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tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

最近よく感じるのは、本当の自由は完全に主観的なもので、時間やお金や体の状態や環境とは、まったく関係ないということです。

自分の感情をコントロールできて、振りまわされなくなって、はじめて自由になれるということです。

自分の感情をコントロールできないということは、自分の感情に自分が隷属しているということなので、いつ暴走するか、いつ怒りがわいてきてのっとられるか、いつ悲しみ、寂しさが襲ってきて、自分をのっとられるか、わからない・・・

どんなに環境的に恵まれていても、それだけで自由を感じることはありません。

また、その反対にどんな環境も感謝に変えられれば、その人は完全なる自由を手に入れたことになります。

感謝ということは、その状況を受け入れて満足しているということなので、自由なのですね。

それは、なかなかむずかしいのですが、それ以外で自由になることはないと思われます。

さて、ではどうして人間は感情にとらわれるのか?

それは、自分を守ろうとするからです。

これがまた実に長い深い、肉体保存の本能なのです。

はたしてこれはなくすることはできるのか?

私はできると信じているので、その道で精進しています。

一人の人間にできるとすれば、ほかの人間にもできるはずです。

宗教的な言葉では、解脱という言葉を使います。

守護の神霊の援助と祈りで、感情や本能やもろもろの心の機能を超えること。

そうしてはじめて、自分自身からの自由、環境からの自由、本当の幸せがあると思います。

感情がわいてきたら祈りの中に投げ入れる・・・こういう気づきの単純作業ですが、積み重ねるとばかになりません。第二に習慣になります。

そういう生き方が、やがて来る地球の新しい文明を導いてゆくことになります。



世の中にはいろんな信念を持っている人がいて、「死んだら終わり。霊界なんかない。霊能者という人達が金儲けのために、うまいこといって、ものを買わせようとしている。あるいは、カウンセリングと称して高額な相談料をせしめているだけだ」と思っている人も、実際ずいぶんいるんじゃないかな、と思います。

しかし、実際はこの世よりももっと確固たる世界で、ごまかしやうそが、まったく通じない、その人の価値がそのまま、ありのまま評価される世界のようです。

それによって、それぞれ磨きの階層が用意され、役目を授かり、そのなかでキャリアを積み、どんどん立場が高くなってゆく・・・この地球の現実社会とおなじようです。

そうやって、いろんな次元、階層を経験し、他の天体、星星の開発や援助を手がけながら、やがて老子様ように大神霊となって、だれもが自由自在身となって、星のように光輝いて生きてゆくわけです。

肉体身の生活は、そのなかのほんのひとこま・・・

その入り口・・それが人間は生命であって、肉体だけに意識が固着しているものではない、と知識でも良いから知っておくこと

次・・想念、想いは本当の自分ではなくて、習慣であることを知ること

その次・・あらゆる環境、想念は瞬間瞬間消えてゆくのであって、追っかけなければ消えてゆくということを知ること(川の水のように)

その次の次・・人間の本体は、霊光であって、光り輝いているものであり、本来は自由自在に宇宙を駆け巡り働いていることを信じること(誰もがすでに仏様なのだが自覚していないので、力が出ていない)

そういうお話


亡くなっても生きていることを知っていることは大きな得

今回は、臨終の様子です。

これも人間の数だけ、みなユニークな移行の仕方をするみたいです。

大きく分けて3種類・・・

  1.死んだら意識がなくなると信じている(これも一つの信仰)

  2.死んでも意識はなくならないと信じている

  3.死んでみないとわからない(科学的な中立的立場)

それらの中でも、いろいろ内容が違っています。

そんなお話です。


臨終の様子

 

最近思うのは、人間には2種類あるということです。


目に見える人間・・肉体を持っている人間

目に見えない人間・・肉体を持たない人間


当然、目に見えない人間の方がはるかに沢山いることになります。

また、地球以外の霊界、神界に住んでいる人間もいることを考えると膨大な数に上ります。


とすると、おくりびとは数百人としても、むかえびとの数は、その人の心の働き方、波動圏、意識の活動範囲の広さによっては、数万、数億にのぼることもあると思います。


ちなみに、聖者になって自我がまるっきりない人は、宇宙いっぱいにその意識が拡大して、あらゆる人類に光を投げかける、光を送る、愛を放射する、どんな色の光でも、その人が必要とする光を投げかけることができるそうです。観音様ということでしょうか。私もまだ体験していません。

そういう境地を『愛そのものドキドキ、光そのものキラ☆きらと云っています。

地球人類が、やがて一人残らずそういう人間になるときが、近づいています。

最近、アカデミー賞に輝いた「おくりびと」がとても話題になっていますね。

みんな、死というものに非常な関心があるのですね。

当然のことですが。

「おくりびと」は肉体の家族、知人、友人などですが、神霊の世界の「むかえびと」は、魂のおじいさん、おばあさんである守護神、お父さんお母さんである守護霊、そして、守護霊のアシスタントである副守護霊、そして縁の深いご先祖、神霊、またかわいがった動物などであるわけです。

本当に愛情を注いだ生き物たちは、その恩を返そうと迎えに来るのですね。

そうなると「むかえびと」という映画を作らないといけないですね。

しかし、よい生き方(自他を活かすよい心の使い方)、他に利する生き方、他に貢献する生き方をしていなかった人は、あまりいいむかえがない場合や、さみしいむかえしかこないことが多いんじゃないかと思います。

また、死後の意識の回復を信じなていない場合、否定する想いのために、眠った状態がだいぶ長く続くのが普通のようです。

一番いけないのは、良心にはじる生き方(自分の本心に照らしてやましさがある場合、好んで暗い世界に行こうとしたり、自己処罰を望んでいることがある)、だらだら時間をつぶすような怠惰な生き方、人に迷惑をかけるような生き方でしょう。

