白兎の地図と歴史の巡検記
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「向う両国」門前仲町の魅力

2008年03月05日 掲載


白兎の地図と歴史の巡検記


江東区西部、深川との境を首都高速5号線が通り、永代通りと清澄通りが交差し、その下を地下鉄営団半蔵門線と都営大江戸線が走る。近代化されはしたが今なお江戸下町の名残を止める。地下鉄を降りて地上に出ると、深川不動堂や富岡八幡宮に参詣する人、参道の両側に並ぶ店で土産品を買う人、名物深川蒸篭めしに行列をつくる人、一年を通して終日賑わいを見せる、それが東京の下町門前仲町の魅力である。


●いわれ
 承応2年(1653)四代将軍家綱の時、永代寺地所に門前町屋を開き、永代寺門前仲町と称したのが町名の起源とされる。8月15日を中心に行われる「深川八幡祭り」、10月初旬越中島橋そばの臨海公園で催される「深川の力持」、大横川ほとりの黒船橋公園で公開される「木場の角乗り」は有名である。


●隅田川への架橋
 明暦の大火「振袖火事」によって多数の犠牲者を出したことを反省し、幕府は大川(隅田川)に橋を増設することとなった。それまでは江戸城を守るという軍事上の見地から、千住大橋の一か所しか架かっていなかった。最初に現在の両国橋より下流20~50m付近に大橋を架けた。その後、元禄6年(1693)に新大橋が架けられると、それまでの大橋を改め武蔵国と下総国、両国を往来することから何時しか江戸っ子が「両国橋」と名付けたという。元禄11年(1698)には永代橋、安永3年(1774)に吾妻橋(当初は大川橋と呼んだ)が完成し、以降順次隅田川への架橋がなされていったのである。
 ちなみに両国橋だけでも5回焼け落ち、大水により2回流失、破損による改修は十数回にのぼる。明治8年(1875)にやっと新しい木橋が完成するも、明治30年(1897)に夏の川開きで大勢の人の重みにより、両側の欄干が落ち数十人が死傷した。明治37年(1904)に鉄橋となるも、大正12年(1923)の関東大震災により改修、昭和7年(1932)やっと現在の姿になったが、昭和20年(1945)3月には東京大空襲にもあっている。


●江戸下町とは
 橋が架けられると橋番という係を置き、広場を造った。人が来るから必然的に店や見せ物小屋ができたのである。武蔵国側では広小路という繁華街ができて、江戸の気取った人たちで賑わった。一方、下総側の東両国を「向う両国」と呼んで、少々見下していたのである。しかし、向う両国のほうがざっくばらんな江戸下町の人情溢れる人たちで賑わったという。粋な築地、浜町河岸の芸者と人情味ある深川、辰巳芸者に代表されていたようである。日本橋を出て広小路の繁華街を抜けて両国橋を渡ると大相撲発祥の地「回向院(えこういん)」があった。それから紀伊国屋文左衛門の屋敷(現在の清澄庭園)を抜けると門前仲町に行けた。永代橋が架かると、日本橋からまっすぐに門前仲町に行けるようになった。『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士も吉良邸討入り後、この永代橋を渡り、江戸城の近くを通り三田から芝高輪の泉岳寺へと歩いて行ったのである。


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●富岡八幡宮
 徳川幕府が開かれた当時、深川一帯は江戸湾内に点在する砂州の集まりであった。いたるところ葭葦が茂り、住む人も少なく漁業する人が主で集落程度でしかなかった。その一角に永代島と呼ばれる小さな島があり、その一帯を菅原道真公の後裔といわれる長盛法印が埋め立てて、社地を氏子の居住地とし、寛永4年(1627)八幡宮を創設したとされる。この開拓地が現在の八幡宮境内、深川公園、富岡町、門前仲町に該当、6万508坪という広大な社有地であったといわれる。その後、真言宗大栄山永代寺を建立、長盛法印自ら初代住職となった。明治維新となってから神仏分離令により、永代寺は廃止させられ、現在跡地は深川公園となっている。およそ千年前の利根川は向島辺りで東京湾へと流れていたが、治水工事により銚子のほうへと流れを改修、従って隅田川はずっと後に出現したのである。
 隅田川の出現により同じ氏子地域である深川と日本橋、京橋の一角を分断することになってしまった。深川側となった永代島にある八幡宮なので、昔は「永代八幡宮」とも言われた。この永代島八幡宮(富岡八幡宮)と永代寺に、江戸の人々が参詣するようになると、大名、小名の下屋敷や豪商の別邸などが建ち賑わうようになった。そして、門前町が発生し江戸文化の華が開くこととなる。辰巳芸者に代表されるごとく辰巳情緒、下町情緒なるものが醸成されていったのである。


