したりしなかったりをくり返しましたが、年が明けた2018年になると、ほとんどスタジオに姿を見せなくなりました。


 同年6月のブログには「これで、さよならライブ?」として、7月21日に通算7回目のライブを行います、と書きました。


 ライブでは、ゲストシンガーの編集者・森彩子がビートルズを数曲歌ってくれました。


 ライブが終わると、近くの居酒屋で恒例の打ち上げのようなものを開きました。


 その後、ライブの会場にくることが叶わなかった上田の自宅を訪ねました。


 上田は思っていたより元気そうでしたが、家の中でもベッドに横になっている時間が多いようで、鼻に酸素ボンベから延びているカニューラを、ずっと付けていました。


 ずいぶんうれしそうな声で、ライブの動画を観るのが楽しみだ、といっていました。


 後日、1部と2部に分けて行ったこの日のライブのすべてを、ユーチューブに(前後2本にして)収録しました。(敬称略・続く)

 

2018 7 21 1 (youtube.com)

 

2018 7 21 2 (youtube.com)


JR荻窪駅からライブハウスのある方向へ(青梅街道)歩く。

自宅でライブの録画を愉しみにしていた上田くん。

 

 ライブが終わって、暑い夏も過ぎると、ぼくたちは性懲りもなく光が丘のスタジオに集まって練習を再開することになりました。


 POCD(肺気腫)を患う上田益義は、徐々に体力を弱らせていきますが、それでも気力を振り絞って携帯用酸素ボンベを転がしながらスタジオにやってきていました。


 年が明けて2017年、ベースを担当する志村徳幸が中央区晴海の自宅近くに見つけた音楽スタジオは、そこに人を集めてライブができそうなほど広い空間が魅力的でした。


 第6回目のライブを〈New Spring Party〉と題して4月15日に開催することになりましたが、晴海のスタジオでは飲食が禁じられているので、場所はやはり、長年お世話になってきた荻窪のライブハウスになりました。


 上田の迎え送りは、リズムギターの吉良友孝がほぼ毎回、車を出してくれました。


 ライブ当日、上田は携帯用酸素ボンベとともに舞台に上がり、椅子に座ってギターを抱えて演奏に参加しました。


 当日は、おなじみの編集者・森彩子と、イラストレーター・カタノトモコが組む即席デュオ〈ブルードラゴン・ネアリーデッド〉が、歌と踊りで盛り上げてくれました。

 

バラバラ  アローファイブ&ブルードラゴン・ネアリーデッド (youtube.com)

 

Venus(ビーナス) アローファイブ&ブルードラゴン・ネアリーデッド (youtube.com)

 

春一番 アローファイブ&ブルードラゴン・ネアリーデッド (youtube.com)


 これにてアローファイブのライブは最終となり、バンドは解散ということになるかもしれないな、という懸念がよぎりました。


 ある意味、上田の持つ音楽的センスと、演奏に対する真摯な向上心の発揮が、アローファイブを支えてきたのかもしれません。


 正直、セミプロの域にも達していないぼくたちの演奏力を今後の練習で磨き上げていこうとするには、メンバー全員のたゆまぬ努力が必要なのでしょうが、歳には勝てません。


 書くことが好きな人が、だれでも本を出せる作家にはなれないのと同じです。


 書くことも演奏も「楽しければそれ以上は望まない」で納得できれば、それはそれで幸せなんだとは思いますが。(敬称略・続く)

アローファイブのメンバー6人:左から猪俣寛(MC)、上田益義(SG)、菅沼雅明(LG)、吉良友孝(RG)、宝田茂樹(DS)、志村徳幸(BG)と、ブルードラゴン・ネアリーデッドの2人:森彩子、カタノトモコ 写真:益永葉

 

