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夕菜の宝箱

~がん(私)でも発達障害(息子)でも上手くつきあって幸せに暮らすことを目標にする毎日~

2011年 11月 多発性骨髄腫発症がわかる

治療歴 2012年 ベルケイド→自家移植→ベルケイド→レブラミド→2014年 同種移植

合併症があれこれあったのでなかなか復職できずでしたが、

2021年11月 9年ぶりに仕事復帰 在宅テレワークで事務補助の仕事をはじめました。

 

現在21歳、2000年生まれの次男の

中学生生活はかなり荒れていたな~。

 

中学生になってすぐの初めての宿泊行事に盲腸になって不参加だったし、入院中に進んだ数学の授業が全くわからない~とちょっと言い訳もできてしまって、一緒にやって取り戻そうと促しても上手くいかず、勉強をしない子になってしまった。

 

やたらととげとげしい反抗期序盤戦に突入です。

なんとかイライラを解消してあげたくて、色々考えた。

 

そういえば長男小学校の頃に落ち着きがない?こだわりが強すぎる?どうやって解消してあげたらいいかな??って自己流で色々調べた時

 

「アドレナリン」が不足しがちかも?

 

ってことは興奮する楽しいことに連れて行けばちょっといい感じになるかも??とUSJの年間パスを買い続けていた頃があった。

 

4歳下の次男は新しい乗り物が出来ても身長が足りなくて乗れなくて、ずいぶん悔しい思いをしたっけな。そして長男が中学生になると部活が忙しくなってなかなか時間が取れなくなってきたので、年間パスを買うのはやめてしまい、パスが無ければやっぱりなかなか行かない~っていう状況だった。

 

そうだよね~次男、初回はどのアトラクションも怖くて泣いたくらい小さかったし、本当に楽しめた時期ってちょっと少ないかも。

ってことでお盆にUSJの年間パスを買って、長男以外の3人で何回か出かけてみた。

次男の同級生の子を1人連れて行ったこともある。

 

大阪「多発性骨髄腫と上手につきあうために」というセルジーン株式会社が主催の市民公開講座があると、患者の会で知り夫婦で参加する時には

 

午前中に夫と次男と3人でUSJに行き、

一旦お昼に3人でパークを出てご飯を食べて、

そこで別れて次男1人をUSJに残して出かけ、

18時ごろ再び戻って合流する

 

という無謀チャレンジもやったことがある(笑)
 

まだ次男、携帯電話持ってなかったので、結構チャレンジャーだったと思うけど、ハロウィンのホラーナイトが楽しみで楽しみで、やはり楽しいことで頭がいっぱいの時の次男はとっても落ち着いていたんで、合流もスムーズでいい思い出作れたな~。

 

前回のホラーナイトの際に混みすぎて行けなかったアトラクションに次男が3時間も並んでいて、そこに無事合流したんだけど、

ぎゃぁぁぁぁ!!!と
叫びまくったの、まだなんとなく覚えてるわ~。

 

ちなみに通常870〜1700のはずのIgGという免疫グロブリンが
「5000を超えたら治療開始の頃かなぁ…」と言われていたんだけど

 

次男が小6の1月5084になって

「そろそろやなぁ〜」と言われて

 

翌月2月は 4561 ←おおっ元に戻った(#^O^#)

 

っていう現象が起きてた。

 

次男が中1になってなぜか少しずつ減ってきて

4月 4810

5月 4465

 

次回は2か月後でいいよ♪となり

 

7月 4364 ←いいねぇいいねぇ♪どんどん下がってる(#^O^#)

 

と、喜んでいたんだけど

 

9月 5554 ←、あれれっ?!

10月 5146 ←奇跡はおきんかぁ?

ってこんな感じ。…とまぁ、こんな感じの頃。

 

3回連続5000超えだったら、
「そろそろやなぁ?」発言が復活するかもね。

 

って当時の日記に書いてる。

 

そして10月には6047 

 

主治医としてはもうちょっと様子をみていてもいいかなぁ??って思ってたみたいなんだけど、次男が今なら中1なんでまだいいんですけど、高校受験の頃には家に居たいです~!!

