たからしげるブログ

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つれづれ思うことどもを不定期で発信しています。

大阪市生まれ。東京都中野区育ち。千葉県市原市在住。

 2025年9月10日、稲垣真澄さんが享年77歳で亡くなりました。

 

 誤嚥性肺炎だったそうです。


 稲垣さんは、ぼくが新聞社に勤めていた頃の職場の先輩です。


 東京・大手町にある新聞社が発行していた週刊誌の編集部で、知り合いました。


 週刊誌の記者と言えば、生き馬の目を抜くような仕事、と思われがちですが、稲垣さんはまったく逆のタイプでした。


 辺りがいくら熱気に包まれて、騒がしく、ばたばたしていても、本人はいつも落ち着き払っており、冷静に自らの心と対話を続けている、みたいな人柄に見えました。


 実家が愛知県にある寺だったので、幼少の頃から諸行無常ではありませんが、執着に囚われ難い僧侶のような精神を身にまとっていたのかもしれません。


 新聞社では月刊誌の各編集部を経た後、記者として文化部の編集委員を務めていた2006年に退社されました。


 還暦、つまり60歳定年を前にしての退社には、将来に向けての新たな人生設計があったのでしょうが、詳しい内容をぼくは知らされていませんでした。


 退社翌年の春、生涯に1冊となった著作『場所の心 時のすがた―文化部記者の見た日本』を、現代思潮新社から上梓されました。


 文化部記者として活躍していた約10年間のうちに新聞に掲載した署名記事の中から、風景・心・文化の3視点に分けて(恐らく)自選した短文集になっています。


 本書に収録した一篇「闇の中の繰り返し」では、こう書いています。


〈思えば命こそ〝繰り返し〟によって成り立っているのではあるまいか。(中略)つまりリズムを刻んでいるのが生命である。〉


 ぼくの解釈を重ねると、稲垣さんの魂もまた繰り返しによって、この世にいつか再び転生してくるものと信じています、合掌。

 

 

 このごろよく思うのは、自分はこの世にどこからやってきて、死んだ後はどこへいってしまうのだろう? という謎です。


 そんな謎はいくら考えても、答えなんか見つからないのはよく分かっています。


 それでも思ってしまうのは、これまでにずいぶん多くの血縁、友人、知人らと人生の一時期を過ごした後、ある日を境にいきなり、永遠の別れをくり返してきたからです。


 それは「永遠」と言っても、自分の人生から消えていった人たちとはその後、この世では再会できなくても、いざ自分がこの世を去ったときには、もしかしたらと言う思いが、頭の片隅にあるからです。


 あり得ない、とは言えない問題ですね。


 太古から巷に当然のように流布している考えとして、人の体は肉体と魂によって構成されていて、肉体が滅んでも魂は滅ばない、とはされているものの、それを科学的に完全に証明した人はいません。


 もちろん、この世の人生はただ一度で、前世も来世もありゃしない、との考えも同じように、科学的には証明されていません。


 もし、前述の考えが正しければ、いまこの世に生きている人たちのほぼ全員が、この世に肉体を持って生きていた前世があり、死後も再び新しい肉体を持ってこの世に転生してくる来世が保証されていることになります。


 いや、人として保証されている、とまでは言えないかもしれません。


 輪廻転生があるとしても、自分の前世はイヌとかラマとかだったかもしれないし、来世は地球以外の星の住民になる可能性もありますからね。


 では、輪廻転生なんてなくて、人はこの世に生まれて死ぬのはたった一度だけ、永遠の魂など幻想に過ぎないと科学的に間違いなく証明されたとしたら、どうでしょうか?