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●門前町
 江戸湾の魚貝を獲って細々と暮らす漁師町であった小さな永代島が、深川という広い地域に展開されていき、門前町が発生した。隅田川に注ぐ支流や堀川という水利の便は木場となり、佐賀町の倉庫地帯となり、やがて下町の工業生産地帯を形成していった。現在、東京でも比較的純朴な下町情緒溢れる土地柄で、その沿革を辿ると八幡宮との歴史的結びつきによるものであることがよく理解できる。この一帯の人々は富岡八幡宮を尊敬し、祭礼を愛好し伝統を守り続けている。


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●富岡八幡宮の祭礼(深川八幡祭り)
 毎年8月15日を中心に行われ、江戸三大祭りの一つに数えられている。他の二つは山王日枝神社と神田明神で「神輿の深川、山車の神田、だだっ広いが山王様」と言われ、それぞれ百か町村以上の氏子町内を有していた。寺社奉行直轄免許の祭礼で「天下祭」と呼ばれていた。なかでも八幡宮の祭礼は下町風の勇み肌祭礼として、勇壮な神輿振りで庶民に人気があった。当初は御船祭であったが、元禄時代深川に屋敷のあった紀伊国屋文左衛門が、金銭に糸目を付けず総金張りの大神輿を奉納したことから神輿祭りになったという。しかし、大正12年(1923)の関東大震災で惜しくも焼失してしまった。
 粋で神輿好きな深川っ子の悲願は、平成3年5月にようやく成就、台輪幅1.5m、屋根の最大幅2.9m、高さ4mを越え総重量は約4.5トンに達するものである。大きさ重さともに日本一を誇り、装飾には多くのダイヤ、ルビ-、24Kの純金がふんだんに使われるという真に見事なものである。奉納の儀式は目を見張るものであったが全国にも報道された。まさに江戸下町っ子の心意気そのものであろう。
 3年に一度行われる「本祭り」には氏子各町から大神輿ばかり五十数基が列を組んで約2㎞も練り歩く。沿道には7~80万とも言われる見物客で埋まる。神輿の担ぎ手に水を浴びせることから別名「水掛祭り」とも言われ、昔からの伝統を守り江戸の粋を伝える唯一の祭りとなっている。


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●深川不動堂
 元禄時代に江戸町人を中心に不動尊信仰が広まった。成田山新勝寺は信徒数も増え、寺格も上り本山へと発展していった。この過程で成田山のご本尊、不動明王を江戸で参拝出来ないものかと考えるようになった。元禄16年(1703)4月に初めて江戸に於ける出張ご開帳が実現した。“お犬様”で知られる五代将軍綱吉の母桂昌院が、成田山の不動明王を江戸で参拝したいと言って実現した。桂昌院は深川の木場にある州﨑神社(境内には波除碑・津波警告の碑がある)の守り神にもなっている。成田山を出発した総勢約300人の行列は、ご本尊共々一週間かけて到着、2カ月にわたる江戸ご開帳は大変な人気であった。
 このご開帳場所となったのが永代寺境内で、深川不動堂の起こりとされる。明治になり神仏分離令によって永代寺は廃寺となり、明治2年(1869)現在の地に深川不動堂が認められた。同14年に本堂が完成したが、関東大震災と東京大空襲と二度も焼失した。幸いにもご本尊は焼失を免れた。昭和26年(1951)、千葉県印旛沼の龍腹寺を移築して現在の本堂とした。江東区最古の本造建築で老朽化が著しく、平成3年大改修をした。平成14年、300年記念事業として内佛殿を建立、東都随一の不動霊場として幅広い信仰を集めている。


