最初にことわっておきますが、↓は日本の事を書こうと思い
書き始めたんだけど、途中から完全に脱線してしまいました。
書き直そうと思って手を加えたら、文章としては整えられたけど、
氷が溶けて薄くなったカルピスのように、味気の無い、
つまらない内容になってしまったので、最初に書いた、
そのままの文章をあえて載せてみました。

ちなみに、この文章では結果として3つの事に分散してしまった。
1:日本の事
2:得る事と失う事
3:音楽の力

いずれの内容もしっかりと書けておらず、
また次の機会にちゃんと整理して書きたいと思っているので、
あくまで下書き程度に思って頂ければ幸いです。
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今回は日本について書きたいと思う。

洋楽を紹介しておきながら何を!…というのはご勘弁。


私にとっての日本は『静』です。

数え切れない程の人がそう表したであろう、
実にありふれた月並みな言葉であるけれど、
そう思うのだから仕方が無い。

私が日本という国を、あるいは自分が日本人であると
意識したのは、2度の海外生活であり、突き詰めていけば、
NYに滞在した事である。

私は22歳の時にNYに渡った。
音楽とアートに触れたかったのだ。
特にあてがある訳ではない。
ただ、言葉では表せない強い衝動に駆られ
いてもたってもいられなくて、チケットを握って
9.11が起こされた街、NYを目指した。

着くなりすぐに無計画な計画は実行された。
昼間は美術館やギャラリーを回り、
夜はライブハウスやクラブをはしごした。
話せば長くなるから、敢えて何も書かない。

そんな実に無計画な実験は3ヶ月続けられた。
そして私は明確な答えを見付けた。
実験は大成功であり、大失敗であった。

その答えこそ冒頭に書いた『静』である。
あるいは『静』の発見である。
私は海外を見るつもりが、日本を見ていた。
いや正しく言えば、海外にあって自分の起源を見付けたのだ。

その3ヶ月の間に5感に触れたものはすぐに私という
フィルターを通して、脳へ蓄積されていった。
その蓄積されたものこそ私にとってのNYであり、
それを脳で変換されたものが『静』あるいは『自分の起源』である。

さてここからそんな抽象的な言葉を具象化しよう。
具体的に『静』とは『動』と対義語にあたる位置にあり、
更に言えばその『動』とはつまりNYの文化の総称なのである。

私は意図的ではなかったけれど、NYの文化に触れる度に、
比較としての自己の価値観を見つめていた。
NYの文化と一言で言っても、もちろんアメリカだけではなく、
ヨーロッパがあり、アフリカがあり、南米があり、
もちろんアジアだってあった。
NYは全てを内包する自由の女神が象徴として立つ自由な街である。
それはもしかしたら表層的なものであったかもしれないが、
少なくとも私にとっては実に斬新で強烈なものだった。

そんな文化に触れ、私の価値観は一見して変わったように思えたが、
逆に元々自分にあった『起源』を呼び起こさせたのである。

私は日に日に自信を高めていった。
こんな大味な表現(『動』)では表せない、私だけの表現(『静』)の
勝算を確信したのである。
例えば、アクションペインティングの祖、J・ポロックの作品を前に、
墨の持つ、静かであるけれど沈黙の強さ、美しさを見ていた。
ゴッホのうねる炎のような力強いタッチを前に、
北斎の切り抜かれたリアリズムを見ていた。
そしてその心が私の中に確実に息づいている事を知った。

私は音を、筆を走らせたくて仕方が無かった。
すぐに帰国を決めた。
帰りの機内の中でも次から次へとイメージは膨らんでいった。
あとは譜面を、キャンバスを前にするだけだった。
私は帰国するとアトリエとスタジオを兼ね備えた自宅へ急いだ。

寝る間も惜しんで、創作活動は続けられた。
太陽が何回か昇り、また月が何回か暗闇をもたらすと、
作品は徐々にその姿を現し始めた。
作業は終盤に差し掛かり、さてこれからという時に、
突然電話のベルが鳴った。
イライラしながら電話に出ると、電話の相手は『非日常』
という名の人物からの『消しゴム』という内容の知らせだった。

