白兎の地図と歴史の巡検記 -4ページ目

北アルプス白馬山麓にミニSLが走る

2007年10月15日~2007年10月16日 掲載


白兎の地図と歴史の巡検記


白馬村にニュ-スポット誕生
 信州白馬村八方尾根スキ-場のふもと、和田野の森の一角に、本格的なミニ鉄道とHO(ハーフオ-)ゲ-ジの壮大なパノラマが楽しめる、白馬ミニトレインパ-クが誕生した。


白兎の地図と歴史の巡検記
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 平成19年10月6日、大自然が息づく4000坪の敷地に、わずか6棟のコテ-ジとレストラン、浴場が点在する贅沢な宿「ログコテ-ジ・エポック」で、ミニ鉄道のオ-プンを記念して「第一回白馬ミニ鉄道フェスティバル」が行われた。
 長野県、白馬村、白馬村観光局、長野電鉄などが後援、初日にはフアンや子ども連れの家族が多数訪れ、680名がミニ蒸気機関車や新幹線に乗って楽しんだ。


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 このイベントには、信州ミニ鉄道倶楽部の会員たちが多数参加、自慢のSLなどを持ち込んで走らせ競い合った。ミニトレインパ-クはエポックのオ-ナ-、大谷真由巳の父齋藤建夫氏が私財を投じて作ったもので、総延長350mの常設デュアル線路、5mの鉄道橋やミニ鉄道が20台待機できるトラバ-サ、車輌を修理する機関区を完備した。また、自らもO、Sボ-ルドウインモ-ガルパワ-(大西部開拓時代、アメリカ大地を疾走した機関車で、特徴は前に突き出したカウャッチャ-、黒煙を吹き上げる大きなダイアモンドスタック型の煙突、特徴的な大きなヘッドライトで西部劇に登場する当時の機関車)と安全性を誇る最新の7.5インチ蒸気機関車(車体縮尺1/8、大人20人を乗車した車輌を牽引可能)、5.0ンチ電気機関車(車体縮尺1/8、4)は、森林鉄道で木材搬送用に活躍した初期型電気機関車「テキ100」、という3台を所有。これらの車輌基地専用ハウスを建設するなどの懲りようである。来年の第二回フェスティバル開催までには、総延長700mにまで増設、将来は1㎞走行という日本屈指のミニ鉄道施設をめざすとしている。


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 同時に開館した鉄道模型館「HOゲ-ジハウス」は八角形のモダンな建物で、山、川、駅都市や田園風景まで作り込まれ、総延長211m、全7路線のパノラマである。新幹線や蒸気機関車など全17車輌あり、「コイン運転」が楽しめたり、自由に速さを調節しながら運転可能な「貸切ル-ム」もある。ファン自身が所有している自慢のHOゲ-ジ車輌を持ってきて走らせる「持ち込み運転」も可能にしている。鉄道模型が配置してあるテ-ブル下のトンネルを潜れば、パノラマの中心からも楽しむことができるという国内でも珍しいレイアウトとなっている。
 スキ-、登山ハイキング、パラグライダ-、ラフティング、釣、花、温泉、蕎麦など長期滞在型観光にはこと欠かない白馬村であるが、子ども連れはもちろん、ミニ鉄道フアン、鉄ちゃん&鉄子の注目を集めそうなニュ-スポットとなろう。エポックのオ-ナ-シェフ大谷敏彦氏は永年第一ホテルで修業し、白馬の地元食材を生かした料理に腕を振るっている。コテ-ジは6棟、いずれもログハウスだが、中は和風、テキサス風などと趣向を凝らし設備も万全である。自慢の貸風呂棟めぐみの湯は、浴槽に天然石と桧を使用した四角風呂と、天然まごめ石の丸風呂、和洋2つある。白馬山麓から湧き出るミネラル豊富な地下水に炭酸ガスを溶け込ませた炭酸温水が楽しめ、スキ-で冷えた体や登山ハイキング、アウトドアスポ-ツでの疲れを癒してくれる、白馬の温泉とはまた別な味わいがある。


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 長野冬季オリンピック以降白馬村も観光客の減少を余儀なくされているが、このような新しい視点に立った観光スポットができることは歓迎されよう。今後とも長野県も白馬村でも観光振興のため後援していくとのことであるが、何分にも一晩に70㎝~1mも降るという豪雪地帯である。冬場の対策も含め関係各方面の知恵と協力も必要であろう。
 来年の「第二回白馬ミニ鉄道フェスティバル」が盛大に開催されるよう、旅ジャ-ナリストとしても関心を持ち見守っていく必要があると思う。
おしまい


