紫雲山瑞光院 [京都府] | カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

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電光影裏斬春風

知っているようで知らない歴史の裏側をそっと、

御朱印帳をたずさえぶらり、ふらり、、つれづれに、、、

日々徒然に

この日は朝から雨模様、止まないかな、止まないかなと、一休、一休みしながら、、


「遺髪塔」 かな?


この日にいただけたこともあり中々よい列びとなったよ


その この日 とは、

三月十四日、播磨赤穂藩第三代藩主浅野内匠頭長矩公の御命日


令和初年の暮れに泉岳寺にお参り出来たことを発願とし、主に月の御命日にあたる十四日にお参りするシリーズをあらたに

その最初の地として、

大石内蔵助が本懐を遂げるまでの多くの時を過ごした山科の所縁の地を、ぶらりぶらり、ぶらりと、、

山科には、大石家の親族進藤長之 (近衛家家臣) の土地があったようだねぇ


紫雲山瑞光院

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内蔵助は、こちらに墓参の度に吉良邸討入の密談を行っていたという


境内には、内匠頭の供養塔、義士の遺書、義士の墓、内蔵助の歌碑、、

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内蔵助
らが切腹した際の遺志に従い、瑞光院の僧はその遺書と遺髪を集め、四十六人の遺髪塔を立てたとある

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境内社浅野稲荷神社
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御朱印
「遺髪塔」 忠臣蔵シリーズとして

 


大徳寺派のお寺さんでいただくのは初めてだったかな


紫雲山瑞光院

臨済宗大徳寺派
山号は阿弥陀様を連想させ、浄土宗系な感じを受けるんだけど、、?
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赤穂義士旧跡
浅野内匠頭の妻遥泉院の母は瑞光院二世陽甫の姪にあたり、その縁により長矩公は壇越となり浅野家の祈願所となった

他のお寺さんから教えていただいたところによれば、参勤交代の折りに長矩公は瑞光院さんにお泊りになっていたようだ
当初は、上京区堀川鞍馬口の瑞光院前町にあったが、昭和37 (1962) 墓所や大石内蔵助遺愛の梅とともに山科の地へ


と、

こんな感じで、、


いろいろと調べならがどういう順番にいつお参りしようか、、あれやこれや計画を立てている時間が中々集中出来てもいて◎


そして、


山科ってそういう意味でもあるんだーっと読んでいてあらためて面白いなと


ちなみに、

瑞光院さんからいただいた由緒によれば、慶長十八年 (1613年) 因州若桜城主 (鳥取県八頭郡若桜町) 山崎左馬亮家盛公が、大徳寺の琢甫宗林和尚を開基として創建されたとある

ほ〜、故郷鳥取は若桜ともつながるのか、、山崎家盛公は若桜藩の初代藩主のよう、その戒名が瑞光院なんだね

では何故鳥取の若桜なのか?

調べてみると家盛公の義兄にはなんと初代姫路藩主池田輝政公がおられる、そっかあ✨ここらあたりに理由がありそうだ、鳥取は池田の殿様が治めておられるからねぇ、また、輝政公の八男政綱公は播磨赤穂藩初代藩主、、色々とつながっているのだ◎


つづく...