愛してる
......こう言われたら、みなさんはすぐ鵜呑みに信じますか?たぶん言葉だけではなくて、表情、やさしさ、気遣い、自分にどれだけ時間を割いてくれるか、他の人と自分に対する態度の差とかを意識、無意識の全感覚を動員して判断するのではないでしょうか?もし、相手に不義などあったものなら信じるべくもありませんよね。政界、芸能界でも不倫が大流行ですし....。実は、主人と今のハッピーな状態になるには、愛について深く考えなければ有り得なかったことなので、そこを書きたいと思ったのですが本当に難しい。愛って難しい。こうなるには長ーい時間をかけて、段階を踏んでいまの感覚までたどり着いたので、その軌跡をたどります。前にも書きましたが、わたしは主人に一目惚れして結婚しました。年上であることに引け目もあったので、自分ではいろんなことを頑張ったと思います。主人は真面目一方で、不倫などしませんし、夜遊びするわけでもなく一生懸命働いてくれました。でも、機嫌が悪いことが多くそれはわたしや子どもたちに影響しました。昔、機嫌の悪さは自分のせいと思っていたことで、気が狂うほどの思いを持ったことがあります。そのときは「生きるのがラクになる本」という本に出会い救われました。「どんな感情でも、その気持ちは自分が自分の責任で選んでいるのだ」と書かれていたのです。つまり、主人の機嫌は主人が自分で選んだ感情で,わたしのせいではないと理解しました。(のちに聞いたこの時の気持ちは,まったくその通りでした)そして、呼吸法ものっていて、自分の感情をコントロールすることも覚えました。これは、イエスの言う謙遜の意味であろうと、聖書を深く知ったときに思いました。(WTの教えるものとは違うと感じます。)次は、義父の介護にたずさわることになったときのことです。このことは多くの夫婦が体験し、離婚の原因にもなることもありますが、うちもご多分にもれずです。主人の思いやりの無さを痛感し、そのストレスから病気になってしまいました。このときは、前記事「セロトニン増やそう」シリーズやそれ以外にも書いたように、呼吸法や腸を大切にすることによって、心と体を守れると知ったことで乗り越えました。(これも聖書は教えていると感じます)一度死んだ気になったので、二度目の命は粗末にはしないと心に決めました。つぎは震災のときです。あのときは職人が足りない状況で、わたしは主人から頼まれるまえに手伝うことを決めていました。思い出してもそれはそれは過酷な作業で、還暦前の女なのに、男に混じって働いたのです。主人より早く起き、主人より遅く寝て、会計も家事もこなし、わたしには精一杯のことです。でも、結果は介護のときと同じです。今度こそ、神に頼りました。命を粗末にしないと決めたので、その与え主に頼ることになったのだと思います。ここまでの気持ちは主人は知らないから、「なぜエホバなんだ!」と迫害です。ここに至ってわたしは、やっといままでの気持ちを、エホバを信じる勇気で話し始めました。聖書から学んだことを当てはめながら....。本当に不思議な事でしたが、要所々々で主人が無意識にヒントのようなことを言うのです。それを聖書と比べ、黙想してわたしの考えや行動に活かすと、波があり、時間はかかりましたが、徐々に関係は良くなっていったのでした。でも、苦しかった。今までの自分を剥ぎ取っていくような感じです。それからエホバ神は、人から取ったあばら骨を女に造りあげ、それを人のところに連れて来られた。(創世記2:22)姉に笑われましたが、「女はあばら骨一本!」を合言葉に頑張りすぎないように。自分が頑張っていると思うことで、人を裁かないように。さて、エホバ神は野のあらゆる野獣と天のあらゆる飛ぶ生き物を地面から形造っておられたが、人がそれぞれを何と呼ぶかを見るため、それらを彼のところに連れて来られるようになった。そして、人がそれを、すなわちそれぞれの生きた魂をどのように呼んでも、それがすべての名となった。(創世記2:19)主人が決めるまで待つという、ちょっと忍耐のいることも意識しました。うっすら希望を持てた頃、苦しかったのは主人に執着していたからだ、と気づきました。頑張る自分じゃなきゃ愛されないと思っていましたから。それで、まだ棘のある主人には「わたしはあなたの側にいたい!ただ、それだけでやってきたから、ここにいる。それが気に入らないと言うなら、いつでも一人になる覚悟はできている。あなたはどうする?」と聞きました。返事はなかったけれど、それからは主人の棘が消えました。そして、何の巡り合わせか、道理の通った理由で組織から出ることになったのでした。きっと、超個人的聖書研究のためのJW学校は卒業ということだったのでしょう。こうしてたどってみて今思うことは、「愛してる」という言葉は、自分が心で叫ぶものなんだと気づいたのです。すべてがそこから始まり、それが確実に意識できたなら自分のすることは喜びに変わり、して貰ったことは感謝出来る。意識を主人にロックオンしてしまったわたしは、主人の全てを気にし、自分を捧げることが愛だと勘違いしていた。でも、意識を自分に置き、その自分の心が「愛してる」と叫ぶなら、その対象はただそこにいてくれるだけでいいのです。主人は、いままで側にいたいと言う思いを叶えてくれていたと気がつきました。やっと、感謝することができました。神は大きすぎて想像できませんが、神の形に造られた存在のわたしたちはここにいます。ですから、自分の心が「愛してる」と叫ぶなら、自分を含めすべてのものはあるがままにいることをゆるすことであり、それが神を信じることだとわたしは思うのです。愛を語るのはやっぱり難しいです。人それぞれにその人だけの人生があり、だれも代わりはできない。どうか、みなさんの人生が愛にあふれ幸せでありますように。長い話にお付き合い下さりありがとうございました。