 2016年の夏7月30日までに、アローファイブは光が丘のスタジオで通算11回の練習を重ねました。


 その日行われた第5回荻窪ライブのテーマは〈Let's Have A Summer Party〉でした。


 COPD(肺気腫)を患っている上田益義の体調は、日々、深刻なものになってきていました。


 喫煙は完全にご法度になりました。


 遠くへ外出するときには、鼻カニューラの付いた携帯用酸素ボンベを転がして移動しなければなりませんでした。


 上田の自宅から光が丘のスタジオまで、徒歩と電車で往復するのがだいぶきつくなってきていたので、そのうち吉良友孝が車で迎え送りをするようになりました。


 吉良が都合の悪い日は、猫のダヤンの池田あきこが車を出して迎え送りを代行してくれる日もありました。


 いつも電車を乗り継いで参加していたぼくも、何度か市原市の自宅から車を走らせて、代行を務めた日がありました。


 延々と、遠い道の往復でした。


 上田はアローファイブのサイドギターでしたが、そのピッキングには定評があり、音楽センスも歌もとても上手でした。

🎉
 当日、ライブのゲストとして歌と踊りを披露してくれたのは児童書作家・みずのまい、編集者・森彩子の二人でした。


 みずのには〈ヴァケーション〉を邦訳で、森にはキーボードを叩きながらの〈渚のバルコニー〉と、英語で〈マイ・ボニー〉をそれぞれ熱唱してもらいました。


 また、アローファイブのメンバーの同級生で、その後全国に名が知られるようになった人物は、画家で文筆家・池田あきこの他にもうひとり、俳優・木場勝己がいます。


 木場がライブを観にきたので、舞台に上げて、上田とデュオで〈想い出の渚〉を歌ってもらいました。(敬称略・続く)

ヴァケーション Vacation アローファイブ+森彩子、歌 みずのまい (youtube.com)

 

My Bonnie アローファイブ 歌 森彩子 (youtube.com)

 

想い出の渚 アローファイブ 歌 木場克己、上田益義 (youtube.com)

 

写真:左から猪俣寛、みずのまい、上田益義、菅沼雅明、森彩子、吉良友孝、志村徳幸、宝田茂樹の面々 撮影:益永葉

写真:〈想い出の渚〉を歌う木場勝己(中央)と、ギターを弾きながらデュオする上田益義(中央の左奥)、合わせて踊る池田あきこ(左) 撮影:益永葉

 

 2015年の3月になってまもなくのある日だったと思います。


 ぼくはリードギターの菅沼雅明と誘い合って、杉並区梅里に住むサイドギターの上田益義の家に遊びにいきました。


 3年前にバンドを再結成した頃の上田は、練馬区光が丘のスタジオでの練習後、打ち合わせの店に向かう途中で、ぼくに「ギター持って歩くのきついからタバコ買ってきてくれよ」と頼むほどのヘビースモーカーでした。


 当時の上田は、激しい運動をすると呼吸が苦しくなるCOPD(肺気腫)が進んできていたのですが、それに関してはずっとポーカーフェイスを貫いていました。


 まもなく、みんなにバレましたけれど。


 3人で顔を寄せ合って話しているうちに、大阪で暮らしている旧メンバーの古川光二がいま、何をしているかが気になりました。


 上田がスマホを取り出して連絡しました。


 電話に出てきた古川は、懐かしい声で元気を装っていましたが、終始少し苦しそうに咳込みながら、自分はいま肺がんの末期にあることを、ぼくたちに告げました。


 3人は交代で、旧友とのさりげない会話を交わし合いましたが、電話を切った後の余韻はずいぶん暗いものになりました。


 1か月後の4月3日早朝、目が覚めたときに、古川はもうこの世にはいませんでした。


 あっというまの旅立ちでした。


 この年の11月28日、アローファイブは通算4回目のライブを荻窪のライブハウスで行うことになりました。


 このライブから、やはり同級生の吉良友孝(サイドギター)がメンバーに加わり、編集者の森彩子とイラストレーターのカタノトモコが〈ブルードラゴン・ネアリーデッド〉というデュオを組んで出演してくれました。

 

 カタノにベースを弾かせてマイクを手にした志村徳幸の歌を含めたビートルズ・ナンバーを2曲お届けします。(敬称略・続く)

All My Loving (youtube.com)

 

Please Please Me (youtube.com)


写真 左から吉良友孝、宝田茂樹、上田益義、猪俣寛、志村徳幸、菅沼雅明、手前は左からカタノトモコ、森彩子(敬称略)

撮影 益永葉