ログコテ-ジ エポック 白馬ミニトレインパ-ク 
〒399-9301
長野県北安曇郡白馬村八方4617-1
TEL0261-72-8233
http://www.epoch-hakuba.com/

世界遺産登録をめざす銅山遺跡「蘇るか足尾銅山」

2007年07月24日~2007年07月26日 掲載


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 銅(どう)と言わず(あかがね)と言う、わたらせ渓谷鐡道に乗り、絹織物の街桐生を出てから、緑の渓谷と清流を友にしながら上流まで行くと銅の町がある。今この足尾銅山遺跡の町が熱くなろうとしている。

はじめに
平成18年(2006)3月20日、旧足尾町は合併し栃木県日光市足尾町としてスタートした。相前後して黒保根村が群馬県桐生市に、東村と大間々町がみどり市となった。すなわち行政が2県3市にまたがり、観光に依存する、わたらせ渓谷鐡道にも少なからぬ影響を及ぼすことになった。そもそも鉄道もさることながら銅山街道(あかがねかいどう)(現・国道122線)も、足尾銅山の鉱石を江戸・東京へと運ぶために開かれ、沿線も発展してきたのである。銅山遺跡を産業観光資源として生かし、世界遺産登録をめざそうとする足尾町、同時にわたらせ渓谷鐡道の存続を願う沿線住民の動きを追ってみたいと思う。

日本の鉱業と鉱害問題
日本列島は環太平洋火山地帯に位置し、火山や温泉と多くの金属鉱床が存在する。佐渡金山、石見銀山、生野銀山、足尾銅山、別子銅山等が開発され、一時期ジパング(Zipangu=黄金の意味でJapanの語源となった)と呼ばれるほど、金・銀・銅の輸出国であった。当然のことながら鉱毒、塵肺、森林破壊、河川被害等の鉱害問題が顕在化していった。

日本の近代化と公害問題
明治維新になってほとんど国有化されていた金属鉱山や炭鉱等が民間に払い下げられた。なかでも銅は国家なりとされ、生糸と並ぶ主要な輸出産業で、足尾、別子、小坂、日立は四大銅山といわれたが、一方で四大鉱毒事件を発生させた。足尾鉱毒事件と別子、小坂、日立煙害事件であり、当然大きな社会問題となった。とりわけ、日本の「公害の原点」と称される足尾鉱毒事件は、最大の鉱毒事件で、政府の対策にも拘わらず煙害による禿山が残された。この事件は、性格には産業排水によるものとは言えないが、日本の公害の原点と言われ、明治初期から中期にかけての水質汚染例といわれる。


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足尾銅山と鉱毒事件
足尾銅山は江戸時代(1810)に発見され、徳川幕府によって開発された。明治10年(1877)古河鉱業(株)(現古河機械金属(株))の所有となって再開発され、一時期国内はもとより東洋一と言われた銅山であった。この足尾町を上流として利根川に合流するのが渡良瀬川である。足尾銅山の採鉱廃棄物は附近の谷間や斜面等に放置されていたが、幾度かの洪水により流出、下流の各地域で農漁業と人の健康に被害を与えたという事件である。最初の被害は明治11年(1878)秋の洪水で、鮒、鰻等が死んで浮き上がり、河川に浸かった農民達の足の指又がただれるというものであった。以降数回の洪水を経て北関東一円に拡がり、なかでも栃木・茨城両県の被害が甚大で、農作物は枯死、魚類の捕獲禁止、妊婦の流産が続出したという。明治27年(1894)から明治31年(1898)、栃木・茨城両県の出生率は、全国平均比一割以上低く、死亡率は約1.6倍に達した。その他、銅精錬過程での亜硫酸ガスの放出と燃料用等に森林が伐採されたこと等で、附近の山々は禿山となり渡良瀬川源流の美しい松木渓谷は、日本のグランドキャニオンと言われるほど、緑のない岩山と化してしまったのである。