 どこかのだれかさんのように、何ごとも自分さえよければの自己中心的で超利己的な考えの人たちが、一層増えるのでしょうか。

 

 

 都内芝公園にあるZ寺に、亡き両親の墓参りにいってきました。


 父はかつて、この寺の浄土宗出版事業協会主幹、同出版室長を務めていました。


 大殿の地下2階にある墓所はロッカー形式なので、数人が立ち入るだけで混雑の体を来たします。


 扉を開けて、鉦を鳴らし、線香をくゆらせて両手を合わせた先に、ふたりの遺影とそれぞれの享年が記されています。


 父は74歳、母は95歳でした。


 いま、父の没年を過ぎて数年が経過している兄もぼくも、どうやら「長生き」の部類に入ってきたみたいです。


 この日、運転してきたカーラジオで「あしたのことは考えても、あさってのことは考えるな」と、だれかが言っていました。


 あしたのことはどうにか予想がついても、あさって以降のことは何がどうなるか、ますますわからなくなってきていますね。


 ところで、物事は期待するとたいてい裏切られて、よくも悪くも、予想もしていなかった現実が姿を現すのはなぜだろう、と思ったことはありませんか?


 AIに質問したところ、期待は過去の経験をもとにして未来を推し量りますが、現実は常に、過去とは決別した新しい展開が待っているからだ、という回答を得ました。


 一理、ありますね。


 ただし、へそ曲がりのぼくは、その回答に少しだけ、こんなふうに抵抗したいのです。


 いじわるな運命の神様がいるのです。


 人間が虫のよい未来を期待すると、運命の神様は、おれが司っている運命を、お前の期待通りに通すのは沽券にかかわる。


 従って、よいことを期待したらそうはさせず、よくない未来を心に描くのなら、やはりそうはさせない結果をもたらしてやろう。


 そこにさらなるどんでん返しを加えてみせるのが、運命を司る神の醍醐味なのさ、と。

 

 

 

 

 かつてぼくは、JR中野駅から徒歩3分の距離にあった東京都住宅供給公社・中野住宅の2号棟226号室に住んでいました。


 小学校入学前から33歳で結婚するまで暮らしていたわけですから、いまでも濃厚な思い出がいくつも詰まっています。


 しかし、家庭を持って千葉県内で暮らすようになってから中野住宅の夢を見ることは、ほとんどありませんでした。


 全7棟248戸を抱えた、23区内では比較的規模の大きな団地でしたが、築60年以上の歳月による老朽化が進み、2019(平成元)年に惜しくも取り壊されました。


 そんないまごろになって、ぼくはたびたび中野住宅の夢を見るようになりました。


 それが、どれも似たような夢なのです。


 時刻はいつも夕暮れどきで、辺りには次第に宵闇が迫ってきています。


 どこかから帰ってきたぼくは、団地の敷地内に足を踏み入れながら、思います。


 中野住宅はもうないけれど、いまから千葉県の自宅に帰るのは大変だから、きょうはここに泊まろうかな。


 夢なので、思考形態は支離滅裂です。


 2号棟を目指して歩いていって、階段室の入口から226号室の窓を見上げると、ほのかな明かりがついています。


 だれかがいるみたいなのですが、それがだれなのかはまったく思い当たりません。


 階段室に入ると、1階の左右に向き合っている居室玄関ドアの左側が開いています。


 そこは、亡き母がいつも親しくおつき合いしていたDおばちゃんの居室です。


 奥から出てきたDおばちゃんが、ぼくを呼び止めます。


 するとこれは夢だと気が付いたぼくは、Dおばちゃんに言うのです。


「おばちゃん、もう死んでるんだから。早くあの世にいって、生まれ変わらなくちゃ」


 そこでたいてい、目が覚めるのです。

※ウェブの「財団法人東京都住宅協会 中野住宅」より、団地北側の出入口。

 

 

 
 
 
 