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●百万歩の男「伊能忠敬」
 我が国の地図史は伊能忠敬(1745~1818)抜きには語れない。延享2年(1745)、上総国九十九里浜のほぼ中央、小関村の名主の家で誕生した。名を「三次郎」といい、幼少より読み書き、算盤などの基礎教育を受け書物を好んだ。17歳で佐原の酒造元伊能家へ入婿、商才を発揮して財を成した。当時、地球が円いことは判っていたが、大きさ、距離は判っていなかったので、地球を測ることを考えていたという。49歳で息子に家督を譲って江戸に出て、天文学者高橋至時(よしとき)の門下となり測量術の習得に励んだのである。


●江戸黒江町の隠宅
 伊能忠敬は江戸の住まいを黒江町、現在の門前仲町一丁目に構えた。19歳も年下の高橋至時の弟子となり、暦学、天文学を学ぶ傍ら、門前仲町の隠宅を中心に深川、浅草辺りまで歩測して地図を作成したという。伊能は訓練の結果一町を158歩で歩いた。一町は60間、1間は6尺、1尺は30.30cmとすれば、歩測の一歩は69.03cmとされる。寛政12年(1800)4月19日、幕府の命を受け全国測量に出発する。早朝に富岡八幡宮に参拝してから蝦夷地に旅立ったといわれる。伊能は17年の歳月をかけ全国を測量した。この時、日頃訓練した歩測に加え、間縄と天体観測を駆使して測量していった。この間10回の旅立ちであったが、その都度富岡八幡宮に参拝し無事を祈ったのである。



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●伊能忠敬の銅像
 平成13年1月20日、富岡八幡宮参道入口大鳥居前に銅像が建てられた。大きな黒御影石に刻まれた日本地図を背景に、杖先方位盤を手に測量へと旅立つ姿である。銅像の隣りには、国土地理院による新地球座標系の国家基準点(三等三角点)が設置され、まさに近代日本地図の祖、伊能忠敬に相応しいものと言えよう。多くの参詣者、観光客が名物深川めし(あさりのせいろむし)、甘酒屋を訪れるが、この銅像も必ず目に触れ、後世に永く語り継がれていくことであろう。

                                      
●むすび
 隅田川への架橋は順次行われ、近年はレインボ-ブリッジも出現した。かつて永代島から深川へ深川へと埋め立てられ拡大されていった「向う両国」であるが、今や超近代的な都市に変貌しつつある。平成23年度(2011)には業平橋、押上地区に、デジタル放送用アンテナを付け、450mの高さに展望台を備えた、約610mの新タワ-が出現する。「向う両国」、下町などと言われ見下されていたようなことは、武蔵国側にお返ししたい気持であろう。忘れてならないのは、あくまでも埋め立て地である。地球温暖化による東京湾海面上昇は何時災害をもたらすか判らない。木場の州﨑神社境内にある「波除碑・津波警告碑」 を決して忘れてはならないと思う。


おしまい

河津桜と早春の爪木崎

2008年02月28日~ 2008年03月1日掲載


春を待ちかねていた多くの人が河津桜を観賞して、ひと足早く春を肌で感じようと訪れる。旅ジャーナリスト会議でも2月17日(日)~18日(月)に、森田代表他6名の会員が河津桜と爪木崎の水仙と秘湯を訪ねる研修旅行を実施した。


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●河津町(かわづちょう)
 緑と清流と温泉、面積101k㎡、人口9千人足らずの町が、年に一度町をあげて取り組む河津まつり。伊豆半島の東海岸に位置し、大部分が天城山系の山林である。町の中央を天城峠を発源とする河津川が流れ、わずかに下流部分のみが平地である。河津川の流域は上流に河津七滝や大滝、七滝温泉、中流には湯ヶ島、下流には峰、河津浜、今井浜温泉があって河津温泉郷を形成している。河口付近には砂浜が広がり海水浴で賑わう。山、渓谷、温泉、海と観光資源にはこと欠かない河津町。年に一度、まつり実行委員会のもと、役場、観光協会、商工会賛助店、河津桜まつり賛助会員や町民あげての熱い1カ月におよぶイベントが繰り広げられる。