私のとても親しかった友人は文字通り寝たまま起きなかった。
その眠りは本人すら気付かない程、突然訪れ、
また終わりの無いものだった。
棺の中の彼の表情は、起きるタイミングを見計らっているようだった。
しかしいつまで経ってもドッキリ成功の札を持つ仕掛け人は現れなかった。

今思えば、私の中にあった溢れんばかりのイメージが文字通り
全て消えたのは、その電話のベルが鳴ったその瞬間だった。
私はその日から楽器も、筆も、更には本さえも全く触れなくなった。

もう一度言おう。
『全て消えたのだ』

私はいつか傷心から立ち直っていたが、創作活動以前に、
それらに触れる事すら興味を失っていた。
音楽は単なる音であり、絵の具は、単なる色だった。
文章は文字の羅列に過ぎなかった。

私はただ寝て起きて、気が向いたら少し働いてという生活を
約1年間続け、完全に表現という言葉すら忘れていたある日、
ふと窓の外から聴こえてくる、音楽に耳を傾けていた。
そのミュージシャンは『everything's gonna be alright』
と歌っていた。
気付いたら私はその曲を口ずさみながら泣いていた。

私はそれから音楽の持つ本当の力を信じるようになった。
私は本当に救われたのだから。
退屈な日常を、かけがえの無い一日へと変える瞬間を
目の当たりにしたのだから。
だから私は今音楽を聴いている。
そしてより多くの人に聴いてもらいたいと思ってこんな風に
パソコンのキーボードを叩いているのだ。

完全に途中から趣旨が変わってしまったけど、
音楽の持つ力を伝えたいという意味では、これほど
説得力のある文章は今までも、そしてこれからも
私には書けないと思う。

そういう意味では 『everything's gonna be alright』
なのである(かなり強引ですが)

今でもかなりまいってしまうとBob Marleyを聴いている。
彼はいつまでも歌い続けるだろう。
everything's gonna be alrightと。
久し振りの『洋楽入門』ですが、
今回も引き続きAutechreをご紹介します。

前回ご紹介した『Confield』は決して聴き易い
作品ではないので、自身どうだったんだろう?
と思っていますが、今後ご紹介する作品や音楽を
聴く上では一つの指針となる作品だと思うので、
まあ、結果的には良かったんだと思っています。

今回は前回ご紹介した『Confield』の次の作品
『Draft 7.30』です。
誰でも分かる洋楽入門-draft 7.30

いよいよ楽しくなってきました。
ここら辺の作品を紹介できるのは
私としてはかなり興奮します。
ギアを一段上げた感じです。

アルバム通して、前作『Confield』で切り開いた
新たな音の世界を、更に踏み込んだ感じです。
クールな質感と、無骨なビートが印象的です。


さて、オススメの曲ですが
『Xylin Room』
アルバムの冒頭を飾る飛び道具満載の作品



『Reniform Puls』
アルバムの最後を締めくくる王手。



『Surripere』
少し『Confield』以前のAutechreの影が見え隠れします。
ちなみに10分を越す作品なので最後切れてます。



『V-Proc』
普通のトラックとAutechreの出会い。






どうですかね?
そろそろ飽きてきてるんじゃないかと心配してる訳ですが、
まだまだ続ける予定です。

何と言っても音楽への飽くなき探究心とそれを見事に具現化
するAutechreは、好き嫌いではなくて音楽の進化の足跡として
紹介したいと思うんです。

ここには聴覚という5感の中でも比較的抽象的な器官へ、
確かな形として、訴えかける新たな音の世界への
一つの答えがあります。

そんな作品を、音楽を是非皆さんに紹介したいというのは、
単なるエゴでしょうか?