築60年を超えた古い駅前団地の一室で、息子たち二人がそれぞれ独立して家を出ていったあと、長く独り暮らしを続けてきた高齢の、体力の衰えも著しい寡婦・高柳初江は、91歳の年の夏にふろ場で転倒し、全裸で仰向けになったまま三日三晩を過ごす。そんな折、団地内のどこかから聞こえてくる、だれが吹いているかも分からない笛の音は、平家滅亡時に笛の名手といわれた平敦盛が吹いた「青葉の笛」にも似た物悲しさを感じさせる。しかも、その笛の音は、なぜか自分だけにしか聞こえないと知った初江は、正体不明の奏者をひそかに「団地の笛吹き」と命名する。その後、足腰がめっきり弱って、外出時は車いす生活になり、息子たちの介護がなければ毎日が送れなくなる。やがて、一国一城の主として住み慣れたわが家を離れ、介護老人保健施設の世話になるが、「家に帰りたい」という思いは95歳の誕生日を迎えてなお、消える日がこない。老親介護と看取りをテーマにした、実体験に基づく家族幻想小説。

団地の笛吹き | たからしげる |本 | 通販 | Amazon

 

 

 2005年9月、スパイスという出版社から書き下ろしの単行本『ラッキーパールズ』を刊行しました。


 スパイスは、かつて幻冬舎にいた敏腕編集者の芝田暁さんが退社後独立して、2004年6月に東京・神田神保町に立ち上げた小さな出版社でした。


 小学4年生だった1959年、ぼくが住んでいた東京・中野の公営団地の野球好き少年たちで結成した草野球チームの名称が「ラッキーパールズ」です。


 本書は、野球に夢中になっていた少年時代の想い出を、まもなく56歳になろうとしている「ぼく」が、とある人との出会いをきっかけに回想風に語る、青春私小説です。


 出版後、社長で編集者で宣伝マンで販売促進係の芝田さんの八面六臂の活躍が、売れ行きを徐々に増やしていきました。


 しかし、本が出てから1年と4カ月がたった2007年1月、スパイスはそれまでの出版活動で累積した負債を抱えきれず、あっけなく倒産してしまいました。


 それに伴って『ラッキーパールズ』も絶版となり、期待していた重版は永遠のお預けとなった次第です。


 このほど本書の英訳本を、アマゾンのKDPセレクトからアメリカ、イギリス中心の海外流通によりオンデマンド出版しました。


 翻訳は、チャットGPTによる下訳から、原本の日本語と一字一句をつき合わせて検証を重ねた後、ほぼネイティブの友人に「小説として読める文体になっているかどうか」を校閲、修正してもらうという、手間と時間がかかり、骨の折れる作業になりました。


 約1か月をかけて英訳版「LUCKY PEARLS」は、紙本と電子書籍の2形態で流通に乗せることができました。


 2019(平成31年)12月に、まだ54歳で惜しくも逝去された芝田さんが本書を見たら、どんな感想が返ってくることでしょうか?


Amazon.co.jp: LUCKY PEARLS: They thought they were playing baseball. They were growing up. A coming-of-age baseball novel set in 1959 Tokyo. (English Edition) 電子書籍: Takara, Shigeru: Kindleストア

 

Amazon | LUCKY PEARLS | Takara, Shigeru | Sports

 

 関東地方に大雪が降った日、ぼくが暮らす千葉県市原市の高台も一時、辺りが白く輝きました。


 ここ数日、外があまりにも寒いので、目的もなくぶらつく勇気がわいてきません。


 車に乗れば、近場のスーパーに買い物にいったり、少し距離を延ばせば、書店や図書館に本を入手しにいったりはできます。


 でも、ここのところ、本を買うときはほとんどネット書店を利用しています。


 いま、どんな本が市場をにぎわせているかを探るには、やはり大きな書店に足を運ぶのが一番なのでしょうけれど。


 作家としての原稿執筆は、ここしばらくのあいだ、ずっと停滞しています。


 書いてくれと言ってくる相手がいないし、これを書きたいというテーマも、いまのところ見つかりません。


 その代わり、年が明けてからの数週間、パソコンを前にしてちょっと楽しそうな企画実現に夢中になっています。


 現在進行中で、まだ発表するには至っていないその作業の一区切りが着くまでは、大げさに騒ぐのはやめておきます。


 それにしても、AIの進化は目を見張るものがありますね。


 家にこもって、ひとりで何かを考えて、ふとだれかに訊いてみたくなったとき、チャットGPTなどのAIと会話をするのが楽しくなってきました。


 いまでもまだ、AIに質問して得た回答にまちがいが含まれていることはあるみたいですが、そのまちがいを指摘してやると、だんだん正解に近づいてくるみたいです。


 AIに感情や意識はないはずなのですが、会話を交わしているうちに、相手が機械であることを忘れてしまいそうです。


 役に立ちそうな回答を得たときは、思わず「ありがとうございました」と、お礼を打ち返しているぼくは人間です。

 

