人は自分を証明する何かが欲しいものなのかもしれません。

深く考えれば、それは尊厳にも関わることと考えます。



さて、男の人と言うものは、社会に認められることをなにより大切に思うものと聞いたことがあります。

しかし、女にとってはそれは理解しがたいことかもしれません。

女に対してこう言われた。....あなたが慕い求めるのはあなたの夫であり、彼はあなたを支配するであろう。(創世記3:16)


それは、女の意識はただただ夫を慕い、その夫との間に生まれた子どもを愛することに向かうからです。


これらのことを踏まえて、わたしたち夫婦の心の変遷を考えてみました。

昔、主人の望まないところに引っ越すことになったことから、パワハラのような状況が始まったように記憶しています。

このことは、実家近くの小さい一軒家から、大家の都合で1ヶ月の内に出るよう言われたのが、ことの発端でした。
主人はこのまま地元に居たいと、小さいときやさしくしてくれたおじさんに土地を売って欲しいと頼みに行き断られた事がありました。

何を言われたか知る由もありませんが、自尊心が砕けてしまったのかもしれません。その後、自分から動くことはしなかったので....。


人の心はわかりません。


その当時、わたしはうぶでしたし子どもたちもまだ小さくて、主人の心の動きなど推し量ることなど出来ませんでした。

わたしを小馬鹿にしたり、細かいことに怒るので、どこで逃げ出すかを試されているように感じたものです。

ただただ、怖い顔と、どんなことで怒り出すか導火線を踏まないよう、そして自分の心の平静を保つのに精一杯な時代でした。

後年JW迫害中には、互いに昔のいろいろな想いぶつけ合いましたが、主人にとって引越し先は社会的に自分の証明には程遠い場所だったようです。

この意識は地元の人たちにどう見られるかが大いに関係していました。
転校生育ちのわたしには、これも分かりかねる意識でしたが..。

わたしにとっては住めば都、家賃がすごく安かったから今持ち家に住めているので、間違った選択ではなかったと思うのですが、夫にとってはその時は違っていたのですね。



人は何をもって自分を証明し、尊厳を保とうとするのでしょうか?

男は社会に対して?女は夫からの愛?

では、それがかなわないときは矛先はどこに向かうのでしょう?

人はキリストとつながらないなら本当に弱いものと感じます。

しかし、あなた方に次のことを知って欲しいと思います。すべての男の頭はキリストであり、女の頭は男であり、キリストの頭は神です。(コリント第一11:3)

世の中は、現実として厳然と男優位の世界です。
キリストとつながらない男は女に、男とつながれない女は一体どこに?矛先を向けるのでしょうか?

そこに、大きな不幸が生まれる原因があるとも思うのです。

キリストとつながるとはどういうことかですか?
神を知るとはどういうことですか?

わたしは昔聖書を学んで、わたしだけの小さな奇跡から神を信じることが出来て幸運でした。主人には理解されなくても神に対して愛から行動してきたと言えますから。

また、この頃主人は自分の腕一本で大きな働きをし、やっと自身で満足する証明が出来ました。

JW中、聖書をより深く学び、いろいろなことを見聞きし、自分のことも踏まえて思い至った結論は、誰にも犯されない奥底の自分自身とつながるということです。

ここに気が付かないなら、矛先は外に向き自分を傷つけ人を傷つけ、子どもにも影響を与え、つながれない欠けた想いは受け継がれてしまうと感じます。

しかし、口から出るものは心から出て来るのであり、それが人を汚します。(マタイ15:18)

わたしは、主人からの証明を欲しがることは執着なんだとふと気が付きました。聖書が教えてくれたんです。

いままでの生き方は、誰の証明もいらなかった!
自分で自身に証明してきたから。尊厳は自分が守るものでした。

この年になって母親の子どもに対する影響を考えることがありまして、大人になった子どもたちは、欠けた想いを受け継いだことを二人になったときに知ることになりました。その母親に影響を与えるのは誰でしょう?そんなことを考えてしまいます。

どうか、ひとりひとりがキリストとつながり、愛おしい自分を見つけて欲しい。神は愛そのもの、奥底の自分自身は愛に溢れ、傷つかないんです。

そうしたらもう外に証明を求めずとも、満ち足りて人と人が傷つけ合うことなどなくなるのに....。

 

読ませていただいているブログに、わたしの伝えたいことのそのままが書かれていましたので、リブログさせていただきました。ありがとうございます。