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復興に向けて
被害民は地元選出の田中正造代議士を中心に、鉱山の創業停止を求めたが聞き入れられず、明治33年(1900)、請願のため東京に向った約3,000人が警官隊や憲兵と衝突した事件や明治34年(1901)、田中代議士による明治天皇への直訴事件は有名である。このように足尾銅山は公害問題の原点として世に知られているが、日本の近代化に果たした貢献も大きなものがある。大正5年(1916)には、人口がピーク3万8千人を数え、宇都宮市に次ぐ繁栄をみせた。
銅山は昭和48年(1973)に閉山されたが、現在旧坑道の一部が銅山観光用の見学ルートとして残されており、トロッコ列車に乗って実際の坑道に入り、楽しみながら当時の状況を学ぶことができる。禿山となった松木渓谷のほうも砂防ダムの建設、治山、治水、植林事業等復興に向けての努力が今も続けられている。


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世界遺産への登録をめざして
石見銀山が近代化遺産として世界遺産登録された話題は耳新しい。足尾の近くでも群馬県富岡製糸場が名乗りをあげている。足尾町では3年前に地域住民が「全町地域博物館化構想」の、まちづくり策定委員会を立上げ、足尾銅山一帯を産業観光資源と位置づけ運動を開始した。しかし、所有の古河機械金属㈱は古河グループ発祥の地でありながら、積極的な関与はしなかったという。一方、数年前から民間主体で足尾銅山の歴史に前向きに取り組むグループが活動、その先駆けとなった「NPO法人足尾歴史館」(館長長井一雄 通洞駅から徒歩5分。入館料300円。月曜休館。足尾銅山の歴史が貴重な写真や史料から学べる、足尾で生れ育ったというスタッフがボランティアで館内を案内説明してくれる)や平成18年10月に発足した「足尾銅山の世界遺産登録を考える会」等、活動の輪が広がってきた。
これらの動きに古河機械金属㈱も前向きな姿勢を示し、世界遺産登録運動に一定の理解を示すこととなった。地域住民の熱意に応えることと、事業継続を両立させるという課題も少なくない。しかし、古河の姿勢が一歩前進したことは地道な地域住民の活動といえよう。全町地域博物館化構想を進める課題は山積で前途は容易ではない。


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だが、観光資源は豊富である。足尾銅山観光、足尾歴史館、足尾砂防ダム、銅親水公園、足尾環境学習センター、日本のグランドキャニオン松木渓谷、足尾銅山精錬所跡、日本で初期時の道路鉄橋古河橋(写真)、間藤水力発電所跡、鉱山長屋、加えて渡良瀬川沿線の自然観光資源、特別天然記念物日本カモシカ、温泉等々である。定番の観光旅行に飽きた方、一度は訪ねて産業遺産、環境、歴史、社会問題を考える旅をしてほしいし、それだけの価値を持っている所であるといえよう。


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わたらせ渓谷鐡道(通称わた渓)の存続を願って
足尾銅山を考えるとき交通アクセスを抜きには考えにくい。日光市からはバス路線とマイカーであるが、何といっても桐生市からの鉄道か銅山街道(現国道122号線)を利用したバス路線とマイカーである。問題のわたらせ渓谷鐡道について考えてみよう。群馬県桐生市桐生駅から栃木県日光市間藤駅を結ぶ44.1km全線非電化、単線でワンマン運転の気動車が17駅を結ぶ。足尾銅山から産出される鉱石輸送のため、明治44年(1911)に開業、国鉄、JRの時代を経て第三セクターとしての現在に至っている。そんな歴史を背負って銅山街道と清流を友に谷筋をさかのぼって走る。とくに初夏の新緑と秋の紅葉が渓谷美を引き立たせる。しかし、足尾から終点の間藤に近づくにつれて、足尾鉱毒公害の面影や禿山の続く異観に歴史の重さを肌で感じるようになる。このわたらせ渓谷鐡道については、旅ジャーナリスト会議のメンバーが執筆した『新・全国フリーきっぷガイド'07~'08』(人文社刊行) の中で見どころなどを含めて紹介しているのでご一読願いたい。しかし、ガイドブックは別にして、実情は問題点も多くこのままでは先行きの存続が危ういのではないかと思う。


