<2022.1.16記事>
1月16日は松山千春のお母様の命日。2021年の1月16日、九十九歳で逝去。
9月19日には弟の明人さんを亡くした。
昨年のコンサート・ツアーでは、亡きお父様、お母様、お姉さん、弟さんを偲び、涙ながらに語っていた。
東京国際フォーラム2公演だけだったが、自身の「ふるさと」を泣きながら歌っていた。
あらためて、松山千春のお母様と、お父様、お姉さん、弟さんのご冥福をお祈りいたします。
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<2021.12.28記事>
今日(2021年1月28日)は夕方から雪まじりの冷たい雨。
去年(2020年)の6月28日、松山千春は自身のラジオ番組で梅雨の季節にちなんで、自身の雨にまつわる4曲をかけたが、その前に小さい頃の思い出を語った。
「雨、好きなんですよ。ガキの頃から。うちの母さんが土木作業員やってましたから、雨の日は工事が出来ないんで、帰って来る日です。そうすると家の中が賑やかになる。
それと、窓を見ていて、雨で濡れている。ロマンチックに感じるんだよ。うちみたいな貧乏人でもこの雨を通して街を見るとさ、みんなゆらゆらしてるんだよ。
ああ、一緒に生きてるんだなぁ…。そんなことを実感しながら、雨の日は大好きでした」
(ステージでお母様に語りかける松山千春/2012年8月)
1月24日の自身のラジオ番組では1時間を使って、16日に逝去したお母様との思い出を語っていた。その内容は、ひとりの松山千春ファンとして書き残しておこうと思い、2回に分けて書いた(以下)。
松山千春、亡きお母様を語る(1)「今頃、先に逝った父さんと姉ちゃんに俺達のこと伝えているだろう」
松山千春、亡きお母様を語る(2)「母さん、99年間、ありがとう」
もうひとつ、松山千春の自伝『足寄より』にもお母様のことを何か所かで書いている。先日のラジオと関連する部分を引用し残しておきたいと思った。
「おっかあ。これがまた、自分の器を精いっぱい生きてきた人間だなあ。(中略)おっかあのすきなもの。それは踊りと、博打(ばくち)とくる。
俺がもの心ついたころから、おっかは家にはめったにいなあった。土方をやってたんだ。おやじの新聞じゃ金になんないし、借金もある。おっかあが稼がなくちゃなんない事情があったわけ。足寄じゃ、になる仕事といえば、土方っくらいのもんだからね。工事現場なんかに泊まり込んで、帰ってこないわけだ。それで、雪の降る冬場は、失業保険で食いつなぐって寸法。
もう八、九年前になるかなあ。おっかあが表彰されたことがある。勤続何年式の、普通ならどうってことない表彰。おっかあはすごく喜んだ。心の底から嬉しくてたまらないふうだった。
おっかあにとっては、その表彰が重い意味をもっていたんだ。土方をやってきた。体を張って生き抜いてきた。一枚の表彰状はその証なんだよね」(28㌻)。
(右から松山千春、お父様、お母様、弟さん/写真集「激流」)
「『なにか買ってやりたいと思ってね』
おっかあが花札をやる理由を、そういったことがある。もちろん、おっかあは花札が好きなんだけど。これは絶対よ。けど、俺たちになにか買ってやりたい、というのも嘘じゃなかったね。(中略)
で、おっかあはこっそりやってきて、俺になんぼかの金を握らせて、さっといっちゃう。そんなことも何度かあった。
どこかの工事現場にいっちゃって何か月間か音信不通、生きているやら死んでいるやら、なんてこともあったけど、おっかあは俺たちを忘れはしなかった。たまに帰ってきて、金を与える。それがおっかあの愛情なんだ。金で愛情を表現するなんて、というのはたやすい。おっかあだっておやじに収入があったら、もっと別のかたちの生活をしていたと思うよ。でも、金でしか愛情を表現できないような状況だったんだ。
貧乏ってのは悲しいよ。悲しいけど、そのなかでも人間らしい感情につき動かされてうごめいているおっかあってのは、それなりにいとしいよ。俺はそう思う」(32㌻)
「おやじとおっかあ。まるで違う。でも、俺にとっておやじとおっかあはいちばん愛すべき存在であることに変わりはない」(33㌻)
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松山千春の歌の中で、はっきり「母」が出てくるのは
「ふるさと」(1981年)―「声が聞こえる 父さん 母さん…」
「Good-bye」(1988年)―「Good-bye 父母 愛する人に…」
「手紙」(1992年)―「穏やかに 健やかに お暮らしください 父 母よ」
「メロディー」(1996年)―「母の胸に抱かれて ゆられて眠った…/母の腕に守られ 優しく眠った」
「目覚め」(2017年)―「父親 母親 愛をそそいだ…」
―記憶の限りこの5曲あたりか。
母を思えば父を思う。父を思えば母を思う。父母を思えば家族を思う。ふるさとを思う。
足寄で、あのご両親のもと、あの家族と過ごした幼少時代が、人間・松山千春にとっての大切な原風景なのだろう。
1月24日のラジオの最後の最後。きっと悲しみをこらえて、でも明るく感謝を捧げて言った。
「母さん、99年間、ありがとう」
この一言に込められた思い、私なりにも痛いほどよく分かる。