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●河津桜
特徴は開花時期が早く、2月上旬から3月上旬まで約1カ月にわたって咲くことである。花が大きくピンク色で、緋寒桜と早咲きの大島桜が自然交配したものと考えられているが、昭和50年(1975)4月、河津町の木として指定された。伊豆急河津駅より1.3㎞上流には、河津桜の原木が凛として咲き誇っている。原木の地は民家の庭先で駐車場も無いため、近くの河津町役場が駐車場やトイレも提供して、ボランティアが活躍している。


●河津桜原木物語(原木前の看板から引用)
「昭和30年頃の2月のある日、この家の主であった飯田勝美氏が河津川沿いで(豊泉橋上流の田中地区側)、冬の枯れ雑草の中で芽吹いていた1m位に育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えた事が始まりでした。約10年後の昭和41年1月下旬、やっと花が咲き始めました。同年4月、主の勝美氏は花が咲くのを見届けて永眠しました。その後きれいに咲く桜を見て譲って欲しいという話もありましたが、思い出の桜のため手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれ親しまれていました。その後の調査で新種の桜とわかり昭和49年には河津で生れた桜であることから「河津桜」と命名され昭和50年4月に河津の木に指定されました」(飯田ひでさん談)
原木の大きさ 木高約10m 樹幅約10m 幹間約115㎝


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 原木を観賞しての帰り道、ふと商店の店先に置いてある鉢植えが何ともいえない不思議なものであった。仏手柑(ぶしゅかん)という種類の柑だそうである。


●町をあげてのイベント
 花見は昼間も楽しいが夜桜もまた格別の感がある。まつりの期間中は河津駅前会場と峰温泉、それに約10㎞も離れた河津七滝ループ橋下まで、あちらこちらで夜桜ライトアップが楽しめる。足湯のサービス処、甘酒や火鉢で暖をとるサービス、伊豆踊り子と記念撮影、スタンプウォーク等々盛りだくさんである。


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●爪木崎
 河津温泉郷も魅力ではあるが、雑踏と喧騒を逃れて少々足を延ばし爪木崎を訪れた。今年は寒い日が多かったせいか、水仙まつりとアロエまつりが終ったというのに、まだまだ見てくれと言わんばかりに咲いている。


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 池の段とよばれる草原一帯に、冬は水仙。アロエ、夏にはハマユウが咲き誇る。


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 海岸は海食崖で爪木島、田浦島の岩礁が見事な姿をしている。六角柱状節理を伴う安山岩が、海食で露出する俵磯海岸は県の天然記念物となっている。須崎遊歩道での散策、先端に行けば爪木崎灯台に出て、伊豆七島の眺望がすばらしい。海水浴や磯遊びも楽しめ、須崎御用邸がこの地にあるのも納得できる。


●秘湯の宿「風」
 伊豆急下田駅から爪木崎行バスで約15分、下田・爪木崎公園、須崎御用邸に隣接し海水浴、森林浴、加えて温泉と豊富な海の幸が味わえる。館内にはペリー開国当時を思い起こさせる、西欧アンティークや骨董が飾られたりして、和洋とりまぜての癒しの空間となっている。


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 この「風」こそ、日本の秘湯を守る会の宿であり、屋上にある露天風呂からの眺望は、寝姿山に沈む夕日、伊豆七島と海から昇る眩いばかりの日の出、まさに秘湯の名に相応しい露天風呂である。この「風」は、江戸情緒を楽しむ宿、江戸の遊びを楽しむ宿として知られる、浅草の助六の宿「貞千代」が経営しており、永年の経験と地元の豊富な食材を使っての料理と地酒がなおいっそう心に残る。


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●下田港・ペリーロード
 下田は幕末開港の歴史探訪や黒船下田港内めぐりによる湾内からの眺望も趣がある。華やかさはないものの、町おこしのひとつとしてペリーロードの散策が静かなブームにもなっている。


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 日露和親条約が結ばれた長楽寺、日米下田条約が結ばれた了仙寺(写真左)(境内裏手には古墳跡(写真右)がある)辺りから用水路の両側に沿って、ペリー上陸記念碑のある港まで続く。ここは幕末当時の下田の花街跡。ミニ倉敷のように情緒溢れている。町おこしの一環として用水路を綺麗にしたり、趣のある品揃えの店、ちょっと入ってみたくなるような飲食店などゆったりとした散策が楽しめる。