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存続に向けて沿線地域住民の動き
平成18年10月23日危機感を持った沿線では「わたらせ渓谷鐡道市民協議会」を設立した。群馬・栃木両県、沿線市の行政関係者、わた渓経営陣、地域住民有志が集まり「市民、行政、鉄道事業者三者の役割を明らかにするとともに、わた渓を支える市民の輪の拡大とネットワーク化に努める」と定め、市民サイドからわた渓を生かした地域づくりに取り組むことを宣言したのである。地域毎に行われた取り組みを挙げてみると、わた渓の利用促進、自然を生かした駅周辺や地域の整備・保全、ゴミ・缶拾いと清掃、花苗・苗木植え、草とり・線路の土手整備、トロッコ列車に手を振ろう、足尾駅祭りの実行、イルミネーション点灯事業、わた渓存続署名運動等に取り組み地域住民が鉄道を残したいと立ち上がった。
しかし、実情は問題点も多くそう簡単ではないように感じられるのは筆者だけであろうか?鉄道の存続だけではない、沿線観光について本気で観光振興に取り組んでいるのであろうか。車やバス利用の観光をも含めた総合的な振興策が求められよう。例えば、駅の温泉がキャッチフレーズの水沼温泉センター(写真左)、神戸駅ホームに停車している列車レストラン清流(写真右)、トロッコ列車に乗り見学できる銅山観光等それなりの施設はあるが、食事となると決して二度とは利用しないであろう。「コンビニのおにぎりや弁当のほうがマシ」と思われることのないよう、勉強と工夫が必要であろう。


白兎の地図と歴史の巡検記

おわりに
既述のとおり世界遺産登録をめざし、全町博物館化構想に取り組む、まちづくり策定委員会並びにNPO法人足尾歴史館等やボランティア、一方、わたらせ渓谷鐡道存続を願う、わたらせ渓谷鐡道市民協議会の活動、各々が動き出している。だが、足尾は日光市、わた渓は桐生市側の感は否めない。すでに栃木県と日光市の観光ガイド関係パンフには足尾の銅山観光が組み込まれPRされている。この現実を踏まえて冷静に考えてみよう。
そもそも足尾銅山の発展とともに、銅山街道ができ、わた渓ができ、沿線が発展してきたことはまぎれもない事実である。いわば桐生から足尾までの沿線観光は一体なのではないかと思う。日光市の足尾として世界遺産に登録され発展したとして、わた渓沿線は取り残されても良いとは考えにくい。ならば、いまこそ栃木・群馬県、日光市・桐生市・みどり市の2県3市の行政と地域住民・団体が協調して広域観光振興を推進していくべきであろう。合併による行政際間の風通しを良くした取り組みが、この沿線発展とわたらせ渓谷鉄道存続、そして足尾世界遺産登録への夢を実現させていくのではないだろうか。いや実現させてもらいたいし、鉄道も存続してもらいたいし、何度でも訪れるリピーターにもなりたいと思っている。
こう思えるのは筆者の老婆心からなのか? いや、旅ジャーナリストの立場からも今後の動向を注視していかなければならないと思うのである。おしまい

会員からの著書新刊1

2007年05月02日掲載
白兎の地図と歴史の巡検記

『「地圖」が語る日本の歴史』(暁印書館)
~大東亜戦争終結前後の測量・地図史秘話~  菊地 正浩著
ISBN978-4-87015-160-4 定価1890円(税込)

『地圖』に込められた、敗戦日本復興への想い。敗戦時の混乱の中にあって祖国日本の復興を念願し、生命を賭して貴重な地図原版と組織を護り抜いた、若き大本営情報参謀の実録。東京大空襲で奇跡的に助かり、父君はルソン島で戦死した著者が文字通り参謀の足跡を辿るとともに、秘蔵の史・資料を駆使して万感の思いで綴った、大東亜戦争終結前後の歴史的『地圖』秘話(元国土地理院長 金窪敏知)
   