そんな自問自答を繰り返しながらも、あえて紹介する道を選びました。
聴く聴かないはあなたの自由です。
でも聴く価値のある音楽である事を約束します。
最近一目惚れをしました。

お相手は近所のペットショップにいる猫のサバちゃんです。
(模様がサバみたいなので勝手に名付けました)

以来すっかり常連さんになってしまいました。
ワンルームのマンションなので飼える訳も無く、
ただ仕事帰りに立ち寄って、ガラス越しに眺めるだけなんですが、
思わず頬がゆるみます。

周りから見たらイタイ絵だと思いますが、
周囲の目なんか気にしません。
見てるだけで心が和むんです。

元々ペットショップって嫌いなんです。
動物の見世物小屋的な感じがして。
更に言えば、動物に値段が付いている事が。

なので、出来たらサバちゃんを解放してあげたいんですが、
(これって、舞妓さんを身請する感覚に近いのかな?)
ワンルームという大きな壁が立ちはだかっています。

ちなみにサバちゃんは3月生まれでまだまだ子猫なんですが、
動物ってあっという間に成長して大人になってしまうので、
もし売れ残ってしまったらどうするんですかね?

やっぱり飼うんだったら子猫、あるいは子犬からって
みんな思っていると思うんで、自分でも嫌な言い方ですが、
大人になってしまったら商品価値が下がるんではないかと
思うんです。

まあ、サバちゃんにはそんな心配は無く、むしろ飼い主が
付いて、ペットショップからいなくなる心配をしている訳ですが、
その日が確実に近付いている事を思うと複雑です。

この一週間、マジで飼っても良いんじゃないかな?と、
踏み出してはいけない一歩を踏み出しそうです。
世の中には実にたくさんの人がいて、
その一人一人が全く違うアイデンティティーを
持っていて、それが人生の醍醐味であったり、
逆にトラブルの原因になったりと色々ある訳です。

私は基本的に初対面の人に素の部分は見せません。
硬い仮面を被って、当たり障りの無い対応をします。
逆に初対面なのに、ものすごく愛想が良かったり、
自分の事を見せて来る人はあまり信用しません。
何かあるんじゃないかと思ってしまうんです。

ってこんな風に書くと、人間不信みたいに思われる
かもしれませんが、そんな訳でもないんですよ。
まあ、言い方を変えれば、社交的じゃないんです。
あるいは人見知りとでも言いましょうか。

人付き合いは、広く浅くより、狭く深くです。
20歳前後の時、好奇心が旺盛で、積極的に自分から声を掛けて
かなりの人脈を持っていた時期もありましたが、結局今付き合いの
ある人は、長い事時間を掛けて仲良くなった人がほとんどです。

私にとって友達の定義あるいは意義は、数ではなくて、質です。
質って言うと、何か選民思想的な印象を与えかねないけど、
それはあくまで私の尺度であって、またその観点から見て
優れてるだとか劣ってるだとかは思いません。
この人と一緒にいると心地良いなと思うだけです。
相手がどう思っているかは分かりませんが(笑)

携帯を変える度に、どんどん電話帳の登録件数が減っていくのは
私にとってはとても良い傾向です。
↑でも書いたけど、20歳前後の時は恐ろしい数の名前が登録されていて
電話が掛かってきても、ディスプレーに出る名前を見て、
『あれ、これ誰だっけ?』なんて事がしばしばありました。
そして訳の分からないパーティーや、イベントがある度に、
心をすり減らしていきました。

そんな事がしばらく続いたある時、私は携帯を文字通り捨てました。
何だか携帯に使われているような気がしたんです。
『誰だっけ?』って人から時間も場所も選ばずに掛かってくる事が、
苦痛になり、それに出ない事が罪悪感になり、それならば
もう捨てようとなった訳です。

多分ほとんどの人が携帯の無い生活なんて考えられないと
思うかと思いますが、案外普通に出来るもんですよ。
って今持ってますけど。
その時は一人暮らしで、自宅に固定電話も無かったんで、
メモを持って公衆電話から掛けたり、手紙を書いたりしてました。

そんな生活が大体一年間続いて、さすがに↑に書いたような人とは
一切関わらなくなって、再び携帯を持つようになりました。
後になって共通の知人から聞いた話では、私には実にたくさんの噂が
たっていたようで(ここでは書けませんが)、それはそれで
中々面白いなと思いました。

