今回は、斎藤利三の想像話です。
私の想像では、天海と一緒に徳川幕府を牛耳ったと思っています。
それでは、想像話の前に、まずは正規のお話です。
利三の最期は、主君・明智光秀が落武者狩りで命を落とした数日後、捕縛されて京都で処刑されるという、非常に壮絶なものでした。
天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変の直後に起きた「山崎の戦い」で、利三は明智軍の先鋒(実質的な総大将格)として羽柴秀吉の軍勢と激しく戦いました。しかし、圧倒的な兵力差を前に明智軍は壊滅。光秀は居城の坂本城を目指す途中で討たれますが、利三は戦場を脱出して近江国堅田(現在の滋賀県大津市堅田)へ落ち延び、潜伏しました。
堅田は、明智家の重臣であった猪飼昇貞(いかい のぶさだ)の領地でした。利三はそこを頼って身を隠していましたが、秀吉軍の捜索の手が及びます。
当時の一次史料である『兼見卿記』などによると、猪飼の身内(あるいは地元の土豪)によって潜伏先を通報され、生け捕りにされてしまいました。
重罪人として京都へ護送された利三は、同年6月17日(または18日)、秀吉の命令によって京都市中を引き回されたのち、六条河原(現在の五条大橋〜正面橋付近の河原)で斬首(処刑)されました。
利三の悲劇は首を斬られただけでは終わりませんでした。当時の公家・山科言経の日記『言経卿記』によると、7月2日、先に落命していた明智光秀の首と、斎藤利三の首が、それぞれの胴体と繋ぎ合わされ、京都の粟田口(刑場)で並べて磔(はりつけ)にされ、衆目に晒されたと記録されています。
これは、織田信長を討った謀反人に対する見せしめとして、極めて残酷な辱め(はずかしめ)でした。
と、これが正規のお話です。
味方だと思っていた人に売られてしまい、処刑され晒されてしまってます。
私の想像話をします。先にも書きましたが、
斎藤利三は生き延びた!です。
まず脱出ルートを考えました。
赤線のルートだと考えました。
醍醐寺➡️横峯峠➡️千頭岳➡️音羽山➡️大谷➡️比叡山
ところが、大谷には関所がありました。
逢坂関所です。大谷を越えなければ比叡山には山道を行くにしても、この関所付近を通過しないといけない。
秀吉は、鳥羽口、伏見口、竹田口、粟田口と南側、東側の関所に兵を配備して、厳重に通行人を監視していたと云われています。そんな所を通過出来る?
元気な体なら大丈夫かもしれませんが、私は脱出ルートを探していて、このルートがこの時の利三にはムリだと思い知る事を見つけてしまいました。
『利三は、重病を患っており、しかも戦で怪我をしていた。』
ガーン![]()
でしたね。そんな状態では歩けない…
そこで、もう一度考え直しました。
そもそも、光秀は亀山城を建設したころから、本能寺の変を計画していたとしたら?叔父に預けていた息子を独立させて、妙心寺に火の粉がかからないようにした。そして、息子にも被害が出ないように、貝塚市に海雲寺を建てさせ、仏門の僧として確率させて命を守った。貝塚市を選んだのは、明智一族が住んでいる地域で、もしもの事があっても匿ってもらえる地域だから。
そこまで計画していた人が、右腕と言われている人を守らないのかなぁ?と悩みに悩んで考え抜いた結果、こうではなかったのか?というルートが見えました。
本能寺の変は、明智光秀が明智一族を守るために考え抜いた策である。一族も同じ思いであった。
そして、それは『明智』ではなく、『土岐』という血を守るためのものであった。
これが前提で、成り立つルートを発見しました。
お話しますね。想像の話ですが![]()
『光秀は東の醍醐に逃げた。そして、討ち取られた。』
『山崎の戦い』そのものが光秀は負ける計画で進めていたと思っています。そのため脱出ルートというものを準備していた。そう思っています。
光秀が先に妙心寺から比叡山を目指して出発。
利三は怪我をし、病気だったこともあり、妙心寺に匿われていた。これが利三の脱出ルートです!
◾️妙心寺さんの拝観コース図
妙心寺は大きなお寺で、名なたる大名でも入れない領域が存在しました。開山堂と呼ばれる建物で、妙心寺の初代(開山)である関山慧玄(かんざんえげん)の遺骸が埋葬されている、寺内で最も神聖な場所です。そういった建物内に匿われれば秀吉すら近づけないのです。
そして、妙心寺の最高地位の僧侶が密宗和尚。
光秀の叔父さん。鉄壁過ぎる隠れ家です。
傷を癒した後、利三も光秀が通ったルートを通り、比叡山を目指した。
和尚が信用できる山伏を準備して、比叡山まで道案内をさせて、利三御一行を送り届けた。
これが私の利三脱出劇の想像話です。
そして、光秀はもう一つ仕掛けていた事がありました。
利三の影武者を実際に醍醐寺から堅田に向かわせた。そして、影武者たちは堅田に行くように指示を受けていた。堅田は、明智家の重臣だった猪飼昇貞(いかい のぶさだ)の領地です。
この話は、前にお話した徳川家康の伊賀越えでも使われた策です。家康は海から脱出。その反対側の伊賀越えに影武者を実際に行かせる。これは実績のある、噂を本当にしてしまう錯乱策です。
一行を見た人たちは、噂話を始めます。
『家康一行を見かけた。伊賀に向かっていた。』
それを聞いた敵部隊はそっちに行かざるおえない凄い作戦です。
話をもどします。
そして、利三影武者一行は、命かながら堅田までたどり着いた。…が、猪飼が秀吉軍に囲まれてしまった。猪飼は、影武者と分かっていたので、自分たち一族を守るため、影武者を利三として引き渡した。
密宗和尚から始まった噂話を、実際に影武者に行かせる事で噂話を本当の事にして、そちらに気を向かせて人員を割かせて、京都市内の秀吉軍を手薄にする。その隙に反対側の西から利三を脱出させた。
見事な明智一族の連携策ですね。
こうして、利三は明智光秀と合流して潜伏しました。
どうでしょうか?私の想像話ですけどね![]()
次は、明智左馬介の想像話を書く予定です![]()