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●むすび
 今回、河津桜まつり取材と秘湯の宿爪木崎「風」に泊まり、早春の南伊豆の旅を味わった。今年のNHK大河ドラマ『篤姫』は、これからペリー来航による幕末の開港、開国の場面を迎える。下田開港博物館に立寄り、さらに知識を高めることで一層興味が湧くであろう。伊豆急下田駅からは特急踊り子号で帰京の途に着く。ホームには無事帰るように祈る石造の「カエル像」が見送ってくれる。


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おしまい

三浦半島油壺湾

2008年02月25日~2008年02月27日掲載


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浸食谷の沈水による狭い湾内は油を流したように波穏やかである。ヨットハーバーとして有名だが、国土交通省国土地理院の験潮場が設置され、毎日水位測定が行われている。日本水準原点に送るデータや、地球温暖化による海面上昇、地震予知等に資する重要なところなのである。


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●京浜急行とバスを乗り継ぐゆったり旅
 旅ジャーナリスト会議の会員である、(有)ブルボンクリエイション小出文彦氏が企画・制作し、会員の多くが執筆と写真協力した、『新・全国フリーきっぷガイド‘07~‘08』(人文社発行) の中から、京浜急行電鉄(鈴木龍生記)のガイドを参考にしよう。京急品川駅で「三浦半島1DAYきっぷ」(1900円)を購入、特快で三崎口駅まで約1時間余のゆったり旅である。乗車して走り出すとすぐに気がつく。なぜか車内がゆったりしており、騒音も振動も感じない。
 鈴木氏によれば、「明治32年(1899)日本で3番目、関東では最初の電車として、生まれた時から標準軌1435mのレールで走り続けており、軌間で考えると新幹線などは孫みたいなもの」と評している。そのとおりの実感でスピードこそ違うが、新幹線のぞみの気分といってもよい。1DAYフリーきっぷの特典をあらためて見てみると、京急バスは金沢文庫以南で全線乗り放題のほか、優待割引となる施設が色々とある。三浦半島のチラシを見ながら、あれこれ計画を練るのも旅の楽しさである。


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●三崎口駅から京急バスで油壺へ
 終点三崎口駅前からは各方面へのバス路線が多くある。電車から降りた観光客の多くは、城ヶ島や三崎港へのバス停に並ぶ。やはり城ヶ島の景色と日帰り温泉、そしてお目当ては三崎魚市場のマグロなのであろう。それに比べ油壺へのバス停は心なしか寂しい。バスは約20分間隔で運行されており、結構便利である。フリーきっぷを見せるだけで何処でも乗降できるのも便利である。バスは三崎口駅前を出発すると、15分位で終点の油壺に到着する。暖冬なのであろうか1月だというのに、菜の花や梅の花が咲き、畑では農作業をする姿も見られる。沿道には所々マグロの料理が食べられるお店の看板が目について途中下車したくなる。
 終点油壺のバス停(写真右)は、何と立派な公衆トイレの建物の真ん前である。観光地トイレの充実は筆者の取り組んでいるテーマの一つであり、このような光景を見ると心なしか嬉しいものである。しかし、折り返しバスの発車場所前には、昔の駄菓子やのような古いおみやげ屋が2軒並んでおり、それぞれにおばあさんがいるだけである。店を覘いても、どうも売れそうにないみやげ物で、なんとも侘しい光景である。


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●国土交通省国土地理院油壺験潮場
 バス停から約100mほどのところに験潮場入口という標識が立っている。足元の危険な階段状の狭い道を下りて行くと、ほどなく一等水準点(写真右)に突き当たる。ここは、全国に設置されている基準水準点83点の一つで№.26である。昭和5年(1930)に設置され、標石上面が東京湾平均海水面からの高さ(標高)を表わしている。その高さは16m6905となっている。