って私の希望もあり、11月から治療開始となった。

 

入院→週2回の通院→入院→通院→自家移植入院をやっているうちに次男は春休み。

 

ここでの治療がばちっと効いていればまた違ったのかもしれないけど、最初の抗がん剤治療で8割の人が効くところ効かない2割の人に入ってしまったようで、治療が続くことになってしまい、その頃から次男のキレやすいスイッチは少しずつ増えて行った気がするわ。

 

 

2011年 11月 多発性骨髄腫発症がわかる

治療歴 2012年 ベルケイド→自家移植→ベルケイド→レブラミド→2014年 同種移植

合併症があれこれあったのでなかなか復職できずでしたが、

2021年11月 9年ぶりに仕事復帰 在宅テレワークで事務補助の仕事をはじめました。

 

 

ずいぶんご無沙汰しております。

父が急に亡くなったことをこちらで報告してから気が付いたらもう1年以上経っちゃってます(-_-;)

コロナが流行してからというもの、色々なことが変わりましたね。

 

ちょうど12月中国の武漢で流行したものが日本にも~って頃だったので、

父の一周忌も密室で御祈祷してもらうのは今は辞めておいて

 

「また落ち着いてから」

 

ということで少し延期しようと決めて、

 

母と私家族、妹家族の合計10人で天満宮に行って祖霊社にお参りしてから

個室のお店でお食事会的なことだけやりました。

 

わりとちゃんとした格好で行ったもので、天満宮では「お宮参りの方ですか?」って声をかけられてね~。

 

え?そうは見えんでしょうよ??年齢が違いすぎます~って思ったんだけど、

よく考えてみたら妹の子もウチの子も上は24歳。

 

げ?まさかの3世代って思われたのかぁ!!って笑ってしまったわ。

 

「また落ち着いたら」はなんか当分来ない今日このごろ。開きなおるしかありませんね。

こういう時に、無菌室(帯状疱疹では逆に陰圧個室にいたこともあるけど(笑))で

何をするわけでもなく暮らしたりした経験を持つものは強いな!って思う。

 

だって家って好きなものは食べられるし

テレビもパソコンもスマホも何の気がねすることもなく自由にできる。

 

多分だけど

「こんなはずじゃなかった」っていう考えからもう

 

「その時その時を受け入れて楽しもう」に完全に変わってるから

イライラしたりしないでコロナ禍も過ごせているのか?って思ったりするわ。

 

我慢することも多いけれども、朗報もあったりする。

私の再就職が決まりました!

 

自宅でテレワークで出来る事務。

 

子どもの学費がすごくかかって泣きそうな頃、自分の医療費もとんでもなくかかっていて

超節約生活!とか、毎日お金の心配をしてて

少しでも、ほんの少しでもいいからなんとか稼がないと!!って

 

自宅でパソコンで出来る仕事を探してライターの仕事をしたりもしたけど、

なんかすごく仕事している気分になったけどかかる時間のわりには全くお金にならないし(笑)

案件によっては一日中記事のことを考えていないと納期に間に合わなかったりでなかなか厳しかった。

 

で、いろんなことが出来れば仕事の幅も広がるのか??

じゃスキルアップだ!とillustratorとPhotoshopを習いに行ったりし始めたんだけど

何回か応募書類を送ったりしてもなかなか面接までたどり着けない現実。

 

事務の経験全くなしで検索してみたら予後の悪いがんだと知ったら無理だよね~って

しばらくは応募もしていなかったんだけど、

今、新薬もどんどん出て来たからか、新しいデータもどんどんネットに挙がっているみたいだね!!

 

検索すると「予後の悪いがんです」っていうがっかりな文章がトップに出て来てたのに変わったね!!

めっちゃ久しぶりに検索してみたら~

 

10年以上再燃しなかったり、

中には20年以上再発せずに生存されている報告もあります。

 

って嬉しくなっちゃう♪

 

そう私もこの2行目を目指しますよ!!