水底の記憶: 程久保小僧勝五郎の数奇な生涯 | たからしげる |本 | 通販 | Amazon

 生まれ変わり(輪廻転生)って、本当にあるのでしょうか?


 年をまたいで、かつてお世話になっていたものの長らくご無沙汰していた方々の、突然の訃報が次々と舞い込んできました。


 人生70歳代にもなると、人の死は珍しくありませんが、死が生きている者にもたらす衝撃や驚愕は、絶える日がありません。


 人が死んだら、魂と呼ばれる意識はどうなるかは、永遠の謎といえるでしょう。


 死後の世界があるかないかの仮説はいくつ立てられても、あるとも証明できなければ、ないとも証明できません。


 そうした中、アメリカのイアン・スティーヴンソン博士が著した『前世を記憶する子どもたち』は、人の死後生存をテーマにした研究書として一読の価値があります。


 その真偽は別にしても、生まれ変わりは人類の歴史とともに歩んできた共通思想だといってよいかと思います。


 わが国では江戸時代末の文化文政期、当時の武蔵国多摩郡程久保村(現在の東京都日野市程久保)で生まれた藤蔵が数え年6歳で死に、数年後に山一つ越えた同郡中野村(現在の八王子市東中野)で勝五郎として生まれ変わった、という事例が知られています。


 これは、当時江戸在住だった元大名の池田冠山、国学者の平田篤胤、町人の藤岡屋(須藤)由蔵、後に日本に移住した作家の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らが、文章にして残しています。


 死んだ肉体から抜け出した魂は、生前の意識を失わないまま宇宙のどこか別次元にあるあの世へいって、その後再びこの世に生まれ変わってくると、通常は前世の記憶をすっかり忘れてしまうそうです。


 少年時代は藤蔵として生きた前世の記憶が詳細にあった勝五郎も、年を経るにつれて記憶が薄れていき、ついには一介の農夫として55年間の生涯を終えていました。

 

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 昨年から今年にかけて、長らく音沙汰のなかった3人の、親しくおつき合いさせていただいた方々のご逝去の知らせを受け取ることになり、大変気落ちしています。


 昨年暮れに知らされたのは、高梨雅樹さんでした(12月22日没)。


 高梨さんの芸名は原大輔(他にも江夏一樹があります)で、『秋冬』などのヒット曲で知られています。


 1981年、フジサンケイ・グループで松本零士さん原作の「1000年女王」関連の仕事をしていたとき、知り合いました。


 千葉県八日市場市(現在の匝瑳市)出身ということで、誘われてテニスなどをしにいったとき、いまのカミさんと知り合いました。


 高梨さんと知り合わなければ、カミさんとも知り合わなかったと思います。


 今年になって消息不明を知らされていた、元職場の先輩で、出版局時代からお世話になってきた稲垣真澄さんが亡くなったのは、昨年の9月10日だったそうです。


 稲垣さんは生涯独身を通されていたので、高齢になるほど独り暮らしは大変だろうと思っていましたが、事情を知る友人から聞いたところ、亡くなったときには「通い婚」という形でお世話をしていた女性がいたということで、孤独死ではなかったようです。