やはり、肉体にある間の生き方、心の使い方が、むかえびとの質を決めてしまうのです。

インドの覚者、OSHOが亡くなったときは、すごいセレモニー、お祭りで、みなが深い感謝の念をもって、歌と踊りで、師を送ったのでした。

やはり、死ぬときは歌と踊り、音楽でおくってもらいたいものです。

覚者の死は、サマーディー、涅槃と呼ばれ、神霊の世界で、天使、仏菩薩、神々の荘厳な迎え、お祝いがあるようです。

それは死んでからのお楽しみということでニコニコ

今回は、五井先生のお母さんがなくなるときの状態のお話です。

大体、あちらの世界が魂の本拠地なので、その人の魂の系統、霊系統と云われていますが、波長の近い神霊が迎えに来ます。神道では、ア、エ、イ、オ、ウの5つの霊系統のことが、言霊の中でよく説かれていますが、大霊(大神様)が働くために、霊が分裂してゆくので、人間の場合、その一番の元霊を、直霊(なおび)といい、直霊と意識がひとつになった人を、覚者、仏陀、と呼んでいます。私たちはみな、その5つの系統の魂の子孫ということになるので、迎えに来ないわけがないのです。

ただし、こちらがそれを否定して、波長をあわさないと、迎えにこれないのです。

そこで昔から、信仰というものが自然とあるわけなのです。

みなさん、心に信を抱いて、この世でできるだけ徳を積んで、楽々とあちらへ行きましょう。


楽々と死ぬには

今は、「死んだら人間は意識がなくなって、過去に行ったことが善であれ悪であれ、チャラになる」というのが、一般的な常識で、魂の古い人たちは「魂は、肉体がなくなっても、意識とともに存続するので、自分の行いは必ず自分に帰ってくるのだから、悪いことはしなうように、悪いことは思わないようにしたほうがいい」と無意識に思っています。

しかし、後10年もすると、そんな常識は笑い話になることになってます。

他の星の桁外れに進んだ文明との交流がはじまり、意識の永遠性が科学的な方法で証明され、どんな遠くの星でも一瞬で移動することが常識になってゆきます。

人間が肉体だと信じる人は、誰一人いなくなるでしょう。

今回のお話は、霊界での生活の様子です。

その人が何を信じているかで、展開してゆく世界が変わってきます。

どうぞお楽しみに!



神仏を信じる人は死後が違う

どんどんアップしてゆきますよ。

今回は、死を恐れないで死ぬ(移行)するには、というお話ですが、本当は、人間は生まれ変わらないんですよね。

ずーっと生きっ放し(老子様のように人によっては何億年,何百億年も生きている人がいる)で、意識が活動する身体が変わるだけで、波動の違う世界で、あるいは他の星でも生きているというのが、事実のようです。

やがて、そのことを体験として確認できるときが来るでしょう。

また、死ぬときには、必ず守護霊さまや、自分が信じている宗教の聖者(ラーマクリシュナ、マハルシ、和尚、イエス様、お釈迦様、阿弥陀様、法然さん、弘法さんなど)の名前を呼びましょう。迎えがきますから。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

 

死ぬとは

 

最近、身内、親戚など、多くの人が亡くなってゆきます。

もう50近くなると、自然に死についての心の準備ができてきます。

そこで、多くの方に『死』とは、どういう現象か、どういう風に亡くなってゆくか、どういうところに移行するのか、そういう話題に関しての五井先生のお話を、シリーズでアップしてゆきたいと思います。

誰もがぜったいに逃げれない『死』というものを、あらゆる角度から、一緒に勉強してゆきましょう。


音声があまりよくないですが、とても価値があると思いますので、参考にしてください。


死を超えてゆく



新年早々、たくさんの人々が紛争の犠牲になっています。

この地区は、昔から紛争が絶えないのですが、いろいろ大義名分をつくり、人殺しを正当化しています。

潜在意識では、長年の宗教対立、領土争いからの恨みが、深い層をなして、きっかけさえあればいつでも戦争しようという、想いが渦巻いています。


どんな理由があれ暴力は、反人道的で、文明人のすることではありません。

また、どんな理由があれ、自分の心を他者から動かせれ、感情が渦巻くようであれば、その人が未熟なせいだ、ということです。他者の責任というより、もっと自分を修め養う必要があるという、証です。


お釈迦さまのお話


ある日、お釈迦様が弟子たちとともに、説法しながら、村から村へと移動していました。

そこに、うわさを聞きつけた、他の宗教の信者たちが、どれくら人間ができているか試してみよう、とお釈迦様につばを吐きかけ、罵声を浴びせました。

お釈迦様は、涼やかな輝くような笑顔で、「どうしたのかね。なにかいいたいことがあるのかね。あなたがたが侮辱しようとした人間は昔はいたのだが、今はもういないのだよ。だれも私を傷つけることはできないし、侮辱することもできない。というもの、私は動揺する想い、心、自我をはるかに解脱してしまった。私というものはもうどこにもいないのだよ」、と答えました。

すると、信者たちはひれ伏して、その場で釈尊の信者になったということです。


これが本当の人間、愛のある人のあり方、宗教に達した人間のとるべき態度ではないでしょうか。


憎しみには愛を、侮蔑には敬意を与える訓練、練習に精進してこそ、人間としての道ではないかと思います。

それから外れれば、どんな宗教を信じようと、どんな団体に属していようと、道から外れていると思うのです。


ひたすら、イスラエル、パレスチナに光を送り続けましょう。


世界人類が平和でありますように

イスラエルとパレスチナが平和でありますように