2014年4月に最後の治療をしてから無治療で今で7年。

 

奇跡的に妹とHLAの型がばっちり合ってたもので、同種移植に踏み切ったんだけど、

妹の血液型がO型だったから私はA型からO型に変わったんですよね。

 

そしていつも聞かれる質問、「性格は変わったの?」は「多分変わってない(笑)」

ま、父がA、母がOのAOのA型だったから元からOも入ってたしね♪

 

最近は毎日のダイアリーはこちらで書いているんですよえ。

がんの方が集まるサイト

 

違うがん種の方とやりとりするもいいもので、気にいってます♪

 

 

 

訪問ありがとうございます。

 

大動脈解離であっけなく亡くなった父の覚書

他界から2日後のお話です。

 

 夕菜のプロフィールはこちら

 

葬儀当日スケジュール

 

~9時 宿泊したお部屋から葬儀の控室へ荷物と共にお引越し

11時30分ごろ 参列者写真撮影

11時30分 葬儀開始

12時30分 出棺 喪主以外バスに乗り火葬場へ

13時45分ごろ 全員戻ってきてお食事

15時  バス出発 お骨を拾いに火葬場へ

16時ごろ 戻ってきて解散

 

宿泊したお部屋は9時までに出るように言われていたので、

ベッドで休んだ私たちは朝起きると、ひとまず着替えて荷物を整理し、荷物を控室に移動させておいてから

外のコンビニに朝食を買いに出て、控室に戻り朝食をとった。

 

そのあと、私の化粧品で妹に化粧。

母にも化粧。

だって父がちょっと化粧してるのに、みんなもやろうよ~(笑)

で、朝からわいわいやってた。

 

しばらくして夫や息子たちが合流。

 

飾る為に父のゴルフバッグを持ってきたので配置したり

洋菓子を買ってきたりしたのをテーブルに並べたり、

斎場の司会者と最終打ち合わせをしたり、

家族以外の父の友人の応対をしたりしていて、

頭使っていると平気だったんだけど、

 

折り紙に父へのメッセージを書いて鶴にして入れてあげよう

ゆっくり座ったら、あかん涙があふれてくる。

 

持参したティッシュボックスから数枚ティッシュを取っては

鼻をかみ涙をぬぐい、始まる前からもうダメな予感がしてきた。

 

お父さんへ

 

って書いただけで、もう書けない。

 

ありがとうっていっぱい思いを伝えたいけど、

真っ白になるってこういうこと?

とても一言では伝えられないな。

 

昨年、がんで亡くなった主人のお父さんのときには

納棺の前に到着して準備に参加したっけな。

 

目の前で看取ったわけじゃなかったからか、

心の準備ができていたからなのか、

最期に届けるメッセージは、今までの感謝の言葉があふれてきて細かい文字でさくさく気持ちを書けたのにな。

 

一時停止。

 

でも、斎場の方にお食事の人数と今の人数が合いませんが?と言われて、数えなおしOKを出したりすると涙は止まる。

 

その後「おじさん」が来ると聞いていたのに、式が始まる直前に「おじさん」だけじゃなく「息子」と一緒に現れた時には軽くこぶしを握りそうになりましたがね(笑)

 

お通夜のお料理は中盛なのでおおまかな人数でOKなシステムだけど、葬儀の後のお料理は一人ずつのお弁当なので「数が重要」です。ぎりぎりで間に合ってよかった~。

 

葬儀はお焼香と献花、ゆっくりお別れ。

 

そうだ、父の洋服について書くのを忘れていた。

納棺の時に白装束でもいいしお好きな洋服でもいいと言われたので、父は洋服を着せてもらったんでした。

 

洋裁ができる母が作ったもの

遺影の写真にもなっている父のお気に入り。

 

ちなみに念のため持参した下着ももちろん・・・と

丁寧に着せてもらっていた。

ICUで導尿された状態で亡くなっているので紙おむつだったからね、

湯灌しなかったらひょっとしたらパンツのことまでイメージできなかったかもしれない。

 

お棺に一緒に入れてあげたのは、

写真に撮ったゴルフのセットや焼酎、ビール

暇さえあれば解いていた数独の雑誌のやりかけているものをいれて

紙コップで少量なら実際にビールや焼酎いれてもらっていいですよ~

 

え?いいんですか?

 

末期の水の代わりはビールでいいよね?と

満場一致で唇を濡らしてあげ、最後に眼鏡はお顔から外した。

 

焼き場に着いてからはもうお顔を見てのお別れはできません。

お顔を見てのお別れはこちらで最後になります。

 

いくらわいわいやってみたつもりでも、この時ばかりはやっぱりね。

だれかの号泣を間の当たりにすると、せっかく落ち着いていたのにまたもらい泣き。その連鎖(笑)

 

あっという間に出棺の時刻がやってきた。