 何だか少しだけ、ほっとしました。


 装幀家でグラフィック・デザイナーの安彦勝博さんが亡くなったのは、昨年の12月15日でした。


 そのことを知らないまま年を越して、今月になって友だちになっていたFBを通じて、ご家族の方からお知らせを頂きました。


 安彦さんも、出版局時代から長い間、仕事を通じてお世話になっていた大先輩です。


 2022年、ぼくがAmazonの著者セントラルを利用して『団地の笛吹き』という創作を刊行したとき、装丁を買って出て下さったときの喜びは、いまも忘れられません。

 

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 最近、よくものを忘れます。


 いいえ、最近というより、だいぶ前からといったほうがいいかもしれません。


 子どもの頃は、忘れることより覚えなければならないことがたくさんあったから、忘れるといった意識が低かったのでしょうか。


 忘れるという感覚を意識し始めたのは、中高年になってからのようです。


 とはいえ、一時的に忘れていても、何かのヒントがあればすぐに思い出せました。


 還暦を過ぎてからは、忘れるという意識が俄然、強くなってきたように感じます。


 まず、固有名詞がなかなか出てきません。


 勤めていた頃に、毎日顔を合わせていた職場の同僚の、顔は何となく思い出せるのですが、苗字が出てこないことがあります。


 特に思い出せないのは、歌手や俳優や作家など、よく知られた有名人の名前ですね。


 映画や小説も、しかりです。


 ネットで観る映画ですが、おもしろそうだなと思って観ているうちに、あ、これ前に一度観たぞと思い出せても、結末を忘れている場合があって、何だか得した気持ちになって最後まで観てしまいます。


 先日は、中学のときに読んだはずの夏目漱石の『坊っちゃん』を再読したら、こんなにおもしろい小説だったのかと感嘆しました。


 作家のみなさんにお尋ねしますが、自分で書いた、あるいは書いている作品の登場人物の名前がすらすら出てきますか?


 ぼくは書いている途中でも、こいつの名前は何だったっけ? どんな字を書くんだったっけ? と筆が止まることがあります。


 前世なるものがあったとしても、その記憶は5歳くらいになるまでに、言葉を覚えてくるにつれて忘れていくといわれています。


 いやな目にあったことも、不安や恐怖や悲惨な体験も、いつかは忘れていきます。


 忘却とはある意味、生きていく上で理にかなった脳の働きなのかもしれません。

 

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 あけましておめでとうございます。


 とはいえ、世界は各地で戦争や小競り合いをくり返しており、平和を願う人々の数は一向に減りそうもありません。


 今後、人類が宇宙へと進出して、あるいは人類以外の高等生命体との接触が図られる可能性は出てくるはずです。


 未知との遭遇は、宇宙における高等生命体同士の平和な接触であればよいのですが、宇宙の広さに比べたらチリに譬えてもよいくらいの小さな地球上でさえ、大小さまざまな形での争いが絶える日はなさそうです。


 生存競争を勝ち抜くためにも必要とされる戦闘能力ですが、この宇宙において真の平和を実現させるためには、どのような方法を選択すればよいのでしょうか。


 マハトマ・ガンジーがインド独立運動のために用いた無抵抗主義とは、物理的な暴力を使わず、相手の支配や抑圧に対して服従しないことでした。


 非暴力・不服従(サティヤーグラハ)をスローガンとしたのですが、仮に未知との遭遇の相手が地球を乗っ取り、人類を奴隷化するためにやってきたのだとすれば、このような方法は役に立たないでしょう。


 では、現在の人類が手にしている最大の戦闘抑止力である核を、どのように使用できるかといえば、核爆発は相手をその場で撃退できるかもしれませんが、地上でそれを使えば人類自身も相当の痛手を被ります。


 宇宙空間で核爆発を生じさせると、強烈な電磁パルスが発生し、広範囲の人工衛星が破壊され、それによって新たな宇宙ゴミが大量に生成されると、地球自体にも由々しい影響を与えるのは確実と思われます。


 宇宙の彼方から撮影された地球の姿は、譬えようもなく美しく、魅惑的です。


 この宇宙にたった一つしかない地球の美しさを守るためにも、ぼくたちが一から意識して始めるべきものって、何なのでしょうか?

 

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