霜村さんが今日のブログで、佐賀県・武雄市教育委員会が導入しようとしている『反転授業』について疑問や問題点を指摘している。
ぼくも、今朝この記事を読んだ瞬間
「あっ、これは子どもの豊かな学びとは異質だし、今日的課題にも答えていない大きな問題を持っている」と思った。
霜村さんと基本的見解や疑問点はダブルかもしれないが、ぼくも、問題点を指摘しておきたい。
(1)学びのスタートに感動と喜びがない。
学びの意欲や好奇心は、子どもと教材(人・もの・こと等)との一瞬の出会いや学びに共同に参加する仲間たちと教師との関係性の中に生まれる。
教師の作成した(おそらく塾作成とか市販の学習材が主流となるだろう)10分の動画を子どもが家庭で見て、予習し次の日に間違いやすい問題を説明したりみんなで討論するというが、ある可能性を認めたとしても本来的学びの流れを逸脱している。
(2)今日の学びにおいて、最も子どもから失われつつあるものは、事物や人等への具体的関心や体や心を通した触れ合いや試行錯誤を通した対話である(植物や生物、具体物、人、物、こと…、あらゆる自然界との具体的触れ合い等も含めて…)。それが、タブレットの操作によって、子どもの現代的関心にこたえているようだが、子どもの生存、成長への生物的自然を阻害し、非人間化に加担することになる。もっと子どもたちを生物として、そして地球に生きる人間として、生きる喜びを含めた豊かな感覚や感性を育てるべきだろう。
(3)「反転授業」は、最初に子どもは宿題として予習をするのだが、今日の子どもたちの学びの実態には、まったくあわない。家庭に学びの責任を課するやり方にどれだけの家庭が答えられるだろう。
教育は、そもそも家庭環境や、子どもの生きる状況(関心や意欲)とは別に、子どもに責任におってなされるべきことである。「反転授業」は『教育の責任』を“反転”している。
「君は宿題をしてきてないな。だからみんなの共同の学びに参加できないんだよ」…こうした声はあってはならない。
(4)教師の本来的な仕事と喜びが阻害される可能性が強い。
10分動画の質が問われてくる。教師の一人一人の個性は大切にされるだろうか。霜村さんのいうように動画づくりの時間など今の教師にない。結局、塾や市販のもの、あるいは教育委員会の委託をうけた一部の教師によって動画が作られ、それが使われることになるだろう。
(5)教育の形骸化が進行するのではないか。
動画がこうして作られることや、タブレット型学習が市をあげて推進されることは、教育の画一化につながる危険性がある。
教育はもっと多様で、豊かな質をもった指導がなされなけれならない。
また、例え、どんなによいものであっても、それを一つの型として押し付けることは教育の自由―真に豊かな発展―を阻害する。
タブレットの動画づくりは教師の個性が可能だとしても、そもそもその学びの方法において画一化がなされていることが大きな問題なのだ。