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 さらに下っていくと海となり、そこに験潮場が設置されている。北緯35度9分37秒、東経139度36分56秒に位置し、明治27年(1894)7月から観測が開始された。験潮場は2棟あって奥にあるレンガ造りのほうが最初の験潮場(写真左)、手前が新しい験潮場(写真右)である。古い験潮場には「建設省国土地理院油壺験潮場」という古びた木の看板が掲げられている。
 現在は手前の新しい建物が使われており、館内には海面の上がり下がりを自動的に、精密に記録する験潮儀が設置されている。この記録は高さの基準を決めたり、土地の変動や地震予知のために非常に大切な資料になる。我が国は明治政府が国土の測量を始めたとき、東京湾の霊岸島験潮場のデータを使用していたが、関東大震災後は油壺験潮場のデータを基準としている。
 毎日水位観測を行い、東京都千代田区永田町1―1憲政記念館構内にある、日本水準原点の基準値に使用されている。当初は25mであったが、関東大震災による地盤沈下と潮位の変化により86㎜修正されて、24m4140となり現在に至っている。この基準により全国の標高が定められ、富士山は現在の3776mとされているのである。また、毎日のデータは海岸昇降検知センターにも送られ、気象庁や海上保安庁、全国の自治体による験潮データと併せまとめられている。最近の地球温暖化による海面上昇や地震予知などに不可欠な資料となっているのだ。


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●京急油壺マリンパーク  験潮場からさらに100mほど足を延ばすと小網崎の先端にマリンパークがある。1DAYフリーきっぷを提示すると、入園料大人1700円が1000円になる。ここは昔、三浦氏の本拠、新井城があったが、三浦道寸(義同〈よしあつ〉)のとき、永正15年(1518)北條早雲によって滅ぼされた。この城跡に油壺マリンパークという海のレジャーランドがある。360度ぐるりとドーナツ型の大回遊水槽には、全長3mのサメ「シロワニ」が遊泳していたり、色々な魚の餌付けが見られる。大海洋劇場ファンタジアムでは、イルカ、アシカショーやキタイワトビペンギンなどが身近に見られる。しかし、油壺の特徴的な物といえば、「海洋深層水」であろう。このマリンパークでは海洋深層水を利用した世界初の展示施設「海洋深層水館D・S wonder」が見どころである。






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●21世紀の水「海洋深層水」
 近年、様々な分野から「海洋深層水」が注目されている。これは、大陸棚より沖合いで光合成に必要な太陽光が届かない、水深200m以上のところにある海水である。極海の海域で冷えて比重が重くなった海水・ブルームが、海底に沈みこみ長い年月をかけて、一度も大気に触れず何世紀もかけて地球を回っていると言われる。低音で細菌がなく生物に必要なミネラル等を豊富に含んでいる。飲料水、食料品、医療、健康、水産業、エネルギー等々多方面での利用が期待されている。油壺の取水設備では、三浦沖約5㎞、水深330mから取水した海洋深層水は原水、ミネラル水、塩水、淡水、ミネラル塩水の5種類に分けられる。このような施設は試行も含めて全国に約30カ所あるが、ここは相模湾で陸地より至近の海底から取水できるという利点がある。


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海洋深層水露天風呂効用書と名物マグロ丼1200円


●海洋深層水の利用例
 京急油壺マリンパークに隣接して、海洋深層水の取水施設がある。その隣りのホテル京急油壺観潮荘では、海洋深層水の露天風呂があり、日帰り入浴もできる。1DAYフリーきっぷを提示すると、入浴料1000円が2割引となる。この露天風呂の特徴は、海風を吸入する「空気浴」、太陽の光を浴びる「日光浴」と海洋深層水による「海水浴」を同時に行える。この温浴はタランソラピー(海洋療法)としても優れているといわれ、アトピー性皮膚炎などに効用があるとされる。色々な入浴方法が楽しめるが、実際にちょっと舐めてみると正しく塩味である。その他、海洋深層水を利用した飲料水や健康食品、日本酒、焼酎、水産加工品、お菓子類等々お土産品も豊富である。21世紀健康志向の高まるなか、海洋深層水の利用が注目されるであろう。海に囲まれた島国の日本だからこその研究開発であり、大いに期待したいと思う。


●おわりに
 旅ジャーナリスト会議では、旅と地球温暖化というテーマに取り組んでいる。海面上昇による色々な出来事も報告されているが、今回、水位観測をしている油壺験潮場を訪ねたところ、思わぬ副産物を得た。海洋深層水である。これからも、海面上昇について注目していくとともに、海洋深層水の行く末にも関心を高めて行きたいと思う。

おしまい

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