さて、思いつくままにダラダラと書いてしまい何を書こうとしていたのか
完全に見失ってしまいましたが、もう少しお付き合い下さい。


これだけコミュニケーションのツールが発達した現代にあって、
皮肉な事に人のコミュニケーション能力は、
日に日に衰えてきていると思います。
例えばマンツーマンのツールを介さない意思疎通、
つまり実際に二人っきりで会って話す事なんて、
果たして電話帳に登録されている何パーセントの人とできるでしょうか?
こんな事を偉そうに書いている私も、残念な事に100%ではありません。
それでもなるべく自分にとって大切な人とはちゃんと会ったり、
連絡を取るようにしてます。

もちろん色んな人への愛情も大切な事だけれど、
もう少し自分をいたわる事も大事な事だと思います。
更に言えば、自我や自己を通す事が正しい事とは思いませんが、
自分を偽ってまで、集団へ属する事の必要性も感じません。
つまりはありのままの自分でいれる事が、今の時代にあって
とても大切な事だと思う訳です。

最後になって、急に文章に意味を持たせようと
必死になってしまいましたが、
まあ、『へえ』程度でも、感じて頂けたら幸いです。

ではでは。
さて前回に引き続き今回もAutechreを紹介します。

前回の文章の最後に『新しい姿を見せる』と、含みを
持たせた事を書きましたが、その言葉に負けない、
強烈な作品を紹介します。

『Confield』です。
誰でも分かる洋楽入門-confield

前回ご紹介した『LP5』より3年の沈黙を経て
リリースされた本作は、完全に超えてしまった。
そう、超えてしまったのだ。
既にリズムはリズムとしてではなく、純粋たる音となった。

言いたい事は↓で詳しく書くので、
まずは何も考えずに聴いて欲しいと思う。
『VI Scose Poise』


『Cfern』


『Pen Expers』


『Sim Gishel』



恐らく一曲目の最初の音が聴こえた時点で、
『?』となってしまったかと思う。

私も最初に試聴した時、何が起きたのか分からなかった。
ヘッドホンから流れる音の塊は明らかに今までのAutechre、
そしてTechnoの枠をあっさり超えてしまっていたのだから。

このアルバムの全体像はある程度聴きこまないと分からない。
初めて聴いた時は、ただただその音の前にひれ伏してしまう。
とにかく圧倒的なのだ。全てが未知の世界であり圧倒的なのである。

しかしある程度聴きこんでいくと、
そこに一つの明確なテーマが見えてくる。
音楽の可能性に対するAutechreからの回答、あるいは挑戦。
そして留まる事、あるいは既成概念への反発。

↑でも書いたが、この作品においてリズムはあくまで音であり、
曲を構成する要素の一つとして扱われている。
このアルバムにおいて、そんなリズム、あるいはTechnoとは、
こうあるべきであるという既成概念を真正面から否定している。

しかし単に実験性や革新性を追い求めた作品ではない。
音の端々に、Autechreの音への、そしてその音が生み出す
空間へのこだわりがうかがえる。
そう、これは間違いなくAutechreの作品である。
どこまで姿を変えようとやはりAutechreはAutechreなのである。

もしかしたら、Autechreというのはアーティストというより
プロジェクトとして捉えた方が相応しいかもしれない。
既成概念に対する反発、そして新しい音への挑戦。
それらへのアプローチ、一連のムーブメントとしてのプロジェクト。


長々と書いてしまったが、
とにかく何度も聴いてみて欲しいと思う。
そこには必ず変わった自分がいるはずだ。
音やリズムの構成に何か一定の法則を求めていた
過去の自分とは違う新しい自分が。

そんな事を言っておきながらなんだが、
残念ながらこの作品は傑作とは言えない。
まだまだ、トラックとして未完成な部分が見受けられる。

この作品はAutechre(新Autechreと言えようか)の
進化の過程であり、序章に過ぎない。
しかし、Autechreが、Technoが、更に言えば音楽が
進化する上での重要な作品である事は間違いない。


次回もAutechreをご紹介する。
進化したその先に、果たしてどんな世界を彼らが
見せてくれるのか?そしてその世界で鳴らされる音とは?
そんな作品を紹介したいと思う。

ではでは。