我が国の近代地図史については、歩測による測量と天体観測により、日本の地図を作った「百万歩の男、伊能忠敬」抜きにしては語れない。
しかし、明治維新後は欧米の技術を導入して、日本の地図は勿論、大東亜共栄圏構想に基づき、支那・満州・朝鮮・東南アジア等々の外邦図を沢山作った、大日本帝国参謀本部陸地測量部を抜きにしては語れない。所謂、近代地図史の幕開けである。
 この陸地測量部の組織と測量・地図技術と地図原版(銅版)を、敗戦時の混乱の中にあって、祖国日本の復興を念願し生命を賭して護り抜いた若き大本営情報参謀がいた。
 この男の終戦時正式な肩書きは「大本営陸軍参謀、情報第二部、陸地測量部担当少佐、渡辺 正」である。
 陸地測量部を解体、内務省地理調査所への看板架け替えという離れ業によって、戦後GHQ(連合国軍総司令部)の接収から救ったのである。
 その時歴史を動かしたこれら一連の出来事がなければ、我が国の測量・地図技術は20年遅れたであろうと言われている。当然、現国土地理院も異なった歴史を辿ったことであろう。
 この陸地測量部から地理調査所を経て、国土地理院誕生までの数奇な運命を、戦後60年余秘匿されてきた史・資料を公開して、取材と現地調査により万感の想いで綴った実録である。
 第一は、昭和20年8月9日から10日にかけて開かれた御前会議において、天皇陛下のご聖断により戦争終結となる。この時から陸地測量部の組織存続と、明治以来営々と築いてきた測量・地図技術を、我が国復興のため遺そうと奔走した秘話である。
 それは、8月15日正午の玉音放送を挟み、わずか2週間の8月31日には陸地測量部を解体、9月1日に内務省地理調査所へと看板を架け替えてしまうというドラマである。
 第二は、9月23日から27日までの秘話である。
 GHQのマッカ-サ-司令官は、8月31日に厚木飛行場に到着して横浜入りするや直ちに指令を出した。「地図は全ての基本だ、それを確保せよ!」「松本地区に参謀本部の資産が色々とある。その中でも陸地測量部を点検・接収する」という内容であった。
 そして「視察団に随行する将校を一人だけ出すように」と要求があつた。この時渡辺参謀に白羽の矢が立ったのである。
 9月23日、日比谷のGHQ本部を出発した。フォ-ドの黒いセダンを先頭に、ジ-プ4台、計5台の車列であった。
 一行は9月27日に帰京するが、この間の出来事こそ日本の地図史で、その時歴史は動いたの一瞬に遭遇する。まさに渡辺参謀の苦渋と緊張の5日間の実録である。
 この時、地形図の原版(銅版)が救われたからこそ、戦後すかさず地理調査所(現国土地理院)が地形図等を発行し、我が国の復興に役立てたのである。
 筆者は旅ジャ-ナリストとして、戦後60余年経った昨年、同じ季節、同じ時間にあわせて、出来るだけ同じ行程を辿り、当時の渡辺参謀の心境を追体験した。
 以下、地図の統制時代の秘話を含め、主な目次を紹介する。


はじめに
・日本の地図を作った「百万歩の男・伊能忠敬」/日本の測量・地図技術を救った男「参謀・渡辺少佐」/終戦前後の陸地測量部/渡辺参謀のプロフィ-ル
第一章 地理調査所(現国土地理院)はこうして誕生した
・ベ-ルを脱ぐ陸地測量部から内務省地理調査所へのドラマ/明治以来積み上げた測量・地図技術を救うために/「陸地測量部を存続させましょう!」/陸地測量部の廃止と組織移管に向けて/木製の看板「内務省地理調査所」
第二章 日本地図史に残る運命の一瞬
・GHQ(連合国軍総司令部)視察団松本へ行く/運命の一瞬「これは何だ?」/地図原版(銅版)を確保/陸軍戦史には「地図が不可欠」~渡辺参謀の記述/近代古地図は戦争と共に/「兵要地理調査研究会」の立ち上げ~米軍の関東上陸は何処か~
第三章 昭和20年のドキュメンタリ-~行ってみるまで知ることなし~
その一 我が国の地図史に残る意見具申の行程を辿る
その二 GHQ視察の行程を辿る
・9月23日、日比谷第一生命ビル(GHQ本部)を出発/大垂水峠越えで相模湖へ釜無川沿いに韮崎から小淵沢・信州蔦木宿を経て諏訪湖へ/篭坂峠越えから富士山の須走を横目に御殿場へ/箱根街道に入り最後の難関長尾峠越えから宮ノ下へ
第四章 地図の統制時代
・日本統制地図㈱設立/整理統合による地図業界/社団法人地図研究所(後の日本地図学会)設立
第五章 終戦前後の秘話
第六章 国家基準点の史蹟を訪ねて
第七章 風化させてはならない話~つらい地図づくり
第八章
・全国主要都市戦災概


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